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世界のシステム解釈と「飛鳥井 救われた説」を提唱します-歓喜のID:INVADED 考察②

※ほぼ二次創作です

一昨晩アップした「β富久田保津説」が本当に幸運なことに今までご縁のなかったクラスタのみなさまのところへ届き、いろいろな感想や意見、知見をいただいており、本当にこの世界は最高だ…ありがとう…という気持ちで過ごしています。知見の中には元ネタや参考文献などのご教示なども多く、目についた全てをリスト化していっております。本当にありがとうございます。必ず制覇いたします。(謎の宣言)
多くはおそらく舞城作品で占められたそのリストを眺めながら、「せっかく今までエクストリームスポーツ感覚で舞城思想ナシでやってきたので、一旦この状態で、あの世界のシステムについて整理できるところまでやってみよう」と思ってしまいました。というかみなさまの反応やご指摘、示して頂いた考察などを読んでいたらそのあたりの話がわたしの中で繋がり、「書けるかも」と思いました。これからそれをやるのがこの記事です。「β富久田保津説」とは切り離し可能な、その前提となるべき部分について供述していく予定ですが、かんたんのため仮称などはそちらで用いたもの(「見出し6.さて、満を辞して、「富久田保津/名探偵アナイドは、可能性の過去からきた」説を提唱します。」の手前までに示した仮称や推論)を流用しますので、追記と言い訳を重ねて15000字に膨れ上がってしまった前愚説前半に目を通していただければ幸いです。

この稿は全体として、「ID:INVADED全体についての設定をどこまで推測できるか」という試みになります。重ねて自分に言い聞かせますが、決してβ富久田保津説の強化のための考察ではありません。

書き終えて戻ってきました。18000字あります。正気の沙汰じゃない。

1.バイアスがまだ少なかった初見時の疑問点

ほぼリアタイ(配信で1週遅れで追っていた)のときのメモが残っていたので、それを叩き台として示します。

《初見11話視聴後のメモの一部を可読に編集したもの》
・このままカエルちゃんをセカイ系異能ヒロインとして回収するのか?
・カエルちゃんは「欠損を以って完成する」統合へのアンチテーゼであるはず。外延し満たす?人類補完計画?今更?
・イドインベイデッド=侵略される自我、とはタイトルから思っていたが「侵略する」の主体は普通にジョン・ウォーカーなのか?となれば伊藤計劃「ハーモニー」級の規模のSFということになるがそれにしては尺の振り方が…

さて、設問に取りかかります。引用した3点から疑問点を整理すると、

《設問》
問1 INVADE「する」のは誰か?
問2 ジョン・ウォーカーの目的は何か?
問3 飛鳥井/カエルの役割は何か?誰がそれを設定したのか?

問1と2はやや重複しそうですが、β世界で飛鳥井が「このままだと私というタガが外れそう」「私というものが溶けて世界にあふれ出て混ざり合ってしまう」「世界に溶け込むことできっと私は世界のあり方のほうをねじ曲げてしまう」と予測していることから、INVADEの主体が本人の意志とは無関係に飛鳥井または飛鳥井の能力である可能性も高く、少なくとも「ジョン・ウォーカー一択、他はあり得ない」とは言い切れないと考え、別の設問としました。
問3において「誰が」と指す先としてまず上がるのも当然ジョン・ウォーカーですが、INVADEの主体がジョン・ウォーカーでない場合には、それもまた確定ではありません。

問2「ジョン・ウォーカーの目的は何か?」から手をつけて行こうと思います。

2.ジョン・ウォーカーの目的は何か?

まず候補に上がるのは「IDをINVADEすること」、他人の無意識を侵略することです。それがこの物語のタイトルだからです。これは目的としても設定できますが、あるいは、手段としても設定可能です。他人の無意識を侵略することにより○○したい、この○○の方が目的であり侵略そのものは手段に過ぎない、という可能性です。もちろん侵略そのものが目的である可能性もあります。

しかしタイトルはあくまで「ID:INVADED 」、侵略された無意識、という名詞です。目的(成果)そのものというよりは結果・あるいは過程で発生した「状態」を示すものに思われます。目的をINVADEとするなら、より妥当(より安直)なのは「ID INVADER」です。「:」はその前の名詞を、その後に続く文章が修飾するための記号です。「ID:invaded」という文字列が英文の中で現れた場合、それは「(侵略された)イド」です。この()の感覚がどのくらい一般的なのかは非常に曖昧というか、無理を言っている自覚はありますが、例を出すと「花を買った」と「(買った)花」は違いますよね。そういう感覚に基づいて、タイトルを参照するとINVADEは目的というよりは手段っぽい、INVADEDはそのときに発生した現象っぽい、と主張しています。無理があるなー!!でも続けます。目的ではなく手段としてINVADEがあり、現象てINVADEDが起こったとしても、決してその現象を軽んじるわけではありません。「(買った)花」が素敵であるように、「(侵略された)イド」という現象は厳然として悲劇であると考えています。その悲劇自体を目的とするか否かに関わらず、です。

物語をストレートに受け取ると、ジョン・ウォーカーの目的は「イド投入状態で現実の肉体が死ぬことによりイド内での自動修復を獲得。陳列されたさまざまな殺意のイドを楽しむ」でしたが、これにおいてもやはり「IDのINVADE」は手段として用いられているに過ぎない・あるいは必要な過程として経由するに過ぎないものと考えます。連続殺人鬼メイカーとしての彼もやはり、殺人鬼の夢への侵入幇助 と 夢での飛鳥井殺害 をそれぞれにあくまで手段としていて、目的だったようには描写されていないと感じました。まあ現実でも往々にして起こるように、手段と目的は時としてまれによく混同されますので、それについてこれ以上厳密さを探すことは難しいでしょう。

