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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』 庵野秀明 ※ネタバレ注意


 正直に言おう。
 僕はエヴァンゲリオンにあまり思い入れがない。


 え、昔あんなにセカイ系について言及しといて? と古い知り合いの皆さんは思われるかもしれないけど、そう、僕は、この映画を待ち望んでいた多くのファン達に比べて、そこまでエヴァンゲリオンに思い入れがない。92年産まれ、物心ついた頃には既に世紀末、青春時代がゼロ年代、でも深夜アニメの存在すら知らなくてドストエフスキーとか読んでた田舎育ち。エヴァンゲリオンという「現象」には、高校生ぐらいの時から憧れに近い感情を抱いていたけれど、エヴァンゲリオンそのものは、そもそもこれは僕のものではない、という感覚をずっと持っていた。
 これは誰かにとって大事なものだ。
 でも僕のものじゃあない。
 因みに僕等の世代のバイブルといえば、デジモンアドベンチャーであり『ぼくらのウォーゲーム』であったわけで、それ故にサマーウォース以降の細田守にしっくりこない同年代の人間ってわりといると思う。
 前作エヴァQは確か兄と一緒に観たはずた。観賞後は二人して『巨神兵東京に現わる』のクオリティに盛り上がって、本編のほうは、まぁ、うん、みたいな感じだった。因みに平成ゴジラもまた僕の心のバイブルである。僕はきっと死ぬまで『FINAL WARS』のことを認めないだろう。だから『シン・ゴジラ』という傑作に出会ってようやく、僕も庵野秀明という存在に追い付いた気持ちになった。


 エヴァンゲリオンにそこまで思い入れのない僕は、でもネタバレが怖くて、3月10日というわりと早い時期に観に行った。そして観賞後にちょっと泣きかけてしまった。ああ、エヴァンゲリオンという「現象」はここに行き着くのか、という感動があった。
 きっとエヴァンゲリオンに思い入れのある人達はもっと痛烈な感動があったんじゃなかろうか。本格的な解釈や考察は有識者に任せるとして、取り敢えず僕の雑多な備忘録だけ。以下ネタバレ。ネタバレにならない範囲で、一言だけ、面白かったです。

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 終わった!
 そう、終わったのだ
 それだけで、エヴァンゲリオンという「現象」をずっと遠くから憧れの眼差しで眺めていた僕には衝撃的だった。終わったのだ。今やネタにすらされつつあるエヴァQを見事に補完して終わったのだ。エヴァンゲリオンという巨大な虚構が抱えていた膨大な業をすら背負い切って終わったのだ。シンエヴァのお陰でエヴァQの評価は多分ひっくり返ることになるだろう。あの壮大な遠回りが無駄じゃなかったのだ。


 エヴァンゲリオンという「現象」が終わった、と僕が確信した要因はざっと三つある。
 一つは、シンジが大人になってしまったことだ。物語序盤で、かつての同級生達が先んじて大人になって現れる。この展開にも驚いたのだけど、立派な大人に成長した彼等は、まだ子供のままだったシンジをちゃんと導いてくれるのだ。シンジは彼等の手厚い優しさによって精神的に成長する。仲間達もまた彼の成長をちゃんと追認する。そして遂にはあの父親と真っ正面から向かい合うことにまで成功してしまった。
 エヴァンゲリオンは、少年の成長物語が破綻することで伝説になった/なってしまった。新劇はその成長物語を途中まで成功させ、そしてエヴァQでまた破綻させることで伝説を(悪い意味で)追認した/してしまった。その伝説を、庵野は今度こそ我が手で終わらせてみせたのだ。そうか、エヴァンゲリオンを終わらせるためには、その前に破綻をすら一度強引に捩じ込まねばならなかったのか、とさえ思えてくる。


