千花と夏希(小説)

満員に近い電車から押し出されるようにホームに降り立った瞬間、ねえどこいくの、と声をかけられた。普段だったらそんな声に振り向いたりも立ち止まったりもしない。それでも立ち止まったのは、男の声ではなかったと思うからだ。落ち着いていてかすれているのによく通るきれいな声。わざと行く手を阻むような人の流れと湿度の中で、首をひねる。男か女かわからない中性的で小柄な人物がこちらを見つめて立っていた。まっすぐと、こちらだけ、私だけを視界に入れているのがわかる。射抜かれたように一瞬動けない。見つめあったようにしてじっと眺める。私よりも少し身長が低いが、ごみごみする人の中で、相手はすいすいと泳ぐように近づいてきた。

「よく自分が声かけられてるってわかったね」
「誰?」
「知り合いではない人」

そう言うわりに、知り合いのように当然に話してくる。あんまりにも自然すぎたのでやっぱり知ってる人なのかもしれない。いやでも、我ながらこんな化粧っ気のない女とつるんだことなど一度もない。
ホームの人がまばらになる中、立ち止まって向かい合う私たちは完全に静寂から浮いている。ちょっと気持ち悪いな、と思い立ち去ろうとしたけれど、残念ながら改札に向かう階段は一つだけで、そいつも横について階段を上る。こういう日に限ってダッシュのしづらいピンヒールのパンプスなんて履いてしまっている。一方、そいつはビーチサンダルだった。私が一生懸命足を動かしても、悠々とついてくる。そもそもこいつ、女なのか男なのか結局どっちなんだよ。

「あんた、何? 女?」

改札を抜けてもまだとなりにいるそいつに、結局声をかけてしまった。悪魔だったか吸血鬼だったかは、家主が迎え入れるまでその家に入ることはできないらしいけれど、その時の私の問いかけは完全にそれだったんだと思う。

「どっちでもいいよ」

前髪も一緒に後ろで適当にひっつめて低い位置でお団子にしているところも、右眉にピアスが二つついていることも、化粧っ気のない顔も、黒くて大きい円錐状のピアスが両耳についていることも、ぶかぶかのラグランTシャツも、デニムのハーフパンツも、歩きやすそうなビーチサンダルも、手首に巻かれた皮のブレスレットも、その一つ一つはどちらかといえば洗練された男の無骨さなのに、その腕の細さや足の筋肉、瞳の黒さ、まつ毛の濃さ、眉毛の整え方、そういう繊細な素地は女だった。

「ていうかほんとに誰」
「営業だから」

まったくかみ合わない。そもそも私も生真面目に相手なんてしなくてもよいのに、立ち止まってしまったことが悔やまれる。閉口し、立ち去ろうとした私の腕をそいつはつかみ、ざらざらした感触の、名刺大の紙を私に握らせた。色あせたデニムのようなその紙には、白い文字で何かが書いてある。

「よかったらさ、ここ来てよ。怪しい店じゃないよ。海辺のカフェだから。友達誘っておいで」
「は?」
「ナンパじゃなくて、営業だから。じゃあね」

私を呼び止めたくせに、少し足先を突き出すようにして蟹股で歩いて去って行った。大きめのTシャツが、少し湿気を孕んだ初夏の風でふわふわ揺れ、あっという間に雑踏に紛れてしまったのだった。私の手首を握ったそいつの手のひらは柔らかく、細くて、女のようだった。

「野菜ジュースとってよ」

風呂場からでてきた松夫にベッドから声をかけたが、彼は知らんふりでテレビのスイッチを入れて座椅子に腰かけた。ねえってば、と彼の後姿というか座椅子からはみ出ている後頭部に言うが、他に集中していると何も聞こえない。
何をそんなに夢中になっているのか、首を伸ばして彼の向こうを見つめるとテレビには太ったタレントが映っている。ブランチタイムのバラエティにはよくある、グルメ紹介のコーナーだ。堤防の近くを歩いているところを見ると、今日は海沿いの町らしかった。

「とってって言ったじゃん」
「え?」

結局ベッドから抜け出し、松夫の横をすり抜け、脱ぎっぱなしの下着や服を踏みつけることもいとわず、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。きんきんに冷えていて、すきっ腹に入れたらお腹痛くなりそうだなあと思いつつ、冷蔵庫にはこれ以外の飲み物はなく、いつどうして手に入れたのかよくわからない福砂屋のカステラが一本入っている。包装紙もそのままで、変な存在感を放っていた。とりあえず取り出して見て、松夫の隣に座る。掃除機をかけていないから、カーペットに落ちたなんかよくわからないかけらがおしりにちくちくした。

「掃除機かけなよ。汚い」
「かけてくれてもいいいよ」

松夫は視線はテレビに固定したまま、腕を伸ばしてきて私の乳首に触った。興が乗っているときに触られるのは気持ちよくてすがすがしいほど感じるが、おちょくられるように触られると、むき出しの心臓をわしづかみにされるように不愉快で気持ち悪くてびっくりする。全身にざっと鳥肌が立ったが、彼は相変わらずテレビを見ていた。床におちたブラジャーとショーツを拾い上げ、嫌味なほどほこりをはたいてから履いた。

「うまそー」

野菜ジュースを飲みほし、福砂屋の包装紙を開けていると松夫が間抜けな声を上げる。そもそも、福砂屋の内袋って、和紙っぽいのに中がビニールみたいになっていて素手だと開けづらい。山型にカットされているところからやぶっても、ぐにゃりと内側が伸びてしまう。うまそうもなにもカステラ見てないくせに、と非難する様に視線を向けると、彼はテレビの中の、湯気をたてたカレーライスを見つめていた。

「普段はバーなんですが、水曜日の昼間だけカフェ営業をしているんですね。しかも、カフェの食べ物はこのカレーライスだけ、にも関わらず大人気なんです」
「この湯気を浴びるサウナがあったら毎日通いますね」

女性アナウンサーとデブタレントは軽快なやり取りを繰り広げ、カレーを二、三口食べては何やらコメントを言う。彼らがスプーンを口に運ぶたび、スタジオからは羨望のため息があふれていた。

「あー、カレー食いたい。今度行ってみる? 俺のオフの日とか」
「そうだね。いつになるか知らないけど」

何も響いていないように答える。彼は頭にバスタオルをかぶると立ち上がり、鼻歌を歌いながら洗面所へ消えていった。水滴がいくつか私に落ちてきた。食欲がなくなり、途中まであけた福砂屋から手を引き、箱にしまうと結局また冷蔵庫に放り込む。

「店長さん、出たくないってさっきからずっと後ろに隠れてるんですよ」

床に散った服を着なおしながら、テレビに目をやる。アナウンサーとタレントがテレビカメラの向こうに向かって大きく手招きしていた。さっきまで料理の説明をしていた若い女の子の店員も笑顔で手招きをし、彼女がフレームアウトしたと思ったら押し出されるように店長がカットインした。