にもかかわらずここまで「手段ー目的」とわたしが繰り返しているのは、飛鳥井の特殊能力そのものだけは、早瀬浦の仕込みではありえないという点が強く意識されるからです。

作中でも「理性ー衝動」について言及がありました。わたしは「飛鳥井がいなかったら/飛鳥井に出会わなかったら=飛鳥井という手段がなければ、早瀬浦は合法的な夢の殺人をしようとは思いつかなかっただろうし、もちろん殺人鬼たちをそこへ招こうともしなかっただろう」と強く思っています。これは「彼がそれを実行したのは、飛鳥井に出会ったから/飛鳥井にその能力があったから」という意味です。つまり、わたしはそもそもの因果の因に飛鳥井とその能力を置いています。

飛鳥井がいなかったら/飛鳥井があの能力を有していなかったら、早瀬浦のあらゆる犯罪や倫理に反する行いは、なかった。
その点において、その点においてのみ、彼は翻弄された被害者である、とわたしは理解します。早瀬浦の無意識が、飛鳥井の能力という手段を持って侵略されたところから、この物語は始まっているのではないか。

「飛鳥井の夢に他人が入ってくる・あるいは記憶を暴かれる」という飛鳥井に対する侵略と、「飛鳥井の夢に入らされてしまう・あるいは飛鳥井の記憶を強制的に見せられる」という飛鳥井以外に対する侵略。
このふたつの文章は同じ現象について述べており、同時で、相互です。問1「INVADEするのは誰か」という問いがやはり立ち上がります。

3.「システムと現象」と「手段ー目的(トリガーー動機)」

《注意!!!!》
盛大なネタバレをずっとしてきましたが、ここから先ではさらに「STEINS;GATE」と「魔法少女まどか☆マギカ」のネタバレという暴挙に走りますので、未視聴・視聴予定・視聴中の方はつよく目を閉じながらブラウザバックしてください。(いにしえのインターネット)

さて、何段落か前で「現象」という言葉を使いました。考察をする中で他の考察モノ(?)について言及する危うさや脆さは理解しつつも、この形容は意図的で、「STEINS;GATE」「魔法少女まどか☆マギカ」を引き合いに出すためです。これらは「回避できない結果・未来を回避しようと試み続ける物語」で、この「回避できない結果」は、シュタゲから引用すれば「アトラクタフィールドの収束」という「現象」である、と形容できます。また、まどマギにおいてまどかが概念化したことも「現象(になった)」と形容できます。

現象とは、「システム(既定路線,運命と形容することもできます)が現れたもの」です。天候みたいなものですね。海があり、大気の層があり、太陽からの距離がある、そういったシステムによって、いろんな天気が現象します。あるいは地震などの災害も同様に現象です。

収束するアトラクタフィールド というシステムの現れとしてヒロインの死が現象し、まどかが死ぬ運命 というシステムの現れとしてワルプルギスの夜が現象します。では「(侵略された)イド」という現象は、どんなシステムの現れでしょうか。当然ながら、飛鳥井の能力です。そして飛鳥井の能力をシステムとして捉え直してみると、(早瀬浦ではなく)ジョン・ウォーカーという存在もまた、そのシステムによる現象である、と言えます。

イド内の人々が・そのイドの主すらジョン・ウォーカーだけを怖がるのはなぜか?という疑問を1話から抱いていました。そして、ジョン・ウォーカーとは、恐怖という概念が現象したものなのではないか、という推定をしていました。(作中ではその言葉で描写されていませんが便宜的に)まどかが「救い(アルティメットまどか)」という概念として現象するように、早瀬浦もまた「恐怖(ジョン・ウォーカー)」という概念として現象していたのではないか。そこに当人の意志は確かにあります。しかし作中で「理性ー衝動」について批判的に若鹿が「理性優位説」と指摘した場面もあるように、「当人の意志(目的)ー現象化(手段)」のどちらを優位とするかは保留することができると思います。富久田保津が数唱障害の苦痛を予期していながらも不可避に名探偵化してしまうのと同じように。よって、「イド内に現象するジョン・ウォーカーの意志」というものを、この推論では一旦棄却することとします。

4.早瀬浦の目的は?

では、「イド内にジョン・ウォーカーとして現象できるようになった、早瀬浦の意志(目的)」は何なんでしょうか。曜日殺人教唆や7という数字への固執から見て、「なんらかの神的なことに関わるんだろうな」ということはわかります。
まずよく見受けられる・かつてわたしも推察した、「身体の部位を奪う形の連続殺人なので、それらをつなぎ合わせるだとか、人体錬成を彷彿とする」という路線に関しては、NOだと思います。それに照らすと墓掘り・タイマンについて明らかに話が通らない上、穴空きがかなり曖昧になります。次に、月曜日が股裂きだったことから「これは出産・生誕のメタファー?墓掘りもいたし、人間の一生についてなんらかの順序があるのかな?」などと思い書き起こしてみましたが、その解釈も通りそうにもありませんでした。さらに天地創造との対置もうまくいかない。七曜に対応する惑星の順番なども試してみましたがNG。そもそも「タイマン」は呼称や殺害方法など他とのズレが大きいですし、「墓掘り」は人体の部位を含まず、「穴空き」は「穴空け」でない。
やはり「すぐ死ぬわけではない手段での連続殺人」以外の共通項はないのではないか。連続殺人鬼の順番・曜日・名称・殺人方法の差異などそのものについては、規則やシステムを見出せませんでした。

《連続殺人鬼と曜日の対応(参考のため)》
月曜日 股裂き
火曜日 顔削ぎ
水曜日 舌抜き
木曜日 墓掘り
金曜日 腕捥ぎ
土曜日 穴空き
日曜日 タイマン

5.手段が目的に先立つとしたら?