 二つ目は、凛々しい大人になったシンジとまるで対を成すように、異形と化してなお大人になれなかったゲンドウの独白をたっぷりと描いてみせたことだ。
 全ての元凶でありながら、息子を見放し、妻と再会するために世界をも滅ぼそうとした男の弱さを、シンエヴァはとうとう本人自ら息子の前で吐き出させてみせたのである。ぼろぼろと情けない心情を吐いていくゲンドウの姿に、僕はやはり衝撃を受けた。大人になりたくない子供と、大人になれなかった大人。そんな二人がとうとう対話を始め、なんとエヴァに乗って真っ向からぶつかり合う。この展開を想像してた人間はどれだけいただろう。
 そしてシンエヴァは、そんなゲンドウという大人になれなかった弱い大人にすらちゃんと救済を与えた。この物語を二十五年に渡って破綻させ続けてきた大人になれない大人が、確執していた息子と正面から向き合い、失われた妻を抱き、終わらないはずの物語の終わりを認めたのだ。


 そして三つ目……メインヒロインであるはずの綾波(正確にはそっくりさんだけども)が中盤で衝撃的な退場してしまうということ。
 所謂セカイ系には「キミとボク」という一対一関係が前提にあった。その元祖とされる本作では、ここ「キミ」は綾波だったはずだ。その構図は、エヴァQという問題作を挟みつつ、シンエヴァにまで続いている、ように思われた。でも前半であんなに村の生活に馴染んで幸せそうに描かれた綾波は退場する。決定的に不可逆な消滅。しかしもう、シンジは再び塞ぎ込んだりはしなかった。シンジはこれを決定的な契機として子供の時代を振り切ったのである。
 エヴァ破において文字通り世界と引き換えに少女を救った少年は、その少女の残酷な消滅を通じて成長を遂げて、自ら戦場に進み出て世界を救った。そしてエヴァという呪いに囚われていた面々を片っ端から救い上げた。彼はもう多くの人間を救うことが出来る人間になっていた。ラストシーン、大人になったシンジと一緒に駆け出すのが、綾波でもアスカでもなくマリさんであったというのは、最早ここには「キミとボク」という狭い世界なんて存在しないことをすら意味していたのかもしれない。そしてとても、とても普通な、壊れていない広々とした世界の上空映像。


 子供のボク、特別なキミ、そして抑圧する父親。この歪な三角関係……実は失われた母親まで含んだ四角関係……が最後の最後まで解決しない、という物語的な破綻こそが、エヴァンゲリオンという「現象」においては重要な骨格の一つだったはずだ。しかもその破綻がそのまま世界滅没に直結する設定だったから、ポスト・エヴァンゲリオン症候群なんてものが産まれてしまった。でもシンエヴァはその三つ全てに真っ当な結末を与えた。終わったのだ! 世界は無事に救われた。僕ですら思わず泣きそうになった。それも父子だけではない、他の登場人物達……綾波やアスカやミサトさんや加持さんや同級生達や冬月さんやカヲルくんまで……にもこの物語は一定の終わりを与えた。個々の終わり方には賛否もありそうだけど、決して誰のことも投げ遣りにしなかった。
 伝説的な破綻から始まった、このいつまでも終わらないはずの「現象」が、二十五年も掛けてここまで徹底的に終わったのだ。僕はその歴史の厚みに涙しそうになった。これはメタ的な感動なので、本編に対する感動そのものというわけではないけれど、最早「現象」となったエヴァンゲリオンにおいて、この感動はきっと多くの人間を揺さぶっただろうと思う。

