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刹那一千秒物語 四夜

∞ satoshi ∞ 
 最悪な気分。
 梅雨時期の独特なねっとりとまとわりつくような温い空気が、さっき抱いた女の香りと混じり合い余計に気持ちが悪い。
 フラリと入ったバーで、覆面パーティーが行われていた。
 俺は茶色い紙袋に目だし穴を開け傍観者に徹していた。滑稽な日常には、こんなくだらない生き物の遊びを遠目から見ているのが一番良い。
「ワタシ、本当はこんな女じゃないのよ。だけど、どうしても友達が出来ないの。だから寂しくて、どうしてなのかな?」
 暗がりでマスクを取った女は、まるで作り物のような目と顎をしていた。そのグロスでベトベトと光る唇が、甘えるように嘘を付く。
「男の方が楽、好きじゃなくてもワタシに付いて来てくれるから」
 階下では、雑音にしか聞こえないバロック調の音楽が流れている。
「馬鹿よね……」
 女は、柔らかいソファーに横たわる俺の上になりながら言った。
 そして俺は眼を閉じ、ココロを閉じる。
 行為が終わった後、女は高揚しながら満足そうに高笑いする。
「こんなの簡単、何も減らない。何も変わらないし」
 その声は、まるで捨てられた紙屑が風にさらわれカサリと小さく音を立てるよりも虚しく聞こえる。
「何も変わらないだろうな、アンタみたいな女なら。だけど、周りにいる馬鹿な男共の事を少しでも知ろうとしているのか?」
「どういう事よ!」
 女は無気になり、醜く顔を歪める。
「自分の事だけしか話さないようなヤツには、友達も出来ないよ」
 俺は立ち上がりながら、煙草に火をつける。
「誰も、アンタの事を変えてくれない、好きにならないだろうな」
「どうして……」
 もうひとつのソファーで、別の男女が厭な臭いを発しながら抱き合っている。
「どうして? 疑問に思う事が出来るなら静かな部屋で考えてみれば」
 俺はバーを出ると、また渋谷の街独特の喧騒と匂いに包まれる。
 この街が俺は好きで、ずっと仲間と一緒だった沢山の想い出が残る街。もう少し歩けば、馴染みの店がある。
 ゆっくりと、空しいココロを落とさないように歩く。

 どうして?
 そう言葉に出来るなら簡単だ。言葉に出来ない疑問こそが、本当に答えを見つけなければならない問題。
 俺が、どうしても答えが出せない疑問。
 
――月の正体は、なに?
 
 見上げた宵闇に、大きく月が出ていた。
 そして、久し振りに開こうとした店の入り口から一人の女が出てきた。擦れ違った彼女の、何処か寂しい残り香を受け止めながら俺は『ZERO』に潜り込んだ。
 
「俺は、寂しいのかな?」
 中身のなくなったジンの瓶を抱えながら、小さく聞いてみる。
「どうして?」
 前髪を掬うように、ママが答える。
「誰も、いなくなった……」
 オレンヂ色の裸電球が、箱型に刳り抜かれた席に吊るされたカーテンに俺の形をしたココロを映し出す。
「まぁ、男としては認めたくないわよね。だけど良いじゃない、素直に寂しいと思ったって! 一人ぼっちで寂しくて、誰かに側にいてもらいたいと感じる事は人間らしい気持ちなんだから。だから皆、お家へ帰りたいって思うんでしょう?」
「俺には帰る、おウチなんてないし!」
「ふん、堕ちたな聡。人間こんなに簡単に腑抜けになるのかね? あの頃のお前は、寂しさ諸共に飲み込んで強い意志に変えていただろ」
 玩んでいた空の瓶を、ママが俺から奪い取る。
「あーつまらない! 寂しがり屋の腑抜け坊やはほっといて、アタシはさっきの可愛い女の子に手紙を書こう」
 そう言いながら、テーブルの端に座っていたママが立ち上がる。
「俺と入れ違いで出て行った女?」
「そうよぉ! あの娘は面白い素材だから『銀曜日』へ迷い込ませるの。気になる?」
 含み笑いを浮かべながら、俺の顔を覗き込んでくる。
『ZERO』の入り口で擦れ違った、何処か群雲に消えてしまいそうな月が残す香りを纏った女。
「好きな香りがした……」
「どんな匂いよ?」
 俺を見つめるママは、絶対に答えが聞けないという事が解かり切った顔をしながら酒を注いでいる。
 諦め切ったその表情は、昔のママとは随分変わった。
 歳を重ねる事で“彼“は、どんどんと空洞化して行く。それはまるで吐き出した溜め息を吹き込んだ風船のように、その存在は大きくなって。
 もし、そんなママの本当のココロを突き刺す何かがママを破壊させたなら、完全に無の世界『ZERO』へ消えて行くのだろう。今まさにその空洞化は進んでいて、俺はビクビクしながらママと接している。
 だけど本心は、この『ZERO』の向こう側への魅力が捨てきれない。
「なぁ、何でそんなにあの娘に御執心なんだよ? 俺なんて『銀曜日』ではお払い箱だった、どうにかしてもらえないかな」
「今のお前じゃ、龍之介も受け入れないよ。だけど、もしかしたら彼女がどうにかしてくれるかもしれないけどね」
 ママは悪戯な口調で微笑みながら、手紙を書きはじめる。
「もう、どうでも良いんだけどさ……」
『ZERO』に、長い閑けさが蔓延する。
 この何も無い空気が最近とても苦手になって、俺は苦痛でならない。何故なら今までは独りではなかったから、仲間と共に感じる事で孤独の窮地へは行かずにすんだんだ。
 だけど、今は違う。
 俺だけが、また取り残されてしまった。
「虚空、今度此処に来る時は身体を洗ってから来い! 臭うんだよ」
 染み付いた女の臭いは、何も無いという『ZERO』の空間では悪臭となって余計に俺を責めたてる。
 カーテンに映る朦朧りぼんやとした俺の影が、居場所を無くしたように寂しげに揺らめく。

「碧ちゃんっていうのよ。彼女も何かを探してるみたいね、お前みたいに。探し物は、独りよりふたりで探した方が早く見つかるかも」

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