「あ」

真っ黒な髪の毛を後ろにひっつめたお団子、大きな円錐型のピアス、意志の強そうな眉毛と瞳、健康的な肌の色。字幕が出る。
店長 有本千花さん

「やっぱ女じゃん」

私の口から、どうしてかため息が出た。松夫が洗面所からなに、と聞き返してきたが、返事はしなかった。

平日昼間の電車の中は驚くほど空いていて、私は酔わないように必死に車窓を眺めていた。小さいころから電車が苦手だった。大きな箱がいくつにもつらなってカーブをしたりするさまを想像すると、実際に自分が感じるよりも大きく曲がっている感じを意識してどうしても酔ってしまう。小学校と中学校は歩いて通ったし、高校はバスがあった。専門学校のときは歩いて通えるところに引っ越した。電車に乗る機会は極力少なくしたし、付き合う男たちはみな一様に貧乏ばかりだったので大体室内で映画やアニメを見るデートばかり、遠出と言っても最大駅三つ分ぐらい。声をかけられてついていった男たちは、最寄のラブホでことを済ませたら大体スタバ。松夫にいたってはいつも車に乗せてくれる。駅を五つ越え、しかも違う線に乗り換えてまた五つ越える、なんて何年ぶりだろう。私は一人で電車に揺られている。目をつむり、極力カーブの動きを想像しないように、頭の中ではやりのJpopを何度もリピートした。
目的地の駅で改札を抜けると、目の前はすぐに海岸線だった。水曜日の昼間、人はほとんどいない。あいにくの曇り空で、海もどことなく憂鬱そうに凪いでいる。梅雨入り宣言前なのに、肌にからみつくような湿気がすぐそばにあった。ショルダーバッグのサイドポケットからあの色あせたデニムブルーの名刺を取り出す。この駅からの簡易的な地図が乗っている。小さい字を指でたどり、海沿いを歩いた。車もほとんど通らず、潮騒と私の履くミュールのヒール音だけが海辺の道に響く。松夫のオフの日は聞きそびれたままだ。ここに松夫がいたら、もう少し楽しい心持ちだったろうか。

歩いて五分となっていたくせに、道に不慣れなせいで目印を見落とし曲がる場所で曲がれなかったりしたために、十五分かかってしまった。普段の運動不足もたたってもはや足が棒だった。
白塗りの壁に青い瓦屋根。正方形の小さな窓が二つ、古い木目の大きなドアに、青い文字で「Bar CHIKA」の文字。そうして、ドアノブには「closed」の掛札。店名の文字の下には張り紙で「臨時休業」と書いてある。

「あーまじか」

思わず声が漏れた。かすれて我ながら落胆の気持ちがにじみまくっている声だった。ドアの前でしゃがみこむ。ああ、もう疲れた。

「お休みなんだね、残念」

背後で声がして振り向くと、若いカップルが立っていた。手をつないで、彼氏の方がスマホを持って立っている。彼らもここのカレーが目的だったようだ。しゃがみこむ私のことなど視界に入っていないように、二人で目を見合わせて、残念と言いながらもそれでも少し楽しそうだ。

「ほかんとこ行こうか。この辺、ほかにもカフェあったもんね」
「うん、そうしよ」

一度も目が合わず、カップルは去って行った。動く気力もそがれ、ドアの前の小さな階段に座り込む。腕が湿気でべたべたする。コテで巻いた髪の毛も、湿気のせいでストレートに戻りつつある。もう少しヘアスプレーをかけておけばよかった。ヒールなんて履いてこなければよかった。松夫のオフの日に来ればよかった。なんで来たんだろう。アパートに帰るのもまだしばらく億劫だ。額の生え際にじわりと汗がにじむ。
私がへたり込んでからも、数組、グループだったりカップルだったりが店の前にたたずんでは、ちらりと私を見たりして、店の休業に落胆してその場を離れていった。一人で訪れているのは私以外に誰もいない。
層が薄く見えていた曇り空が、どんどん厚みを増しているようだった。雨が降るのかもしれない、と思った矢先、鼻の頭に大きな水のかたまりが落ちてきた。一瞬で大雨になり、店先のアスファルトの色がどんどん変わっていく。潮の香りが急に濃くなった。どうにかある小さなひさしの下にぎりぎり収まり、茫然とした。傘などこの小さなショルダーバッグに入りきるわけもなかった。どうしてこんなところに来てしまったのだろう。肌のべたつきが一層つよくなる。髪の毛のウェーブも全部落ちていくだろう。

「わー、雨だ雨だ」

急に横から声がして、黒いレインパーカを着た人間がぬっとあらわれた。足元は黄色いビーチサンダルと、滑らかな褐色の素足、スウェット生地のハーフパンツは雨のせいでまだら模様ができてきた。私の姿にぎょっとしたように顔をあげ、フードを下す。見覚えのある顔だった。

「今日は臨時休業ですよ」

他人行儀が物言いに、急に恥ずかしさがこみあげてきて頬が熱くなる。呼ばれてきてやったと思っていたけれど、別にこいつは私のことを覚えていたわけでもないし、たまたま通りすがりに目に留まった女にあの店の名刺を渡していただけなんだろう。名刺をもらったすぐあとにテレビで見かけたからといって、こいつには私にはなんの義理もない。どれだけの人にあの名刺を渡したのかもわからないし、ここに来たところで何も、ないのだ。

「来てくれたんだ」

うつむく私の上に降ってきたのは思いもよらない言葉で、はっと顔を上げる。
相変わらず中性的で化粧気のない顔で、こちらを見ていた。意志の強そうな眉毛が緩やかにカーブして、柔和な表情を作っている。至近距離で見ると、鼻の頭にそばかすが浮いているのがはっきりわかる。その上にとどまっていた雨粒が、きめ細かい肌を滑っていく。

「入りなよ」

彼女はじっと私を見つめたまま、そういった。返事はいらなかった。重々しく響きながら、見ため以上にしっかりしたドアが開く。彼女の後ろについて店内に入っていった。
店内は薄暗く、雨の音だけが響いていた。床にも古い板材が使われていて、私のヒールの音が何倍かに増えて振動していた。海側の窓際には二人掛けのテーブル席が三つと、店の真ん中に四人掛けのテーブルが二つ、奥のカウンター席は八人分のスツールが並んでいた。テーブルはすべて白く、カウンターも白い。壁にはところどころにセピア調の写真が飾られていた。バーというよりもカフェの雰囲気に近い。私を案内した彼女はすたすたとカウンターのさらに奥へと消えていく。雨に濡れたビーチサンダルのあとが床板にしっかり残っていた。窓際の席に腰かける。テーブルにはメニューはない。窓の向こうにはなだらかな砂の丘があり、その先に灰色の海がある。波が白くけぶっていて、海がどこか生き物のように見える。