 シンエヴァが凄かったのは、あの空前の問題作……エヴァ破の熱い展開が何処へやら、豹変した世界、豹変した仲間達、設定過剰と説明不足のせいで何も分からず混乱するシンジ(及び鑑賞者達)という、下手したら大失敗作ですらあったエヴァQとしっかりと地続きな世界観で、それどころかその説明不足だった部分をちゃんと補完したうえで、元々のエヴァンゲリオンとは全く違う結末に見事に着地してみせたことだ。
 特に今やネタにすらされつつあるエヴァQのミサトさんの豹変っぷりだけど、今回やっとそれに対する充分なフォローがなされたと思う。でも流石に加持さんとの息子がいたという事実は衝撃だよ! 派手で過激でぶっ飛んだ戦艦バトルが中核を成す中盤以降では、全ての責任を背負って艦長として振る舞う彼女の華々しい活躍を観ることが出来る。そして前作であそこまで擦れ違ってしまったシンジとも和解する。
 主要登場人物がほぼ生き延びる/救済されるシンエヴァにおいて、ミサトさんは明確に死によって物語から完全に退場した数少ない……え、もしかしてミサトさんと冬月さんぐらい?……存在である。でもシンジとも和解し、怪我を負いながらクルー達を鼓舞し、髪をほどき、往年の姿を復活させつつ、けれど同時に全てを背負う艦長として雄々しく突貫していくミサトさんの死に様に、僕は感動するほどに納得させられてしまったのだ。ずっとゲンドウの後ろに控えていた冬月さんが見事な戦略でヴィレを食い止めて消えていったのと同じく、これはこれで、彼女にとっては救済だったのかもしれない。
 前作では初手から何故いきなり超次元戦艦バトル? と意表を突かれたものだけど、本作ではむしろ超次元戦艦バトルこそがメインであって、その過激な映像を存分に堪能することが出来る。まぁ文字通り超次元的な無茶苦茶な戦艦同士の殴り合い。何が何やら全く分からぬが派手、派手、派手! 加えて戦艦の正体や加持さんとの関係であったり、敵の罠に嵌められて利用されたり背骨を槍に変えて突貫したりと、余りにも得体が知れなかった前回から沢山のフォローがあった。


 意表を突かれたといえば、まさか綾波のまったり農村ライフが始まるとは思ってもいなかったのです。
 このレトロで牧歌的で、無垢で暖かくて優しい、こんな今にも滅びそうな世界でも人々が健気に幸せに生きる小さなコミュニティは、ネルフという近未来的で無機質で、危険で閉塞的なコミュニティとは見事に正反対だった。この農村風景そのものがエヴァンゲリオンという「現象」への痛烈なアンチテーゼになり得るだろう。ここには、少年少女を導いてくれる優しい大人達がいる。塞ぎこむシンジに無理強いをせず見守ってくれる大人達、無知で好奇心旺盛な綾波に色んなことを教えてくれる大人達(そして子供達)がいる。
 そしてここには真っ当な父親と真っ当な母親、そしてその愛情を受ける子供達がいる。綾波に色んなことを教えるのが、エヴァンゲリオンという「現象」においては常に暗く重たいイメージを重ねられていたはずの、しかしそんな呪縛とは今や何の関係もない、優しく包容力のある母親であるというのも、これまた強烈なアンチテーゼだ。この村はシンジを追い詰め続けてきたネルフというコミュニティから彼を切り離し、彼に大人になるための、父親と向き合うための重要な契機を与えてくれる。
 この牧歌的コミュニティこそ、エヴァQという問題作が産み出した最高の産物であったのだろうと思う。物語を終わらせるにはシンジが大人にならねばならないが、第三東京市やネルフといった危険で閉塞的な世界では、彼は大人にはなれない。そこは文明の最先端であると同時に文明の突き当たりだ。エヴァQは一方ではシンジがかつての仲間達に拘束される、という形でその閉塞感を突き詰めてしまった一方で、同時に一度行き詰まった文明をリセットした世界の可能性を与えた。前作で当て処なく歩き出した三人が辿り着いた場所としては見事な選択だ。これは、90年代の閉塞感を象徴する作品の一つとまで言われたエヴァンゲリオンが、二十五年も掛けて90年代の閉塞感から本格的に脱出したという意味にも思える。

