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カプチーノ

シナモンが嫌いだ。

コーヒーが好きで、カフェラテが好きで、カプチーノが大好きだ。家でもカプチーノをよく作るようになったし、たくさん作ることでだんだんと慣れてきた。ドリップはずっとうまくできなかったけれど、最近、少しずつ美味しいコーヒーが淹れられるようになった。喫茶店で「ブレンド」と頼んだ時のようなものも極稀にだけれどもカップのなかに出現してくれる。

その「極稀」と同じぐらいの確率だけれど、カプチーノにシナモンを入れてくる店がある。シナモンパウダーをこれでもかとふりかけてくる。香りの攻撃は回避不能だ。前述の通り、わたしはシナモンが嫌いだ。あまりにシナモンの香りばかりするので、その「カプチーノ」はそのままに、ホットのカフェオレを注文してその場をごまかした。わたしはカフェオレもあまり好きではない。

「何が嫌いか」より「何が好きか」で語ったほうが人生訓としてはかっこうがつくが、生活の知恵、人付き合いのしくみとしては「何が嫌いか」を語っておいたほうが「愛で溢れる」と思っている。

もしあなたがミルクのアレルギーをもっているのなら、わたしはミルクを使っていない美味しいお店でお茶をしたい。あなたが煙を嗜まないのなら、なるべく禁煙の店でお茶をしたい。

足をひどく怪我していたり、とても重いものをもっていたりする人がいたとする。車中、自分は座っていたとする。ならば、席を譲りたいという気持ちは悪いものではない。嫌な状態をとりのぞきたいという至極ふつうの隣人愛はあればあるほど嬉しい。

誕生日のサプライズプレゼントより嬉しい愛ではないけれども、隣人への微笑ましい愛として、ささやかながら人間の良さを感じさせる気がする。燃え上がるような恋人の愛とは別の、ホットカーペットのような緩やかな人類への愛を感じる。

ごく親しい人に嫌いなものを吐露することで、嫌いなものを共有し、それらから守り、遠ざけ、個人と個人のとくべつな関係のちいさな一歩となるのではないか。「さかな、苦手やねん」と言われたら寿司を選ばないという程度だけれど、ふたりの時間を無意味に悪くしないための、小さな愛のかけらが生まれる瞬間。

より好きになりたい、あなたを尊重したい、ふたりの時間を有意義にしたいという思いを深めるには、何が好きかよりも「何が嫌いか」をふたりでつかんでいることが大事だ。脳は嬉しさよりも悲しさをよく記憶する。思い出を悲しみで塗りつぶさないよう、相手を配慮するための「嫌い情報」はあればあるほど嬉しい。

さて、わたしはシナモンが大嫌いである。

言葉と音楽を愛する小さな獣たちへ なかよくしてください ふわふわのパンより