ここまでの思考は「目的」を軸にしたものです。ことごとく失敗したわたしは、「手段」を軸に考え直してみることにしました。
墓掘りのケースで顕著ですが、数田遥は徹頭徹尾べつに「あー、すごく人を生き埋めにしたいなー」とは思っていません。目的は人を生き埋めにすることではなく、井波七星を喜ばせること(そしてあわよくば好かれること)です。「井波七星を喜ばせたいなー好かれたいなー」→(殺意と恋愛感情の混線)→「昔、家に樽があったなー」→「樽に人を入れて生き埋めにしたらどうかなー」、つまり、目的は確かに先にあったけれども、手段を発想としてそもそも備えていたからこそ、目的に対してそれを適用することになったわけです。もしくは便宜的に手段をトリガー、目的を動機と呼ぶことも可能です。伊波を喜ばせたいという動機があり、混線と記憶(知識)がトリガーとなって、犯行が行われた。

墓掘りは感情が混線しているので、引き合いに出すにはイレギュラーかもしれません。他の連続殺人鬼については、犯行動機や殺害方法についてあまり描写されていないので、材料不足ではあります。しかし、例えば富久田保津は「ドリルで穴を空けたい」と思っていたのでしょうか。「穴」は重要ですが、「ドリル」は同様に重要でしょうか? NOです。銃創をも「穴」とみなす彼ですから、ドリルである必然性はなかったと思います。手元に銃があればそれで自分の頭を撃ち抜いたでしょう。しかし、手元に銃はなく、ドリルがあったので、ドリルで頭に穴を空けた。(また「ロボトミー手術を知識として知っていた」ためにそれを試みた(そのためにドリルを買ったかもしれない)とも言えると思います。)それらは描写されていない勝手な想像ですが、「手段は目的に先立つ」というわたしの立場から見れば、そのようになります。同様にα鳴瓢は当時は警官で、銃を持っていたので、タイマンを射殺した。銃を持っていなかったら、包丁なりなんなりを持ち出したと思います。(ついでにこの流れで言うと、β鳴瓢は「手段」を「目的」が越えたために、タイマンとタイマンを張れたということになり、本当にめちゃくちゃすげえな、という話にもなります。)

このような考え方を早瀬浦に適用してみると、「飛鳥井という手段を手に入れたことがトリガーになったので、そうした」ということになります。「そう」にあたるのは、早瀬浦の計画のすべてです。飛鳥井という手段を手に入れ、「あ、これなんでもできるな」と思い、「なんでもできるなら神的なことをやってみようかな」と思い、それになぞらえるために7という数字に固執した。そういう順番なのではないかと推測します。

この補強材料としては、「イド投入状態で現実で死ぬことによりイド内での自動修復を獲得した上で、陳列されたさまざまな殺意のイドを楽しむ」という、物語内で提示されたっぽい早瀬浦の最終目的っぽいこれは、実現しようとすると「7」という要素を全く必要とせず、ミヅハノメプロトタイプがあれば本来はじゅうぶんに達成可能だからです。昏睡した井戸端スタッフたちは今までに捜査したことのないイドに入っていますから、イド収集目的としてなら蔵すら必要ありません。また、蔵のミヅハノメ化も同様に 結果的に起こっただけで、彼の目的には含まれていないと思います。もし「7」に対するこだわりが先に(強く・優先的に)あるならば、せめて「7つの殺意のイドを楽しめる」あたりにしないと筋が通らないと思います。

つまり、早瀬浦には本来「7」についてそこまでの強いこだわりはなく「7ってやっぱ神っぽいな」というフワっとした感想だけがあり、自分が神っぽいことができる手段を手に入れたので「自分に神っぽさを出す」ための材料や根拠として使うために「7にこだわる」ことをしたのではないでしょうか。

ちょっとわかりづらいので、描写された(ある)早瀬浦の計画の整理も兼ね、ない時系列とない早瀬浦の物語を錬成していきます。

《早瀬浦時系列(隅々まで妄想)》

ここはあくまで補完的な、というかもはや普通に二次創作なので、読み飛ばしていただいて大丈夫です。というか多くの人々にとって普通に不愉快である可能性が非常に高い。しかしnoteで畳む機能をみつけられず、またせっかく書いてしまったので小さめのフォントで掲載するに至ります。本当に申し訳ありません。
**
・作品内の年月日など特に参照してないです。ない時系列の錬成なので…。
・また、たびたび「うっかり」という形容が出てきますが、これはわたしが森博嗣ミステリを読んでいた頃「犯人も予期していなかったこと(うっかり)が起こって、結果的に訳のわからない難解な事件ができる」というパターンを読み取ったからです。

---妄想スタート---

警官として普通に生きてきたところ、飛鳥井・白駒に出会い、飛鳥井の能力と利用可能性を知る。「あれ?これなんでもできるのでは?」と、試しに飛鳥井の夢に自ら入り、毎晩いたぶってみる。楽しい。試しに他の殺人鬼(予定)を勧誘し、侵入させられるか確認してみる。できる。楽しい。「こんなになんでもできるなら神っぽいこともできるのでは?」と思い始めます。飛鳥井という手段を得たので、神っぽいことを計画し始める(「7」や七曜を採用する)。

白駒の研究に協力する(金銭援助やデータ収集)ために、ミヅハノメプロトタイプを使う操作組織を発足することにし、数年後、蔵を発足することに成功。ほぼ同時期に飛鳥井拉致(看護師集団昏睡事件)、ミヅハノメのハコに格納。実際の捜査にミヅハノメを使いながら、ミヅハノメと飛鳥井で何ができるか・何ができないかを試す日々が始まる。