 そう、本作は、既に時代の閉塞感などというものを背負ってはいない。それが大事なのだ。
 恐らくエヴァ序、エヴァ破、エヴァQの時点で、そういう時代的な責務からは解放されていたのだろう。ただ一向に完結しない新劇、そして展開がネガティブ過ぎたエヴァQのせいで、エヴァンゲリオンという終わりのない「現象」は延命されてしまった。しかしシンエヴァは間違いなく、時代の閉塞感なんてものを背負ったりしてない。むしろ前向きですらある。
 確かに、本作でもシンジの眼の前で綾波が消滅するというショッキングな出来事は起きた。でも綾波は、牧歌的コミュニティに生きる人々から貰った色んな暖かい感情を、その優しさに満ちたバトンをちゃんとシンジに繋いだ。シンジは綾波の消滅という悲劇を乗り切った。そしてこのバトンを、遂に対立していた父親にまで繋げたのだ。だから綾波の消失ですら、余りネガティブな印象を与えるものではなかった。
 例えば父子の最終決戦は、セットのうえ、舞台裏が露出した偽物の世界で行われる。露骨に造り物じみた虚構の世界で行われる不自然な最終決戦。建物のオブジェクトは横に滑り出す。けれどここには「エヴァンゲリオンなんて所詮は虚構だ」というメタ的な批判性は余り感じられない。確かにシリアスな笑いはあるけれど、むしろ僕には、二十五年も終われなかったせいでずっと中途半端に宙に浮いていた虚構を供養しているようにすら思えたのだ。まるで造り物のような不安定で未完成だった世界が、二十五年も繋がり繋がって遂に父子の最終決戦にまで辿り着いたのだ。
 それに続く難解で悪夢的な精神世界での対話は、物語の破綻の露呈ではなく、ここでは複数の人間を一度に救済するための便利なギミックになっている。


 使い方によっては閉塞感を強化するはずのメタ演出や精神世界ですら、本作ではむしろポジティブな効果として巧みに使われている。僕には、これはエヴァンゲリオンという「現象」を今度こそ終わらせようという前向きで強靭なベクトルがシンエヴァを貫いていることの証左であるように思えた。
 ぶっちゃけ本作だって意味不明な設定と理解不能な展開が満載である。何が起きてるのか、何の話をしてるのか、何を遣ろうとしてるのか、鑑賞者が理解する前にどんどん話が進んでいく。わりと肝心な精神世界の対話ですら、要するに何が何だったのか一度の視聴では全く掴みきれなかった。まして首のない真っ白な人形が大地を行進してる意味なんて分かるかっ。でもそんな意味不明で理解不能な部分を脇にうっちゃってしまえば、本作は間違いなくエンターテイメントしている。本作は面白かった。本作は健全ですらあった。
 物語の終わりに向けた強靭なベクトル、というのはエンターテイメントにおける重大な条件の一つだと思う。それがどんな結末であれ、僕達はその広大な物語世界が行き着いてしまう場所に納得したいのだ。そしてエヴァンゲリオンは、そのベクトルがぶっ壊れて破綻してしまったために文学になってしまった。さながら作者の死によって未完のままこの世に放り出されて世界に衝撃を与えたフランツ・カフカの三部作のように。新劇は文学にならなかった。新劇はちゃんと終わりが遣ってくるエンターテイメントだ。
 でも、それが正解だったのだ。

 敢えて厳しめに見れば、流石に「良く分からないにも程がある」ってぐらい分からないところは分からない。アナザーインパクト、はい何が何やら全く理解不能です。一回の視聴では僕のような素人にはまず無理。でもエヴァQ以降におけるアスカやマリさんの設定部分とか、結構重要な部分までいまいち理解出来なかったのは悲しかった。まぁでも、意味不明理解不能ぐらいがエヴァンゲリオンという「現象」の醍醐味だろうし、あとは有識者の解析を待つとして、僕は素直に翻弄されておこう。
 シンジが遂に大人になるということ。本作の核心的な部分であり、エヴァンゲリオンという「環境」をここまで体験してきた人間なら自然とその意味を汲み取ってしまうだろうけど、でも作品単体で考えるなら、その成長が駆け足過ぎたなという印象はあった。
 やっぱり問題はエヴァQである。前作は余りにも展開がネガティブ過ぎた。彼をあそこまで痛烈に追い詰めておいて(普通にPTSDですから)そこから元の状態まで立ち直らせ、さらに父親と対峙出来る立派な大人にまで成長させるなんてのは、幾ら優しい大人達の手助けがあったとしてもこの尺では些か無茶が過ぎる。
 それに、シンジが大人になるために必要な舞台だったとはいえ、無垢で暖かくて優しい牧歌的コミュニティというありきたりなユートピアはちょっと都合が良過ぎたかもしれない。このユートピアを都合が良いと考えるか、或いはエヴァンゲリオンという作品が時代の閉塞感なるものから完全に解放された象徴とみるかは難しいけれど……それに綾波さん可愛かったし。