「きっと夕立だよ。すぐ止む」

レインパーカを脱ぎ、初めて見た時とはまた違うラグランTシャツ姿で彼女はマグカップを二つ持ってそばに立っていた。おかしなぐらいきれいな湯気が出ている。向かいに座った彼女は窓の向こうを見ながら髪の毛をほどき、また結びなおした。

「水曜日の昼間はカレーが食べられるって言ってた」
「あ、テレビ見た?」
「店長 有本千花さん」
「やだったんだよね。テレビもさ、出ちゃうと人がひっきりなしでめんどっちくてさ。ゆるくやらせてくれよって。だから水曜日は臨時休業」

彼女――千花は、知り合いではないといった私に、驚くほど自然に笑みを見せた。ふふ、と、心の奥底からあふれるようなほどけるような、少年のような笑みに胃の底の方がざらりとしてぎゅっと締め付けられる気がした。あー、とため息なのか独り言なのかを言って、千花はテーブルの上にべたりとうつ伏せ、伸びをしている。彼女からは潮の香りがした。

「名前、なんていうの」
「客にいちいち聞くの?」
「あたしの名前知ってんだからいいじゃん」
「なつき。季節の夏に、希望の希で、なつき」
「いい名前だね。夏生まれ?」
「秋だよ。『あたし』、ってことは、やっぱ女なんだ」
「生物学上は。でも、なんか、そういうのめんどっちいよね。だからそういうのも臨時休業っていうか、ずっと休業。あたしはあたし、って言うのがしっくりくるからそういってるだけ。女も男も好きだよ」

千花の瞳の色は、薄いコーヒーのような色だった。揺れることも、たじろぐこともなく、じっとそこにあって私だけを見つめている。比喩でもなんでもなく、私だけを、じっと。まるで、私のことを何でも知っているような顔で、じっと見つめてくる。右眉のピアスの穴が間近でわかる。耳たぶにも、向こう側が見通せる大きな穴。

「今日はピアスしてないの」
「さっき起きたから。ほんとは休みにするとき雨戸とか閉めるんだけどさ。忘れてたってさっき思い出して」
「いい加減な店長なんだ」
「でも、そのおかげで入れた。カレー食べるでしょ」

もう一度伸び上がり、千花は立ち上がった。カウンターに向かって歩き、ふと足を止めて振りかえる。

「聞かない」
「は?」
「客にいちいち聞かない。名前。ナンパじゃないって言ったけど、やっぱナンパだったかも。夏希、タイプなんだよねあたし」

千花はなんでもないような顔をしてそう言い、カウンターの奥へ去って行った。私はぽかんとして、マグカップを引き寄せ、彼女の瞳よりも濃い色のコーヒーを一口飲んだ。
カレーはもちろんおいしかったのだが、たった五分。カレーを食べ始めて三口ぐらい。その時間で、私はすぐに、完全に、千花を好きになっていた。そして、私はただただ千花のすべてから目が離せなかった。それはきっと、千花が私のことを見ていたからだと思う。頬に生えるその細かな産毛からも目が離せなかった。雨宿りだからと、まるで言い訳のように言って、雨が止んでいるのもわかっていたのに、私たちはどちらからも何も言いださなかった。ただ、他愛のない話をした。他愛がなさ過ぎて、もう覚えていないぐらいの、本当に他愛のないこと。

「どうすんの、今日」

千花は海側の窓の雨戸を閉めて戻ってくると、座らずにドアにもたれるようにして問いかける。すっかり暗くなり、店内灯をつけていたがそれでも千花の表情は離れた距離だとしっかり見えなかった。よく通る声だけが私のもとに届く。私がどんなことを言い、どんな選択をするのかも、もう知っているくせに、それでもちゃんと私の意志でそうすることを選ばせる。

「帰る? うちに来る?」

千花が手招きをする。私は立ち上がり、床板をヒールで鳴らした。ドアの前にたどり着くと、千花は私の頬に手を滑らせて、軽いキスをした。あいさつのような、当然のようなキスだ。よろめいていた重心が、子宮のあたりにすこんと落ち着いた。今度は私からキスをする。舌が自然に千花の唇をなでた。唇の形で千花が笑っているのがわかる。目を開けると彼女も私を見ていた。その瞳は相変わらず私をじっと見ている。

「やっぱ美人だね」
「今?」
「今だからだよ」

千花は自然に私の手を握って、引いた。小柄な彼女の手は小さく、指は細く、初めてつかまれたときも感じた、ああ、女なのだという感情が腕から肩、首筋、そして耳の上の方までさっと上ってきたが、これから起こることへの期待に飲み込まれてそれすら興奮に変わっていった。自分でもおかしいと思っていた。女にナンパされるのも、女の元に勝手にふらふら来ているのも、そしてこんなにも惹かれるのも。松夫はおろか、これまで出会ってきた男たちにこんな気持ちになったことがあっただろうか。ナンパの男はセックスが下手だ。でも、女は。いや、そんなことを試したいわけじゃない。でも、千花に抱かれたい。胸が痛い。気がするのかもしれない。心臓が口から出そうだ。

「で、どうするの」
「まだ聞くの」
「自分で選ばないと」

千花はふっと笑う。

「夏希は『そう』なの」

私の体をさんざん弄んだあと、千花は甘い視線を私に運ぶ。妙に気恥ずかしくなって眠気に任せて瞼を閉じると、彼女の指が私の瞼をなぞった。ベッドのシーツからは不思議なお香の匂いがしていた。鼻の奥にわずかに甘い香りが残るのに、すっと冷たい感じがする。

「違う、と思う」
「ふうん。じゃ、あたしのこと好きなんだね。気に入ったんだ」
「さあ……」
「夏希、恥ずかしいんだ」

目を開けると、千花はやはりじっと私を見ている。瞬き一つせず、私のすべてを見ている。

「……ナンパであった男は、セックスがみんな下手だった」
「女はどう」
「あんたが初めてだからわかんないよ」
「ふうん……じゃ、とりあえず女一人目はよかったってことだ」
「…すごく、ね」

千花は喉で笑う。ふ、っと、心からあふれたように笑うのとはまた別に、本当に楽しげにこちらも愉快になるように笑う。くくく、と、小気味のよい声だった。

「気が狂ってると思う? ナンパであったやつとすぐセックスだよ」
「あたしはナンパする側だから、目にとまった子とセックスはうれしいよ」
「男もナンパするの」
「そういや最近、男とはご無沙汰だ」

千花が男に抱かれているのを想像したらひどい嫌悪感に襲われた。千花に対してではなく、千花を抱く男に対して、急に許せない気持ちになる。そうして、もうすっかり彼女に心を寄せていることに気づく。恋愛の始まりはいつもこういう不快さから始まる。だからいつも、恋愛は気が滅入るのだった。セックスが下手でも、相手に思い入れがなければ気が滅入ることもないし、セックスしている事実があれば疑似恋愛っぽいしだましだましやってこれる。
千花だけがまったくの例外だった。