ずっと百貴が飛鳥井について嗅ぎ回っていて鬱陶しい。ついでに「次の神っぽいこと」の仕込みになるかもしれないので、白駒を殺す/ジョン・ウォーカー衣装と一緒に百貴宅庭に埋める/鳴瓢独房の写真を百貴寝室に仕込む(使わないかもしれないし、使わないなら使わないで、自分の犯行だとバレなければ特に問題にならない)

連続殺人鬼しかパイロットになれないことが早々に発覚し、自分は「パイロットには」「まだ」なれないことがわかる。しかしハコの飛鳥井現物に触れるので、夢の中の殺人や、連続殺人鬼の勧誘は続行できる。そんなことを繰り返すうち、飛鳥井にとって=イドの中で、ジョン・ウォーカーのキャラクターが「恐怖という現象」に固定されてしまう(うっかり)。が、なんか神っぽいので、結果オーライ。

自分が実際に人を殺すのはまだもったいない(あと普通に怖い)ので、ひとまず「連続殺人鬼の人数」と「殺害人数」にも「7」を採用する。神っぽくなってきて楽しい。パイロット/名探偵も7人まで行くのもアリだけどな。ついでに「井戸端呼称:連続殺人鬼メイカーとしてのジョン・ウォーカー」についても「7」の縛りを採用する。

花火師など、うっかり7人以上の死傷者を出した連続殺人鬼は、ノーカンにすることにする。ルール違反だから。ルールを作るのも自分だけど、この融通感もかなり神っぽいからオッケー。「死者7人まで」の縛りで曜日ごとの連続殺人鬼を揃えていく、ポーカー的なゲームがしばらく続く。楽しい。

かつて夢殺人の勧誘を断られ続けた富久田保津が普通に逮捕されたので、「せっかくだし、現行パイロットをなんかのタイミングがあったら潰せるように仕込んでおこう」と、鳴瓢ドグマ堕ちを刷り込む。(念のため他の自殺願望持ち連続殺人鬼にも刷り込んでいたかもしれない。富久田保津のパイロット起用は局長命令でどうとでもなったはず。…というか「鳴瓢ドグマ堕ちを仕込んだ逮捕済殺人鬼を起用する」が可能なので、本当は富久田保津である必然性はなかったのではないか。なのになんとなく富久田にしてしまった、これが彼の最大のミスだったわけですね。エモい。(?))

「死者7人までの連続殺人鬼」が「一週間」ぶん揃ったので、次の神っぽいことを始めることにする。

一方その頃ちょうどイド内でコックピットが発見され、本堂町が潜ってしまう(うっかり)。イド内コックピットについて早瀬浦が事前に認識していたかは不明だが井戸端も知らない実験データや理論はあるので、それらを元に速やかにβ世界的な何かの存在や今後起こりうる井戸端や名探偵たちの行動などを推測する。「イド主:飛鳥井木記」って表示されちゃってるから百貴が絶対に動くなあ、嫌だなあ。もうあの仕込みを使って排除しちゃお。テッテレー!「殺人教唆の逮捕状」〜!

さて、あっちはしばらくほっといていいかな。百貴いない井戸端とか虚無だし。さてさて、こっから神っぽいネクストステップどうしようかな〜と計画を練り直す。そうだ、百貴潰し発動したから、百貴イド(ブラフ)の捜査と本堂町救出作戦のW名目でW投入→本堂町はどう転んでもいいけど鳴瓢ドグマ堕ちさせとこ。

数十分後、唐突に富久田保津が記憶を保持していることが発覚(びっくり)

しかし鳴瓢ドグマ堕ちは成功して安心!今のうちに現実世界で神っぽいことをしよう。飛鳥井をハコから出し、現実世界の侵略を始めさせる。人がゴミのようだ!楽しい!!

しかし自分もそこにいると危ない(昏睡じゃなくて肉体を死なせないといけない)のでイドに逃げ込まなくては!…とコックピットルームに行っておもむろに鳴瓢に発砲、奪ったコックピットに座ってから自殺。

入ったイドの中で自ら敢えてドグマ堕ちする。しかし「現実の肉体が死んでるので、自我の無限後退(イド嵐)は起こらないし、イド内ボディも自己修復する」という予測がクリア!どう考えてもアガリ!やったぜ!!!俺が神だ!少なくともだいぶ神っぽい感じは出た!!いやーなんかできる気はしたけど、できるもんなんだね。できたわ。飛鳥井、マジで無限だわ。最高。ありがとう。楽しかった。この後はまあ神っぽくなることにも成功したことだし、いろんなイドを覗きながら楽しくやっていくことにするよ!マジラブ!

しかし富久田保津の能力はめちゃくちゃ予想外だったな…とはいえ名探偵化したら数唱障害再発してキツいのわかってるし、こっちには来ないっしょ。あーよかったよかった。
〜完〜(アニメで描かれた追い込まれ様へ続く)

…早瀬浦をめっちゃアホキャラとして書いてしまい、誠に申し訳ないですが、こんなもんなんじゃないのかなと見積もっています。また、これは物語で描かれた範囲から推測される機序の記述の試みであり、彼の「自分なりの正義を為す」を否定するわけではありません。それらは一定に両立しうるものです。

長くなりましたが、ジョン・ウォーカー/ウライド/早瀬浦については一通り書けたかなと思います。「手段が目的に先立って、俺ツエーに陥り、楽しくなっちゃった人」、それが早瀬浦です。あのルックスとcvだからなんかもうちょっと深遠っぽい雰囲気は出てましたし、もちろん葛藤もあったと思いますが、おおまかな流れとしてはたぶんこのようなものだと思います。
「イド投入状態で現実で死ぬことによりイド内での自動修復を獲得した上で、陳列されたさまざまな(膨大な数の)殺意のイドを楽しむ」が一時達成されたのは、「手段が目的に先立って、なんか神っぽいことをやりたい」という目的の内側のものだったわけです(解2)。