 そして新劇シリーズ全体で考えるなら、何度でも繰り返すが問題はエヴァQである。シンエヴァでの補完によって今後そこそこ評価は覆るだろうけど、しかし単体の作品としての突飛さ、不親切さ、ネガティブさは到底無視出来るものじゃない。
 今回大人になって立派になった同級生達の登場したのもあって、やっぱりヴィレの大人達があの時もっと適切にシンジに対応してれば……という残念さが際立ってしまった。エヴァQの大人達の対応次第では、もっと円滑にシンジは大人になれたかもしれない。そうすればエヴァンゲリオンという「現象」はよりスムーズに結末に辿り着けたはずだ。なのにエヴァQは丸々一作シンジを追い詰めるだけに終始してしまった。シンジの成長を続編に丸投げしてしまった。
 そのあたりは、当時の製作陣の製作上の苦労とかも大いにあったんだろうと思う。こんなにも長く苦しいプロジェクトに精密なプロットの一貫性を求めるのは酷である。でもそういう残念さが、戦艦バトル中心のシンエヴァで大活躍したヴィレの面々に傷を付けてしまっているのは確かだろう。あと尺の関係で、わりと個性豊かそうなヴィレの面々が掘り下げ切れていなかったのもちょっと惜しい。

 父子の物語の結末に関しては、エヴァンゲリオンという「現象」の締め括りとして僕は充分に納得が出来た。でもそれ以外の登場人物達に与えられた結末については……賛否両論があるかもしれない。
 ラストシーンである。現実か幻か分からないが……その曖昧さをシンジの首輪だけで表現するのは流石である……大人になったシンジと一緒に駆け出したのは、なんとマリさんだった。恐らく今回一番のネタバレ禁止ポイント。エヴァンゲリオンという二十五年も続いた「現象」の最後の最後に用意された巨大な爆弾。
 元々情報の少ないマリさんであり、さらにマリさんとアスカの関係とか、漫画版で披露されてたマリさんとユイさんの関係とかが複雑に絡んでくるから、たった一度の視聴で解釈するには余りにも厄介極まりない展開である。他にも、精神世界で加持さんとカヲル君を組み合わせるというなかなかの爆弾を投下しておきながら、駅でちらと映ったのは綾波とカヲル君の組み合わせだった。これは一体何を意味するのか。一方でダブルヒロインの一角であるはずのアスカは最後の最後に結局登場しなかった。しかも彼女はケンスケ(のはず……加持さんではなかったのだ)との繋がりを示唆されて終わるのである。
 キャラクター談義というものは各々の解釈が激しくぶつかりやすいものだが、今後の議論はきっと一筋縄ではいかなさそうだな、と思わず身震てしまった。僕の詰まらない杞憂であればいいけれど。


 大人になる、ということは、先にも述べた通り「キミとボク」の狭い世界を壊していくことでもある。
 あのほぼ実写映像な世界を、シンジとマリさんという奇妙な組み合わせがどたどた走っていく。僕には、これはこれで、エヴァンゲリオンという「現象」の結末として充分に相応しいと思った。これが綾波やアスカだったらどうだっただろう。この「現象」は寸前で終わり損ねていたかもしれない。二十五年も沈んでいた錨を引っこ抜き切れなかったかもしれない。
 二十五年もの間、強靭にシンジを縛っていた綾波やアスカとの厄介なしがらみは、この世界ではリセットされている。彼はもう自由なのだ。彼は景気良く階段を駆け上がっていく。僕達が生きるような普通の街へと、この怪物もロボットもいない現実のなかへと。或いは、これはあくまで行き過ぎた幻、二人の帰還の道中なのかもしれないけれど、どちらにせよ、彼等は遂に終わりの向こう側に飛び出すことが出来た。それを祝福しないでどうする?