「夏希ってさ」
「ん」
「見た目美人で遊んでそうだけど」

千花の瞳に私が映っている。

「うぶでかわいいね」

かっと頬が熱くなるのも、自分でもよくわかった。千花がのどを鳴らして笑うので、よけに恥ずかしくなり、彼女の、申し訳程度に膨らんだ胸の中に顔を押し込めた。

千花に打算的なところは一つもなかった。思うがままに生きている。好きなものを愛し、嫌いなものには気をかけない。そういう、人間だった。
だから駆け引きなんて必要なかった。彼女は私のことを好きだと言った。この言葉に裏も表もなく、その言葉の意味だけがそこにある。千花は真っ直ぐだった。少年のような彼女との恋愛は、私が経験したことのない、甘酸っぱさと胸の痛さを連れてくる。
千花のことが好きだと自覚するたびに胸の奥がぐにゃぐにゃと響いて、喉の奥が潰れるようにかっと熱くなる。千花のあの瞳を思うだけで子宮がぎゅっと反応した。彼女のこざっぱりした性格からしてみれば、まめに連絡などこないこともわかるのに、それでも連絡がつかないと夜は眠れず呼吸も浅くなる。ネイルサロンで客のつまらない話に適当に相槌をつきながら、昼も夜も千花のことを考え続けた。
どうしてこんなに千花に惹かれて、狂おしい気持ちになるのか自分でもさっぱりわからない。さっぱり分からないということは自覚できる。でもわからないからといって惹かれる気持ちを止めることは出来ない。千花に裏も表もないからこそ、どこまでも彼女に触れられない気がしていた。だからまた好きになる。千花の全てが私にとって新鮮で、彼女に会う度にいつだって恋に落ちた。

「――夏希は?」
「え?」

松夫は私の顔をのぞき込む。その様子をルームミラーでうかがっていたらしい平岡さんは振り向いて口の端だけ持ち上げて笑う。あまり目は笑っていなかった。疲れが出ているのかもしれない。

「なんだよ、ひらりん」
「いや、なんでもないです」
「何でもなくないだろ、言えよー」
「夏希さん、大丈夫ですか」
「え? 私?」
「電車、苦手だっておっしゃってましたよね。車酔いは平気かなと思って」
「はい」
「おいひらりん、おれのことは無視かよ」

そんな風に絡む松夫には慣れっこなのか、無視して車を発進させる。電車はすぐ酔うが、車は平気だった。それに最近電車も平気だった。千花は車を持っていない。私たちの移動手段は電車か徒歩だ。電車に乗っても、千花に会うための時間か、千花と一緒にいる時間なら平気だった。

「夏希、上の空だね」

松夫が私の鼻を摘む。彼が好んでつけているLANVINの香水が香る。そんなことないよ、と言いながら指をなるべく丁寧に除けた。
今日、千花は祖母の家に行くと言っていた。デイケアの施設に行かない土日は千花と、叔父家族で交互に面倒を見ているのだそうだ。両親を事故で失くした後、面倒を見てくれた千花の祖父母。祖父が経営していた喫茶店を祖母が守り、千花が継いでバーにした。祖母の家も、あの町の海辺にある。カレーを教えてくれたのも祖母。千花が見せてくれた写真に写る祖母は、千花のように意志が強い、茶色い瞳をしていたが優しそうなしわが目いっぱい目元に寄っていた。

「夏希」

松夫の顔がすぐそばにあった。女の私よりも綺麗に整った肌。少し化粧品の香りがする。下まつ毛のキワにはわずかにアイラインが残っている。汗をかいただろうに、彼から嫌な香りがしたことは一度もない。きれいな顔だ。商品のような顔。いや、商品そのもの。

「ん?」
「あそこ、行く?」
「どこ?」
「ほら、前、結構前だけど、海辺のカフェでカレーやってたじゃん。木曜日だっけ? 食べられるとこ。俺、しばらくオフだしさ、また少ししたらアルバムとかツアーとかでまとまって休めなくなっちゃうから……」

深夜に呼びつけたことを悪いと思っているのだろうか。彼の手が私の手を握り、肩にもたれかかってくる。髪の毛からはシャンプーの香りがする。ちらと前を確認すると、平岡さんはもうルームミラー越しに見ておらず、運転に集中しているようだった。気づいていても、じろじろ見るような無粋な人でもない。疲れているらしく何度か繰り返し忙しそうに瞬きをする。肩にかかる松夫の重みが増し、私の体が黒い合皮のシートに沈んでいく。

「行こう」

彼の声は確信にみちたように言う。まるで何かを知ったように言う。

「……松夫は、私に付き合ってなんて言ってなかったよね?」

平岡さんには聞こえないように、もたれかかる松夫のつむじあたりに口を埋めて言う。わずかに残ったグロスに、彼の黒髪が一筋へばりついた。
松夫の返事はない。黙って待つ私に届くのは、彼の穏やかな寝息だった。

「眠っちゃったみたいですね」

平岡さんが言う。おしりにブランケットでも敷いてませんか、よかったらかけてもえます、と、丁寧だが断りづらい言い方をする。松夫が奥に追いやっていた、オレンジ色のブランケットをかける。使い古されているもののようで、たばこのようなカビた匂いがする。

「マツさん、ちょっと気ムラのある人ですよね。自由奔放っていうのか、でもみんなそれだから目が離せない感じ。不思議な魅力っていうんですかね。あ、ここでよかったですか」

気づくと松夫のマンションのすぐ前だった。深夜、車どおりもほとんどなく、まさに寝静まっている。私がすぐに松夫を起こして下りると思っていたらしく、平岡さんは後部座席を覗き込み、笑顔を浮かべ、見送る姿勢でしばらく固まっている。

「何か?」
「あ、いえ。自由奔放って、言うんでしょうかね。私にはどうでもいいことが多い人だと思ってたんですけど。私のことを含め」
「ええ、そうですか?」

平岡さんは私と同年代か、少し年上ぐらいだろうか。薄く眉とチークだけを引いている顔はやはり疲れが隠しきれていなかったが、シンプルな中にも洗練された美しさがある。一つに結った髪の毛から見える耳たぶにゆれる、金色のアメリカンピアスがわずかに光る。

「なんだかんだ、マツさんツアー帰りは絶対に夏希さんに会いたがりますよ。会いたがる、ってほど、うーん、素直ではないですけどね。私もすっかり、夏希さんのおうち覚えちゃいました。どうでもいいことが多い、というよりは、なんでしょうね。大事にしたいものを極限まで選んでるんじゃないですか」