そしてつまり、彼の無双を可能にしてしまった理由である「飛鳥井/飛鳥井の能力」こそが、「INVADE」する主体だったのです。(解1)

さて、こうなってくると最難関かつ「この物語の設定」のコアもコア、問3 飛鳥井/カエルの役割は何か?誰がそれを設定したのか?に取りかかりましょう。

6.まどマギに見る「主人公」の役割

そもそも、「当人にもわけのわからない特殊能力がある」というのは本来はかなり主人公っぽい・あるいはヒロインっぽい要素です。先にも引いた、まどマギにおけるまどかのポジションと見ていいでしょう。
そしてそのまままどマギに照らすと、あの物語で「まどかが主人公だった」場面って本当に少ないですよね。普通にほむらが主人公です。この対比をIDに流用してみると、まどかのようにゆるやかに登場し続けて物語を最終的には全部…根底からメタの次元までの全部…を持っていく存在 としての飛鳥井、という解釈はそこまで無理がないと思います。

まどかを助けたい一心のほむらのループの繰り返しが、ありえないエントロピーの収束をまどかに起こしてしまい、それを宇宙連合代表インキュベーターが単なるエネルギー源として回収したがっています。しかしそのエントロピーを以てまどかはアルティメットまどか:救いという現象へと概念化し、「過去から未来にわたる宇宙における仕組みすべて」を書き換える。

飛鳥井を助けたい一心の百貴の終わりないケアやサカイドの投入は、飛鳥井を救えず・カエルちゃんをまたもう一度殺し続け、飛鳥井はハコの中で文字通り終わらない悪夢を見続けますが、ミヅハノメというシステムにはその悪夢が必要であり、確度が高いとは言えませんが軍事利用も匂わされています。しかし早瀬浦の排除された今、カエルちゃんはサカイドに生きたまま出会う可能性の未来を予見しました。「他人の殺意」から少しずつでも解放されていったその先で、サカイドに生きたまま出会ったその先で、それでも彼女の能力は「良い意味で世界(システム)を歪める(彼女の能力がシステムそのものなので、「良い歪み」も「悪い歪み」も彼女そのものの歪み方)」だけの力を備えている。

まどマギではあまりにもほむらが報われないエンディングを迎えましたし、その「良い意味で歪んだ世界」でも百貴・サカイド(/鳴瓢)は報われることはないのかもしれない。それでも、「世界自体=飛鳥井というシステムがいい意味で歪められる」ということは、飛鳥井にとってこれまでになく幸福な・納得のいく未来になるのではないでしょうか。

以上を整理すると、問3 飛鳥井/カエルの役割は何か?誰がそれを設定したのか?に対しての解答は「世界を変えるという役割。それを設定したのは、悪く変えるという意味ではジョン・ウォーカー、良く変えるという意味では百木・鳴瓢が、外的要因。しかしそれらはあくまで飛鳥井本人の変容によって起こるものである」(もちろん、そもそもで言えば当然にそれは「作家」ではあります) 。

これでFAか、というと、ごめんなさい、いいえ、わたしはまだ行けます。すみません。まだ行きます。

7.飛鳥井を「手段ー目的」で見てみましょう。

飛鳥井にとっての手段は、飛鳥井の能力です。では、目的はなんでしょう。それは前述した「世界を良い意味で歪める」でしょうか。NOですよ。彼女の目的は「自分の能力を消す」です。どう考えても消したいでしょ、あんなに殺されまくってたら。というか、どう考えてもわたしは飛鳥井に救われて欲しいし、それは「世界を良い意味で歪める」という形ではなくて、「飛鳥井の能力がなかったことになる」という形であって欲しい。
前稿のモチベーションは「富久田保津に重み付けがなされて欲しい」でした。同様に今回も、わたしはわたしの願望を叶えるために論を重ねて行きます。飛鳥井の能力をなかったことにできるか。できます。します。

さて、それを考えるにあたってのヒントは「カエルちゃんの死」です。ミヅハノメで観測するイドでは、カエルちゃんは必ず死んでいて、必ず名探偵への謎とメッセージを遺しています。なんででしょう?どうしてただ殺されるだけではなく、謎とメッセージを遺すのでしょう?そもそもどうしてカエルちゃんを見ると名探偵はその名前と自分の役割を思い出すのでしょう?さらにそもそもどうして彼女は「カエルちゃん」なのでしょう?

8.「大海を知らない井の中の蛙」と「名探偵」のマッチ

最後の疑問から行きます。彼女が「カエル」という名前なのは順当に「井の中の蛙」のメタファーですね。
さて、「井の中の蛙」は「大海を知らない」です。これは文字通り、「大海という概念を知らない」ですし、また「自分が井戸の中にいることを自覚できない」「井戸という概念を知らない」でもあります。いつも死んでいるカエルちゃんは、イドという概念を知らないし、自分がイドの中にいることも自覚していないわけです。

この「井の中の蛙 大海を知らず」に、名探偵をぶつけるとどうなるでしょう?名探偵は「世界のあり方すら疑っていい」。つまり、蛙を認識し・自分が名探偵であると自覚したら、自らも井戸の中にいながらにして「ここは井戸の中なのではないか」「外には大海があるのではないか」と思いを致すことが可能になるのです。