 まぁ、結論から言えば、普通に面白かったです。
 単体の作品としてもちゃんと面白かった。
 不穏さを織り混ぜながらも丁寧に描かれた牧歌的コミュニティの美しさ。そこで幸せな最期の日々を送る綾波の可愛さ。ハードなメカニックSFのフェチズムたっぷりな拘りの深さ。超次元戦艦バトルやアナザーインパクト阻止作戦の意味不明理解不能だけどやたら白熱する過激さ。世界の終わりの視覚的な気持ち悪さ。メタ演出と精神世界映像のなかで因縁の父子が対決する無茶苦茶さ。あのシンジくんが……成る程、これはもうシンジさんか、あの自分に引き籠る体操座り姿がデフォルトのシンジが、積極的なコミュニケーションによってみんなと対話していくラストの感慨深さ。まさかここ一番のシーンで唐突に松任谷由実が流れ出す不意討ちには、その露骨なあざとさに痺れまくってしまった。いつの間にか新劇御用達になっていた宇多田ヒカルの最後のBeautiful World。空中戦の文字通り縦横無尽なカメラワーク。メタ演出時の地上戦における露骨な特撮っぽさ。もう語るまでもないテンポの良いカット割りの妙技。無際限に沸いてくる映像的・演出的なイマジネーションの数々。
 『シン・ゴジラ』では徹底的に事態に対処する役人達に焦点を当てて一般市民を描かなかった庵野が、ここではヴィレを離れて村の生活という一般市民のコミュニティをじっくり描いていたのも興味深かった。ここに『シン・ゴジラ』とともに伝説の2016年を打ち立てた『この世界の片隅に』の、あの悲惨な現実を前に健気に強かに生きていく人々の力強さを想起してしまうのは流石に早計だろうか。そしてエヴァQというネガティブに溢れた前作に打って変わって、本作の物語の終わりに向かう前向きで強靭なベクトルが全く揺らがなかったのは、事前に『シン・ゴジラ』というポジティブな傑作娯楽映画で成功を得ていたからなのかもしれないとも思う。
 でもやっぱり実写とアニメでは方法論が大分違うみたいだ。『シン・ゴジラ』という経験が与えた実写映画的なメソッドの反映については、これからの僕の御勉強です。勿論『シン・ウルトラマン』も観ますよ。既に予告映像が面白い。

 さてはて。
 一度の視聴で、しかも素人に過ぎない僕が適当を書き連ねられるのはせいぜいここまで。記憶の誤認などあったら御免ね。映画館の椅子が合わないのだ。窮屈な場所に長時間座ってると気分が悪くなってしまう。しかも尿意への恐怖、その対策としての水分絶ちによる喉の渇き……殊更に、難解で複雑なアニメ映画を観れるような身体状態じゃない。それで有識者と対等に渡り合うのは無謀である。
 意味不明理解不能な部分の解説や解釈、これまでのエヴァンゲリオンとの接続や比較、マニアックな部分の掘り下げ等々、あとは有識者が全てを語ってくれるだろう。既に有識者による報告書は次々と現れている。そしてついさっき、遂に有識者によるネタバレ論評を一つ覗いてしまった。ここから先は、僕はもう適当を語れなくなってしまう。


 兎に角、僕にとって大事なのは終わったのだ! というこの感動なのである。終わったのだ。庵野は、ここまで真っ直ぐにエヴァンゲリオンを終わらせたのだ。さようなら、全てのエヴァンゲリオン。作中でもまざまざと見せ付けられるこのテーマは、余りにもメタ的な意味が強過ぎる。余りにも露骨過ぎる。けれど、その露骨さが許せてしまうのは、これはただの物語の終わりじゃない、エヴァンゲリオンという「現象」の終わりなのだと、余り思い入れのない僕ですら理解しているからだ。
 終わったのだ、という奇跡。余りにも壮絶に終われなくて伝説と化したアニメが、二十五年掛けてその伝説に真っ当なピリオドを打ったという奇跡。
 終わるというのはとても難しい。大ヒットした少年漫画がボロボロになるまで無理やり連載を続けさせられたり、シリーズの初代や初期の出世作とかが名作過ぎてそれ以後が蛇足になってしまったり、凄く面白かったアニメが最後の一話二話でろくでもなく詰まらなく破綻してしまったり、ファイナル・ウォーズとか小さな勇者たちみたいな珍作凡作によって怪獣特撮が終わり損ねたまま潰えてしまったり……え? 『シン・ゴジラ』ですか? 勿論ゴジラ復活の感動にうち震えたけどこれもやっぱり庵野じゃねぇか! そのままガメラも撮って下さい御願いします。