え、と、戸惑う私に気づかないで、平岡さんは松夫を起こした。寝てない、と、意味不明な意地を張りながら松夫が車を降りていく。案外少ない荷物を受け取り、私もよたよたとあとを追った。千花が持っていて、なんとなく欲しくなって買ったニューバランスのスニーカーで。ヒールのない靴を久しぶりに買った。よく似合うよ、と、千花は笑顔だった。その夜、相変わらずちくちくする絨毯の上に薄っぺらい布団を敷いて、私のことを抱き枕のようにうしろから抱きしめると、「こんな部屋は絶対に自宅公開なんてできない」と言って笑ったかと思ったらすぐに眠った。
千花からは、2通、メッセージが来ていたが、見ようと思っていたのに眠さに負けて寝てしまった。

「また、爪のデザイン変えたんだ」
湯船で、千花が後ろから私の腕をつかむ。彼女の小麦色の肌と私の黄色みを帯びた白い肌は対照的だ。千花の、短く切りそろえられた爪と少し節の目立つ指が私の手に重なる。腹に回されたもう片方の腕と、背中にあたる小さなふくらみ、そのすべてがあたたかい。お互いがわずかに身を動かすだけで、お湯がちゃぷんと大げさな音を出す。千花は私の爪を入念に眺めている。ネイリストだけどこったデザインはあまり好きではなく、いつもワンカラーばかりだが、後輩の練習もかねて青みがったラメのグラデーションと、アクセントで両薬指には白いパールのベースにシェルが埋め込まれている。

「後輩の練習台みたいなもんだよ。あんまりやりすぎるとよくないし」
「なんで?」
「爪が薄くなっちゃうの。はがすときとか、つけるときに爪の表面削ったりして整えるからさ、弱くなるよ。仕事柄やってるけどさ」
「摩耗してくんだね。少し休まないと。いろんなこと」

どういうこと、と尋ねようとしたのにまるで聞き返されることを予想していたように千花はちゅ、と、わざと音をたてて私の首筋にキスをする。千花の唇は薄いのに、こうしてキスをするときは信じられないほど熱く吸いついてくる。そうされると私はもう何も言えないで口をつぐむしかないことも、きっとわかっているのだ。彼女と会えば必ずと言っていいほどセックスをしたし、いつまでもどれだけでもくだらない話をして、笑った。意味のないことや、他愛ないことで笑えるのは女子高生だけの特権だと思っていたのに、私は千花といると従順な少女に巻き戻る。

「あー、暑い。先出るよ」

千花はわざと勢いよく立ち上がり、お湯の飛沫をこちらに飛ばしてくる。やめてよ、と笑うと、いじめられるの好きじゃん、と笑い、彼女特有ののどの奥で笑う声を浴室に残して出ていく。ドアが開くと室内の気圧が変わって、脱衣所の空気が突風のように吹き込んできた。前髪からしずくが滴って鼻先に落ちて口元まで下りてくる。唇にたまったしずくを舌でなめると、不思議に滑らかな味がした。

「何やってんの。おいしい?」
「無味無臭」

ボクサーパンツと胸パッド入りのタンクトップを身に着けた千花が、開け放ったドアの向こうで笑っている。肩も腕も太もももふくらはぎも、無駄なものが何もなく、滑らか褐色の肌をしているが、マリンスポーツはやらないという。色黒なんだよ、と千花は笑う。彼女は洗面台に向き直り、こちらには横顔を見せながら真っ黒い髪の毛を濡れたまま前髪ごと一つにひっつめ、眉にピアスを刺し、いつもしている革のブレスレットをはめている。ひげでもそり始めそうな勢いだ。

「ひげ、剃りそうに見える」
「てめー。男みたいな髭、顎から一本だけ生えたことあるけど一回抜いたらもうなくなったよ」
「あたし、ひげも脱毛したよ」
「夏希のそういうところ頭が下がるよ」
「超痛いの」

今の言い方、松夫に似てたな、と思う。きっと誰もわからないが、私にはわかる。彼も商売柄、美肌を維持するとかなんとかで脱毛をしたらしいけど、髭が太い分痛いとか言っていた。その時の言い方。
ツアーが終わって私に会いに来て、彼のマンションで添い寝をして以来、松夫はかいがいしくメッセージを送ってくる。少し長い休みだから会おう、とも言われたが、カレンダー通りの仕事ではないのと、千花とできるだけ会いたくてのらりくらりと断った。断る私にさして食い下がることもなく、松夫の休みは終わったようで、今日はこういうロケだったとか、休みはいつとか、テレビにはいつでるとか、そんなことを送ってくるようになった。それまでは、急に今ひまだから来てとか、明日の昼どっか行こうとか、業務連絡のような呼び出しが多かったし私が返事をしないとぶつぶつ文句ばかりだったのに、日記のようなやりとりが続いた。そうして決まって文章の最後には「夏希は今日何してる?」と尋ねてくる。仕事だった、とか、友達(といって大体千花だ)とご飯だった、とか、そんなことを返した。松夫といると、自分は年相応の、恋愛の一連はもう経験して目新しさもなく、体の関係から始まる恋愛のようなものにも理解があり、子どものように会いたいとか好きだとか言わないで、むやみやたらに相手を思いやったり相手の中に食い込もうとするようなことはなく、自分の生活と相手の生活を区別して考える、そういう、女になった。千花といるときとまるで違うと、自分の二面性に自分自身で驚いている。
ぼんやり湯船につかっている間に、千花は脱衣所から離れていた。リビングの方から声が聞こえる。テレビの音か電話の音か判然としない。勢いをつけて立ち上がると、軽い立ちくらみと浮力を失った身体の重みを感じる。黒いバスマットの上に立つと、先に立っていた千花の水分が足の裏に染みこむように思えた。
出してくれたバスタオルでざっと全身を拭い、身体に巻きつける。髪の毛に残った水分が背中を濡らすのがわかる。小さめのバスタオル(もう何度目かしれないので毛羽だち具合からそれがその小さなバスタオルだとわかる)を棚からとり、頭に巻きつけながらリビングへ向かった。松夫の家のように床も、カーペットも、ソファもちくちくしない。窓際に立ち、少し曇った空を見上げながら千花は電話をしていた。テレビはついておらず、黒い画面に私の姿が映っていた。彼女はちらりと視線をこちらに向けたが、それは本当に一瞬、何の感情も持っていない視線だった。タオルにしまいこまれなかった、こめかみから垂れた一束の毛から肩へ滴がしたたる。

「うん。うん。明後日はたぶん大丈夫――ねえ、夏希」

一瞬、私の名前を呼ばれたことに気づかないでテレビの画面を見つめたままになっていた。千花の視線が私から動かないことで、やっと自分が呼ばれたのだと思う。窓の外の灰色の雲は絶え間なく動いている。