では「大海」が指すのは現実でしょうか? NOです。

その説明のため、カエルちゃんではなく飛鳥井のことを考えます。飛鳥井の目的を「自分の能力を消す」であると先ほど仮定しましたが、これは能力の仕組み上、本人だけでは不可能なことです。もし能力の仕組みがちょっと違ったとしても、あのような能力の中で不可避に・不可逆に摩耗しながら、目的達成のための足がかりを探すことは困難だったと想像します。ゆえに、彼女は他者を必要とします。「誰か助けてほしい」というシンプルな願い…あるいは望み、もしくは祈り。それ以外に「自分の能力を消す」に至る道筋を思いつかなかった。

では、彼女はどのように「誰かに助けてもらう」ことが可能でしょうか。病院での治療や研究ではそれには至らなかった。それどころか状況は著しく悪化し、夢への侵入者に毎晩殺され、起きているときもその記憶に苛まれ、侵入者の来ない眠りでもその記憶が想起されるようになり、やっぱり殺される。眠ると殺されるし、眠らなくても殺される、という状況にまで追い込まれます。
しかし、この最悪にも思える状況ですら、現実の肉体は死にません。であるならば、悪夢の中の自分をひとまず救済してくれるような存在を夢想することになるのは自然だと思います。それは漠然と「ヒーローみたいな誰か」です。せめて夢の中だけでも、ヒーローみたいな誰かが、助けてくれたらいいのに。
しかし、本当に残念なことに、そんな誰かは一向に現れませんでした。それでも彼女は心の底で「誰か助けてくれ」と願い続けた。

その願いの現れこそが、「カエルちゃんの死」の謎とメッセージです。

わたしは死ぬ。また死ぬ。何度でも死ぬ。これからもきっと死ぬ。それでも、いつか誰かが何かを解決してくれるかもしれない。夢の中で、そしてもしかしたら現実で。だから「解くべき謎とメッセージ」を遺し続ける。それが「ミヅハノメで観測されるイドの中で、《カエル》として謎とメッセージを遺している理由」です。この死の謎を解いてくれ。世界を疑ってくれ。この世界の外のわたしを見つけてくれ。救ってくれ。自覚的か無自覚かは不確定ですが、そういう願いを底に孕んだシステムだからこそ、投入者は必ず「名探偵」になる。世界のあり方すら疑っていい、名探偵に、です。

「大海」が指すのは、現実の世界で自分が救済されること…「自分の能力を消すこと」であり、その予見こそが、あの終盤の印象的なシーン…生きたカエルちゃんが、大海を背景にいだいてサカイドと初めて出会うシーンなのです。

9.「イドの中のイド」について改めて考える

このように、飛鳥井の願いが「ミヅハノメで観測されるイド」のシステムに組み込まれているとしたら、当然「イドの中に飛鳥井イドへのコックピットがある」のも飛鳥井の願いによるものです。彼女のいつからか明晰とは言えない頭脳では、それは明確な目的は伴わなかったかもしれません。しかし、意味はある。少なくとも「イドのルール」はある。投入先の時点が投入者の最初の殺人以前であるということと、意識・記憶を継続していることです。

この「最初の殺人以前」のタイミングについては、明らかに幅がありました。鳴瓢はタイマン射殺の数日前、本堂町は数十分前、早瀬浦に至っては数十秒〜1分前、といったところです。また、α鳴瓢が入ったβ世界では鳴瓢は警官のままでしたが、早瀬浦が入ったβ世界では鳴瓢はパイロットでした。このように、そもそもβ世界そのものにもブレがあります。

これは、既存のタイムトラベルにまつわる理論で説明が可能です。詳細は調べていただくとして大雑把にさらうと、まずタイムトラベルは現在、ざっくり2種類に分けられます。身体ごと過去や未来に行くものと、精神や記憶だけ過去や未来に行くものです。前者では「その時点の自分」に会うことが可能で、後者には「その時点の自分」に精神や記憶が上書きされるため会うことは不可能です。前者はバック・トゥ・ザ・フューチャーなどの古典でもおなじみの通り、基本的には「過去の自分やその関係者」に会うとタイムパラドックスが起きる可能性があるので「会うことはできる」けれどもそれを回避することが多く、後者ではその心配はありません。
さて、そもそもタイムトラベルをする目的は、多くは「未来、もしくは現在における現在 を変える」ために「過去をやり直す」です。そしてそれは「あのときこうしていたら」という可能性の夢想や渇望の向かう先であり、「あのとき選択を誤ったかもしれない」という確かめようのない後悔の向かう先です。

ではその「選択を誤った瞬間」に戻れば、それらは回避できるのでしょうか?少なくない解釈で、NOとされています。選択を誤るにあたりさまざまな要素が絡み合っているため、その瞬間に戻れたとしても結局同じ選択をせざるを得ない、と。たとえば「人を刺殺してしまった」という後悔に基づいて時間遡行をできても、その到着地点が「包丁を持って相手と向かい合いすでに走り出している瞬間」だったとしたら、また人を刺殺してしまうだけです。少なくとももう少し前には戻る必要があります。しかし、ではどこまで戻ったら刺さないのか、あるいは刺そうと思わずにいられるのかを検討すると、最終的には「そもそもその人に出会わなければ、その人を刺殺することはない」や「そもそも自分が生まれて来なければ」まで遡ることになります。これもいわば無限後退の図式で、イド嵐の仕組みとしっかりとダブりますが、そこについては今回は置いておきます。

話を戻し「β世界に投入される時点にブレがあるのはなぜか」。それは彼らそれぞれにとって「選択の時点(と本人がみなしている時点)」と「実際の最初の殺人の時点」の経過時間に幅があるからです。描写されたβ世界そのものにブレがあるのも同様の理屈づけができます。