 そういえば僕は、このために自分は何年も待ち続けたんだ! という経験が余りないのである。
 そりゃ平野耕太や岩明均の新刊とか、冨樫義博の最新話はずっも待ち遠しいけど、やっぱりどちらも僕のものではない。月リメが完成して狂喜する型月ファンのようにもなれない。愛読したボンボン作家達とか、桜玉吉さんとかについては、もう生きてただけで充分に有り難いのです。
 僕は何も持っていない。僕はみんなに比べれば随分と空虚な人間である。本当はエヴァンゲリオンという「現象」を語る資格なんて持ってなかった。でもそんな僕ですら、エヴァンゲリオンという「現象」が終わったのだ、というこの感動だけは末端の末端で確かに味わうことが出来た。本当に有り難う、庵野監督。あなたは本当に本当に凄いことをやり遂げた。おっと御免、前言撤回。休載中の『宝石の国』のラストを拝むまでは死ねない。

 では、僕はこの程度で。
 「現象」に区切りが付いたって、エヴァンゲリオンという「コンテンツ」は今後も精力的に生き続ける。僕は皆さんが元気に盛り上がってるのをこっそり横から楽しむことにしよう。しかし、こんなにも敏感なネタバレ厳禁ムード、あの『シン・ゴジラ』でさえここまで過敏にはなってなかったはずだ。いやでも、これは絶対にネタバレは出来ないですよ……僕もネタバレされてたら発狂すると思う。思い入れのない僕ですら。
 蛇足。きっと往年の猛者達がわらわらっと集まってくるんだろうな……と戦々恐々してたのだけど、明らかにエヴァンゲリオン放送当時産まれてない(僕ですら当時三歳なのに!)大学生ぐらいの若者とか、制服を着た高校生とかが、かなりの人数映画館に来ていたのである。というか隣に座ってたの女子高生だった。幾らここが北陸の田舎ではなく関東の都会だからって恐るべしエヴァンゲリオンというコンテンツの求心力! だとすれば、今後は「新劇全部観た! これからテレビ版と旧劇観よっと!」という若者が絶対に現れるはずである。なんて恐ろしい新時代の幕開け。でも往年の猛者の皆さん、そんな新人類の到来をどうか優しく見守ってあげて下さい。


 蛇足その2。清家雪子の『月に吠えらんねえ』のラストとシンエヴァのラストの奇妙な類似について。
 神殺しというモチーフ。現と幻を繋ぐ電車というモチーフ。精神世界的な場所での生者・死者の境目を逸脱した対話。メタ性の高い世界観。壊れ掛けた世界を組み換えるために(自らを)槍で貫くというイメージ。更には、愛しきひとに出会うために終末の場所に立ち会おうとする黒ずくめの男性まで。世界再構築系のラストというのは、恐らく既にある種のパターンが完成してるものなのだろうだけど、それを考慮してもまるで『月に吠えらんねえ』のラストがシンエヴァのラストの歪な変奏であるかのように(勿論『月吠え』完結が先なのに)思えてしまったのは不思議だった。
 清家さんが実はエヴァンゲリオンに影響を受けていて、計らずもその結末を自分の作品で先取りしてしまったのか。それとも単に世界再構築系の先達から受け継いだパターンがそっくり同じなだけだったのか。或いはもっと壮大な類似が産み出した帰結……つまり近代文学という呪われた歴史に決着を着けようとした清家さんの苦闘が、そのままエヴァンゲリオンという呪われた歴史の結末に挑んだ庵野とシンクロしてしまったが故の類似だったのだろうか。 
 エヴァンゲリオンという呪われた「現象」は、作者の手によって完膚なきにまで結末を迎えた。では、この文学という名の呪われた「現象」に希望に明るい結末を与えるのは……一体誰なのだろうか。本当に終わりなんてものは遣ってくるのだろうか?


 ではでは。
 やっと安心して寝れます。お休み。


2021年3月10日 映画館鑑賞



 


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