「夏希、明後日はうちら特に予定なかったよね」
「う、うん」

千花は口の端だけあげて見せ、また窓の方に向き直る。

「ということで大丈夫。うん。え? たぶん夏希はそういうの好きじゃないから。うん、それはわかるけど。じゃ、また時間適当に。はい。はいはい」

電話を切り、ソファに放る代わりに見慣れたラグランTシャツとデニムのハーフパンツを身に着ける。その動きに無駄はなかった。ぐっと伸びをして、いつものくつろいだ表情を私に見せる。

「どうかした?」
「……今の電話、誰? 私のこと知ってる人? 私も知ってる人?」

そう問いかけながら馬鹿げていると思った。どうして、松夫に見せる私を千花にも見せることができないのだろう。声がもうすでに震えてくる。あと五秒もすれば鼻の奥もつんとしてくるに決まっている。千花は表情を変えず、どんな言葉も顔にはちらつかせない。その茶色い瞳でしっかりと私を見つめ、その薄い唇の間からきちんと言葉を紡ぐ。そこに嘘や偽りはなく、混じり気のない言葉を。

「夏希のことを知ってるけど、夏希は知らない人。会いたいって言ってるけど、夏希そういうの好きじゃないでしょう」
「そういうのって……」

大体次の返事は予想ができている。予想ができているというか、もう何回目かの、同じような問答だ。私のことを知っていて、私は知らない人。ふとした瞬間に顔を見せる、彼ら。彼女らかもしれない。あるいは、そういうものを超えた人たち。現に千花だっていうそういう人たちなのだ。私だってそうかもしれないが、でも、確実に千花側と私側には透明の、やわらかくそれでいて決して打ち破ることのできない、膜みたいなものがある。千花は、私以外にも私のように付き合っている人たちがいる。相手の方も、おそらく千花以外にもそういう相手がいるのかもしれないし、千花だけしかいなくて私のように少女に巻き戻っているのかもしれない。一回だけ寝る、なんていうことも私自身してきて、身体だけの関係があることは私だって知っているのに。
松夫にはしないくせに、千花相手になると無理矢理にでも好意をわかってほしいし生活もなじませたいし、何もかもを知っていたい。だから、名も知らぬそういう人たちが見えるとき決まって詰問してしまう。初めて会ったときから、何度も会ってからも、千花はおそらくすべての相手に平等に接しているのだろう。それが千花の人を愛するスタンスなのだから、私が責められるわけでもない。でも、言葉が飛び出てくるのを抑えられない。

「そういうの、って、聞くのも夏希は好きじゃないでしょう。わかってるよ」
「……明後日会うの?」
「まあ……約束したしね」

彼女は肩を竦めて見せ、テレビボードに置いてあった黒い円柱型のピアスを耳につける。千花はいつだって平等だ。誰にも、私にも。

「いやだ、明後日は、私、やだよ」
「夏希、服着な。髪の毛も乾かさないと。夏だっていっても風邪引いちゃうよ」

弱冷房になっている部屋でも、確かにタオル一枚では肌寒い。それでも足が床に張り付いて動けない。変なところに力が入っているのがわかる。興奮しているからか鼻の頭にだけ汗をかいている。

「はぐらかさないでよ。なんで千花は平気なの? 私以外に好きな人がいるの? なんで? 許せない、私いやだ」
「夏希、」
「いやだ」
「夏希、」
「はぐらかさないでって言ってるのに!」

思った以上に声が出て自分でもびっくりする。頭に巻いたタオルが落ち、髪の毛が肩に下りてくる。べちゃ、と、水分を含んだものが肌にあたる音が私にだけ聞こえる。

「はぐらかさないで言っても、夏希はいやなんでしょう。あたしはずっと同じだよ。夏希に会うときは夏希のことを特別に好きになるし、ほかの子に会うときもそう。傷つけてることはわかるけど、それでもあたしはこうやってきてるし、納得してるって言ってたよね。夏希がいるときはそういう話はしてない。今のはあたしが悪かった。ほかの子が夏希とも寝てみたいっていってるのはちゃんと断ってる。あたしが夏希を好きっていうのことに対しては、ちゃんとけじめをつけてるつもりだよ」

千花のどの言葉にも怒気は含まれていなかった。優しさだけだった。空から不吉な音が落ちてきても、千花はたじろぎもせずにじっと私を見ている。のどのあたりに必要な言葉も不必要な言葉も全部ないまぜになってみじめな塊になって詰まっていた。窒息したくないがゆえにどうにか言葉を吐き出したいのに、間違って嗚咽が出てきそうになり、口をつぐむ。馬鹿げたほど、少女のように泣き虫だ。松夫が見たら驚くに決まっている。

「で……でも、いやなの、夏希が、そういうの、ほかの女とか、男かもしれない、自分の好きな、人が、ほかの、人とそういう関係なのは、いやじゃないの?」
「いやだよ。いやだから、それぞれに対してけじめつけてる」
「そんなの違う!」

千花は小さくため息をついた。これも何度目かだ。

「違くないよ。……何度も言ってるよね。言い争いしたくて一緒にいるわけじゃないよ。午後から夏希も仕事でしょう。あたし、少し早めに行かないといけないから。鍵はいつもどおりに」

千花は必要な言葉だけを並べ、過剰な動作をすることなく部屋から出て行った。彼女の心根の良さがわかる。雲が相変わらず不穏な音を降らせていた。

「あ、ワップの新曲、いいよね~」
千花の言葉や顔、あの瞳のことをぐるぐる考えすぎて不意に落ちてきた言葉にすぐに反応できず、目だけで問い返す。施術中はマスクを着用しているからどんなに無表情でも責められることはない。常連の星名さんは私のことはあまり見ないで、有線から流れる曲に聞き入っている。天井にスピーカーを探して上目使いになっているがちっともかわいくない。六十歳のおばさんだ。しわとしわの間にファンデーションが入り込んでよけいに肌の衰えを目立たせている。

「お好きなんですか? えーと、なんだっけ」
「ワップ。ワッツアップ。やーだ、サワダちゃん若いのに。娘が好きでね、このあいだなんて五大ドーム制覇したいとか言っちゃってさ、私とか旦那とかの名前でファンクラブ登録してエントリーして大変だったんだからさ。今もうチケットとるのも大変なんだよ。でもさ、こないだやってたドラマのさ、恋愛系なんだけどミステリっていうの? それのエンディングの曲がなかなか良くてさ~。あ、そうだ、今日発売の雑誌も買っていかないといけないのよ、ワップが表紙だっていうから娘から頼まれててさ~」

笑うと鼻が鳴るので、後輩は影でブタと呼んでいたのを思い出したが、癖のある客はもっといるので笑いもこみあげてこない。手全体に小じわが散り、年相応の手に年相応ではないネイルの色を乗せていく。今は夏だから、常夏カラーのグラデーションを入れてほしい、あとはおまかせ、と言われてから一時間が経とうとしていた。常夏カラーという言葉がどこか古臭くてまったく想像がつかないと思いながらも、カラーサンプルを見せながら爪に塗装を施していく。夏、と聞くと千花が思い出される。褐色の肌、海辺の似合うラグランTシャツ。いつもビーチサンダル。その爪にペディキュアは施されていないし、しないでほしい。眉のピアスが特徴的で好きだ。