さて、前稿では「現実」をα世界・可能性の未来、イドの中のイド」をβ世界・可能性の過去と仮称しました。しかしこのβ世界にはブレがある、と。上記のように説明づけると、やはりβ世界は「可能性の過去」であり、いくらでもバリエーションが存在しうる、と解釈できます。

そして、同様に現実…α世界・可能性の未来についても、いくらでもバリエーションが存在しうる、と思います。我々に示されていた「現実」は「可能性の未来のうちの一つ」である、ということです。可能性の未来…つまり、飛鳥井の見る夢のうちの一つなのです。

10.β世界の飛鳥井の見る夢

…と、ある意味ポジティブで無責任な解釈を提案しながらも、ここまでで触れてこなかった、大きな大きな疑問があります。

β世界に入ったα鳴瓢が、その当時まだ面識すらない飛鳥井の夢に侵入し、そこに来た顔削ぎを殴って追い払うシーン。

短い場面ですが、ここまでこのようにこれほどやってきた考察厨としては、あまりにも説明しにくいことが多いのです。

まず、「鳴瓢が毎晩飛鳥井の夢に入って、来た殺人鬼を追い払えばよくない?」です。満身創痍を引きずりながら夜な夜なβ現実を駆けずり回って殺人鬼を自殺に追い込むよりよっぽど手早い上、確実です。実際、殺人鬼を「排除」しても飛鳥井は彼らに殺された経験を夢に見続けて衰弱の一途をたどりました。
なんで鳴瓢がそうしなかったのかを考えましたが、これは割とシンプルで「とにかくジョン・ウォーカーを許せない、絶対にブッ✖︎す」が優先されたのでしょう。鳴瓢はα世界でジョン・ウォーカーに妻子を持って行かれ、自らも人を殺め、それ以降もカエルちゃんを一度として救えず、隣の独房に入った犯罪者を自殺に追い込んでいます。あの世界観において考えうる限り、ほとんど最悪に近い経験をさせられてきました。それらの清算の意味でもまずはジョン・ウォーカー潰し一筋にやっていくことにするのは自然なことだと思います。これはβ飛鳥井をやや軽視したことにもなりますが、飛鳥井に真っ向から向き合うと結局「妻子が生きているここは現実ではない」とみなす必要が出てくるので、それに対する逃避であるとも思われます。責められない。

では、夢の飛鳥井を守る役割を百貴がやることはできなかったのか?とも考えました。どう考えても適任です。α世界であれほど彼女の行方に執心した彼ならば、β世界でそういう役割を引き受けてもいいはずです。というかやりたいだろたぶん普通に。夜な夜な飛鳥井を守りたいだろ。わたしは守りたい。
つまり、彼は(試みたかどうかは不明ですが)「できなかった」のでしょう。なんらかの理由で。それは時間的制約とか気合いが足りなかったとかではなく、「システム上できないようになっていた」のです。

連続殺人鬼たちとそのイドについて思い出してみましょう。イドにはそれぞれにルールがあり、イドの主本人も、名探偵すら、それを破ることは決してできません。そしてそのルールはイドの外の連続殺人鬼本人にも適応されました。
「イドの中のイドの飛鳥井の夢」というのは、順当に見ると最初の世界に対して3次元下にあります。しかしここまでお付き合い頂いた方にはお分かりいただけるように、わたしはずっと「イドを挟んでこっち側にα世界があり、あっち側にβ世界があり、α世界β世界ともに《可能性》の世界である」と主張してきています。それに則る場合…この記事では則り続けるわけですが…「イドの中のイドの飛鳥井の夢」は、「β世界から(ミヅハノメなしで)観測する飛鳥井のイド」です。つまり、β飛鳥井の夢には、飛鳥井のルールが課されている。それはα世界のミヅハノメで観測するイドに課されたルールと等しい。「入って来るのは名探偵だけ」です。

《註釈》
「いや、殺人鬼も入ってきとるやないかーい!毎晩!」というツッコミがもちろん聞こえますが、そもそも「入って来る人を名探偵化する」というミヅハノメのシステムは前述のとおり「毎晩殺人鬼に殺されたから」生まれたものなので、特に矛盾はしていません。(強気)

または、「連続殺人鬼しが名探偵になれない」というルールから見ても「入ってくるのは連続殺人鬼だけ→その人を名探偵にする」のほうが妥当かもしれません。
名探偵は殺人を未然に防げない存在ですし、名探偵が名探偵であるためにはそこに人死にがなければならないという側面から、「そもそも名探偵というのは連続殺人鬼みたいなものなのだ」という理屈もありうると思います。

そして、一定以上の推理力を備えた者以外は、飛鳥井の夢に入れてもなにもできず、また起きたらその夢を忘れてしまう、とも思われます。

というか、β世界において「面識もないα鳴瓢が飛鳥井の夢に入れる」「めちゃくちゃ入れ込んでるはずの百貴が飛鳥井の夢に入れないっぽい」「ジョン・ウォーカーは入れる」「ジョン・ウォーカーに招待された殺人鬼(まだ実際には人を殺していない)は入れる」などに一貫しうる説明をつけようとすると、ここが落とし所になります。わたしの考察はすべてそのような機序でできている。

本当に残念なことに、β百貴はα百貴同様「名探偵」ではないので、飛鳥井の夢の騎士になることはできなかった。

11.そろそろ飛鳥井を救いたい。

どうにも飛鳥井が救われる気配がないですね。大丈夫、もうすぐです。ここまでついてきてくださったことに心からの感謝を述べる暇もなく、救っていきます。

さて、β世界での鳴瓢はとっても忙しいし、百貴はシステム上夢への手出しができません。しかし、「名探偵しか飛鳥井のイドに入れない」というのは「名探偵なら飛鳥井のイドに入れる」という意味です。満を辞して、本堂町の出番です。

さて、「β世界に幅がある」とは言えど、α鳴瓢とα本堂町が同じβ世界に入って出会っちゃってるし、世界が崩壊している件…前稿でも本稿でも、この件については説明がまだついていません。ここまでで合わせて30000字も書いてるのに。ここからが正念場です。あなたの。

まず、「世界が崩壊している」がダウト。遠景がきらめき始めたのを見て、鳴瓢が「壊れる この世界が!」と言い、本堂町が「本来出会うはずのない私たちが出会ってしまった その矛盾にこのイド自体が耐えられなくなったの?」と言いました。ファクトは「彼らがそう思って、そう言ったこと」だけです。

あのシーンはβ世界の崩壊ではない。ではなんだったのか?

