中秋の名月

今日は中秋の名月だそうだ。自宅の駐車場に車を止めて、顔をあげるとうす雲がかかった満月と目があった。ほぼ真っ白の、丸い、月だった。液晶の人工的な白さばかり見つめた目に、優しい白さはよく沁みる。

いつか私が傷つけた友人も、今、孤独にさいなまれている恋人も、見ているだろうか。この月を。

携帯で撮影しようと思って、鞄をさぐったのだが、どうもばからしくなってやめた。暗闇でぼんやり光る液晶を見ている、自分の真顔を想像したら一瞬で熱も冷め、なんだか月に対してばつが悪く、そそくさの家の中に入った。

携帯、なんていう便利なものができてしまって、よく忘れる。なんでもかんでも忘れる。美しいと思うものを、心で覚えておこうとすること、暇なときの時間のつぶし方とか、大切な誰かと連絡がとれないときの心持ちだとか、他人と心が通うのはすぐにできることではないこと、人との向き合い方とか、なんだかそういう、もっと、たくさん、忘れていることがあるのだけど、思い出せない。なにせ、忘れてしまっていることだから。

なんとなく、昔の人は忘れなかったのだろう、と思う。便利なものが何もなかった時代、清少納言や紫式部は、この月を見て、自らの手で筆をとり、美しさを書き記したに違いない。私もこうして書き記しはするが、自筆ではないし、きっと忘れる。すぐに。美しさなど。

忘れてしまえば、思い出さなくなる。思い出さなければ、知らないことと同じになる。知らないことが増えるほど、脳みそのキャパシティは増えているようにも思えるが、退化しているだけなのだろう。覚えていたいことは覚えていられないのに、忘れたいことばかり頭を埋め尽くしてくる。

もっと、覚えていないといけないことが、たくさんあったのに。あるはずなのに。たとえば、今日の月の白さがよく目に沁みたことだとか。
別に目がすこし痛くなったことを覚えていたいわけではない。沁みたことに心を囚われて、うまく美しさが受容できなかったことを、覚えていたいのだけど。

明日にはコロッと忘れているのだろう。便利さを覚えてしまった、この脳みそは。