「サワダちゃんはワップ聞かない?」
「テレビでたまに出てるの聞いたりとか……」

名前を言われたので今度はちゃんと反応する。

「え~そうなんだ。ドラマも面白いし聞いてみてよ」
「ドラマ気になります。家帰っても何にもすることないんですよね」
「え~、若いのに~。彼氏の一人や二人いるんじゃないの? あ、二人いたら困っちゃうか」

笑顔で受け流す。絶対に見ないだろうな、と思いながら貝殻の形を模したゴールドのパーツを甘皮の際においていく。トップコートを塗り、硬化し、また重ね、硬化する。同じ姿勢を取るのはつらいが、同じ動作の繰り返しは熱中できて助かる。星名さんはそこからまたドラマの話をし、主演の女優のゴシップを語り、助演の男優が経営する焼肉屋の話でネイルが完成した。会計を済ませ、しっかりとスタンプカードを押し、荷物をもって立ち上がった星名さんは、あ、と大袈裟に声を出した。

「これ、よかったらもらってくれない? ばかみたいでさ、私買う本数間違えちゃって」

差し出されたのは福砂屋の黄色くて長細い箱だった。

「小さいからさ、お店でみんなで食べてもいいし、ドラマ見ながらでも食べてよ」

星名さんは、ネイルサロンには似合わない黄色い箱を作業台に置き、軽やかに去って行った。その様子を一部始終観察していた後輩が背後でくすりと笑う。その声を聴きながら、松夫の部屋にあった、あの福砂屋のカステラはどうなっただろうとぼんやり思い出していた。

戸締りをし、裏口から出て従業員の通路にもなっている非常階段を下りていく。空調がきいていないコンクリートむき出しの階段は湿って生臭さが立ち込めている。一階と二階は韓国料理居酒屋で、大小様々な大きさの発泡スチロールが乱雑に置いてあった。ビルのオーナーに怒られたとかでつい最近きれいに片付いたと思ったのに、懲りないんだなと思う。厨房でがちゃがちゃと食器や料理器具がぶつかる音と、言葉に聞こえない注文を復唱する声や反芻する声がうるさく響いていた。階段を下りる自分の足音すら聞こえない。階段のこの区間だけはキムチのような酸っぱい匂いと、コンクリートの生臭さでなんともいえない悪臭だった。韓国ってこんな感じだろうか。千花には似合わない。松夫なら、一緒に行ってくれそうな気がした。
通りに出ると、人がざわざわと歩き回っていて街中は音であふれている。人の歩く音、店から漏れ聞こえる優先の音、大型ビルについた大きなモニターに流れるCM、車のエンジン音、街宣車から聞こえるアイドルの甘い声。駅に向かって歩き出すとすぐに鼻の頭に汗をかいた。人にぶつかりそうでぶつからない距離をとって歩いていく。あそこは、千花の店のあるあの場所は、どれだけ静かだったろう。ここから電車を乗り継げばたどり着くことのできる場所。もう、電車酔いも怖くなかった。千花に会うと思えば何も。彼女といると一瞬で空気が変わる。好きだからこそ穏やかになり、憎々しく思え、すがってしまう。本当に幼い恋心だ。わかっている。千花が特定の誰かを自らの恋人として選ぶことはない。この先、どれだけ待ってもたぶん、私が待てるだろう時間の中ではありえない。わかっていたことだった。初めて千花に抱かれた日に、そういわれていたし、私以外の誰かの影が見えるたびにヒステリーを起こす私に、千花はいつも今日のように諭して見せた。そして最後はいつも「こういう気持ちになるために一緒にいるんじゃない」という。それは、何度も何度も突きつけられる最後通牒。優しいから、何度も何度も提示してくれる。この先どこにも出口がないのは私だってばかじゃないのでわかっている。ナンパの相手なんだからこれまでどおり、一回セックスして一回お茶してそれで終わればよかった。カレーなんか食べなきゃよかった。あんなおいしいカレー。

「あ、ワップだ。これ見てから行こうよ」
「ええ、もう暑いし行こうよ」
「あたしワップ好きだもん。マツくんほんとかっこいい。あんたと同い年だよ?」

自分に言われたわけではなかったのに、通りすがりのカップルと同じように足を止め、彼らが見上げるモニターを見上げる。学生時代のころから続く音楽番組だった。見慣れた顔がトーク席に映っている。今日、星名さんが言っていた曲のようで、テロップにドラマの主題歌の説明が出ていたが、雑踏に紛れて音声自体ははっきり聞こえない。

「声、聞こえなくね? ほとんど」

立ち止まっていたカップルの彼氏がそういうと、彼女も曖昧に頷くが好きなアイドルの顔だけでも見ていたいというのは表情でわかる。他にもファンなのか数人が足をとめてモニターに見入っていた。
画面に映るアイドルたちは、たまに見かけるときのような奇抜で派手な服装ではなく、皆どこか揃い風のジャケット姿だった。楽しげにトークをした後、MCの女性タレントに促されて楽曲の用意に入った彼らがいったん画面から姿を消す。番組は彼らの曲を最後に流して終わるようだった。スタッフロールが勢いよく流れていき、MCが笑顔で手を振る。そして画面が切り替わり、マイクスタンドの前に立つ松夫の顔がアップになった。

「あー、マツくんかっこいいな」
カップルの彼女が感嘆を混じらせてつぶやき、歩き出した。彼氏は、ハイハイ、と相槌をして歩き始める。松夫の声も、他のメンバーの声も、雑踏にかき消されて聞こえなくなり、私も歩き始める。

見慣れた部屋のはずなのにどこかよそよそしく感じるのは、気持ちのよりどころがどこにもないことをどこかで感じているからかもしれない。十畳の部屋は、千花の部屋でも松夫の部屋でもない、私の部屋だ。ベッドに座り、髪の毛をほどく。色が抜けて金髪のようになっている毛が何本か抜けて指に絡んでいた。毛が抜けたことはショックではなかったのに、ああ、と声が出る。正面にあるテレビの黒い画面には、今日、千花と言い争いをしたときと同じ顔をした私が映っていた。
朝に湯船には浸かったし、と、誰に責められるわけでもなく言い訳をしてシャワーを浴びただけで出る。さっと拭いて髪の毛を乾かすのは後回しにし、さっき駅前の本屋で買った雑誌をぱらぱらめくった。表紙に戻り、自分でもどうしてこんなものを買ったのかわからないまま、四人グループの真ん中にいる松夫の顔を眺めた。仕事用の顔だ。私には見せたことがない顔。未だに本当にかっこいいのかどうか私には判断がつきかねる顔だ。今回のドラマ主題歌の件もあり巻頭特集されている。メンバーの様々な角度のカットの間を縫うように文字が走っている。音楽界では有名なエディターらしいが、私は名前を聞いたことがない誰かとの対談だ。