12.「《飛鳥井が能力を失った世界》へ、世界が再構築された」説を提唱します。

本稿が中盤から目指していたのは、「飛鳥井の能力の喪失=救い」です。システム上、飛鳥井本人だけではそれは不可能で、他人が、ヒーローが、名探偵が必要でした。
飛鳥井はおそらくほとんど無自覚に、「自分を経由して現象するイドで毎回カエルちゃんが死んでいて、そこに名探偵だけが入ってくることができる」システムを作ることに成功しました。ミヅハノメによって観測されるイドも、β世界も、β世界飛鳥井の夢もそのルールに従いました。「井の中の蛙 大海を知らず × 名探偵」で「わたしを救ってくれ」というシステムです。

しかし、致命的な点があります。β世界には「カエル」がいないのです。せっかく入ってきた名探偵も、蛙がいないことには井戸と大海を知ることができません。鳴瓢がそうでした。彼はβ世界を現実だとみなし、井戸と大海を(知っていながら)見なかったことにしました。これでは飛鳥井が救われない。救われなかった。

しかしそこに名探偵α本堂町が現れることにより、「蛙が不在でも井戸と大海を知る」ことが可能になります。これは鳴瓢ドグマ堕ちとほぼ同じ構図と言えます。「蛙」を用いずとも、名探偵と名探偵が出会えば、井戸と大海を知ることができるのです。原案の「The Detectives United」の意味をわたしはここへ見出します。

《註釈》
鳴瓢ドグマ堕ちでは投入地点にカエルちゃんはいましたが、仮にあのカエルちゃんをアナイドが砂で埋めるなどして隠蔽していたとしても鳴瓢ドグマ堕ちは発生可能です。「サカイドに自分を思い出させる」という目的から言えば、カエルちゃんは必要ありません。

イドの中で名探偵が世界のあり方を疑いカエルちゃんの死の謎を解いても、カエルちゃんは生き返りません。それは、すでに死んでいるからです。

ならば、β世界で名探偵が世界のあり方を疑うことができたら?…飛鳥井はα世界でもβ世界でも、はじめからずっと、生存しています

それが起きたのがあの「世界崩壊シーン」、もとい「世界再構築・飛鳥井救済シーン」なのではないでしょうか。そう思って眺めれば、遠景のきらめきの色合いに、生きたカエルちゃんとサカイドが初めて出会うシーンの美麗背景…あの大海に通じるものがある、と感じるのは、強引に過ぎるでしょうか。

(今更ですがこの解釈は、まどマギを見ていない人にはかなり何を言っているかわからないかもしれません)

13.心の中ではなんだって起こりうる。ミラクルも。

さて、しかしそもそも「β世界には幅がある」とは言っても「α鳴瓢とα本堂町が同じβ世界に、それも違う時点に投入され、経過時刻も全く異にし、認識している年月日すら違えたまま出会う」というのはあまりにもイレギュラーというか、さすがにできすぎではないか。そう思いますよね。わたしもそう思います。

しかし、1話で若鹿が言っています。「心の中ではなんだって起こりうる」。α世界を「可能性の未来」、β世界を「可能性の過去」と仮称して憚らないわたしにとって、作中で描かれた世界はαもβもともに「ありえた可能性の一つ」です。そして、いくらでもバリエーションのあるβ世界の中にはひとつくらいは、バグか仕込みかご都合主義か、とにかくどんなにイレギュラーだとしても「α鳴瓢とα本堂町が無理やり出会う世界」が、ありうる。そしてまた、そのくらいイレギュラーが起これば、「飛鳥井が自分の能力を失う」というミラクルも、起こせる。

もしβ世界がβ世界なんてものではなく普通に「イドの中のイド」ならばそれはやはり「飛鳥井の心の中」であり、ならば「なんだって起こりうる」、ミラクルだって起こりうるはずなのです。

前稿から続いて、自分にとって都合の良い解釈を繰り広げてきました。これらは「これが正しくて他のは正しくない」と主張するものではありません。「全部、なにもかもすべてが、絶対に存在可能である」ということこそを根拠にしていますことを、改めて記しておきます。

14.「欠損を以って完成する」

また、大枠の話になりますが「欠損を以って完成する」ためにはそもそも「欠損すべきもの・ないべきもの・あるべきでないもの」が必要であるというアイロニーがあります。「欠損すべきもの・ないべきもの・あるべきでないもの」が「かつてあった」からこそ、「それを欠損して完成する」ことができる。

飛鳥井にとってのそれは特殊能力であり、彼女は最果てのミラクルの末にようやく「欠損を以って完成」することができたのです。そしてそれは「飛鳥井が能力を持っていない、ふつうの世界」という、世界規模での「欠損を以って完成」でもある。

以上を持って、「作品内で飛鳥井は救われていた」説を閉じます。長きにわたるご清聴、本当にありがとうございました。

本を借りるのが苦手です。本を買います。