――今までのワップとちょっと違うな、というところが見えたけれど。意識はしていた?
マツ(以下「マ」)「『聴かせる』ものにしたいなっていう風に思って、これまでにないぐらい皆であーだこーだ言いながらつくったかな。そういう意味ではメンバーの、さらに知らない部分っていうのを見たような気もしていてる」
ガイ(以下「ガ」)「楽しかったよね。俺らももう三十路が近いわけだから、大人の魅力っていうか、そういうのを出していかないといかんよねっていうか(笑)」
イク(以下「イ」)「今までももちろん仲良かったけど、ちょっと踏み込めなかったところっていうのかな、僕は、そういうのも分かち合えたような気がしてる」
――みんなは養成所の時代からずっと一緒で、パーソナルな部分についてはもう十五年の付き合いだと思うけど、より自分自身の核に近いデリケートなところには触れてこなかった?
マ「もちろん、数えきれないぐらいいさかいもあったし喧嘩もした……触れてなったっていうか、たとえばイクが何気なく言った言葉のバックグラウンドをもっと知りたいな、と思うようになったというか。」
シン(以下「シ」)「十年以上の付き合いだからこそこそばゆくて、むしろ知りたくないっていう感じのところもあって。ほら、親のなれ初め聞くの恥ずかしみたいな(一同笑)。だけど、この曲をきっかけにして、なんかガールズトーク的なことしたんだよね」
イ「したした。楽しかったよな」
――曲作りがきっかけでお互いへの理解が深まった、と。十数年越しっていうのが面白いね。
ガ「大人になったからこそ恥ずかしがらずに話せることもあるし、大人だけど恥ずかしい夢も語れる。このメンバーでよかったって思えるよね」
――ところで、ガールズトーク……というよりはボーイズトークの内容が大変気になるんですが(笑)おもに恋愛の話?
イ「恋愛も、人生観も、全部かな。僕たち、そういう語り合いをする時期にめちゃくちゃ下積みしたからなんというか、語り合う時間すらなかったっていうのか。だからかめっちゃ面白かった。中学生みたいなレベルだけど、あの子はかわいかったとかめっちゃ好きだったとかさ。マツの話が結構覚えてる」
ガ「結構覚えてるって、俺たちのは忘れたのかよ(笑)」
――自分たちの音楽観に、恋愛が与える影響って大きいと思う?
シ「あると思う。恋愛は、愛情の動きだけじゃなくて人と人が一緒に生きていく上でのヒントみたいなものがあるし、失恋も自分の糧になると思うから、これからアップテンポでもバラードでも、自分の経験を声に落とし込んでいくっていうことができる」
マ「今、俺はとっても大切な人がいて。でも、その人には他に大切な人がいるんですよね。すごい悔しくて。悔しいっていうのは、そういうことに気づくまで、俺がその人のことを大切だって自覚してなかったことで。だから、今はその人に俺の素直な気持ちを伝えたいなっていう、そういうまっすぐな気持ちが恋愛から生まれてくるんだなって」

読み終える前に雑誌を勢いよく閉じた。心臓が口から出てきそうなほど、喉の奥で拍動を感じ、変な動揺で指先が震えた。もしかしたら心臓が口から出たのではなく指先に下りてきたのかもしれない。トップアイドルと言われるようなグループのリーダーが、あけすけに恋愛をほのめかしていることよりも、松夫がこんなことを言うことが、そしてそれがおそらく自分のことであろうことに、自分でも驚くほど動揺している。まだ心臓が大きく波打っている。若いと思っていたけれど身体の老いの証拠なのか、頭が混乱して整理がつかず、いや、でも、と無意識のうちに小さな声がこぼれていた。仮にこれが私のことだったとして、松夫も今やアイドルグループの一員なわけだから雑誌とかテレビとかの取材がこっちにあってもいいようにも思うし、このご時世だからファンがうちを特定しそうだし、最悪狂ったファンに殺されるんじゃないか。そういうのがないっていうことは私のことではないのか。ああ、でも。頭がパンクしそうだ。
雑誌を閉じたのに、松夫を中心とするグループ全員が表紙から私を見つめてくるので裏返した。ああ、と無意味に声をだし、よろよろと立ちあがって冷蔵庫を開ける。ほとんど千花のところでご飯を食べるかコンビニで買うかだったから食材はほとんどない。星名さんにもらい、後輩にも食べることを断られて押し付けられた福砂屋の細長い棒が鎮座している。あの、内側がビニールになった開けづらい内袋を開けるのは億劫で、冷蔵庫を閉めた。

深夜、何度か千花に電話したけど、出てくれなかった。この時間はきっと仕事が終わって家に帰りついているはずだ。ベッドに横になり、まどろみながらも熟睡することはできなくて、はっきり光る液晶をじっと見つめる。もう一度かけようか迷いながら、でも、彼女は出てくれないことはわかっていた。わかっていても、かけたい。もしかしたら出てくれるかもしれない。いや、きっと出ない。千花は今夜、私ではない誰かを抱くのか、抱かれるのか知れない。メッセージアプリを開き、千花とのやりとりをさかのぼる。出会ってもうすぐ三か月。たった三か月の文字のやりとりは大した量はない。いつだって会って話したかったから、簡単なやり取りばかりが並んでいた。勢いよくスクロールすればすぐに先頭までさかのぼり画面がぶつかる。かつん、かつん、とジェルネイルが画面にあたった。あまりにも顔が近づきすぎて、私の吐息で画面がわずかに曇っていた。湿っぽい。
急に着信画面に切り替わり、時間差でバイブレーションが作動する。驚きすぎてうっ、と変な声がのどから出る。小さく息を吐いて通話ボタンを押した。

「……もしもし」
「寝てた?」
「いや……うん……」
「何、どっち」

松夫は穏やかに笑った。深夜だからか、声が小さい。なんとなく、タオルケットを首元まで引き上げた。

「今日、発売になった雑誌があって……興味ないかもしんないけど、夏希にも読んでほしくて……」

あの音楽雑誌だということはすぐに分かった。何気なく買った、ほとんど初めての音楽雑誌がまさかあれとは。読んだことを伝えるべきか迷っていると、また、松夫は笑った。出会ってからほとんど、電話でこんな風に話したことがなかったな、と思う。こんな耳元で、彼の息遣いを聞くことが、セックスの間ですらなかった気がする。

「…………夏希、さ。付き合ってるやつ、他にいるんだよな」

松夫の声はよどみなかった。千花の顔が浮かび、すぐに消えた。胸が痛い。舌が口の中でどこかに行ってしまったのではないかと感じるほど言葉が出てこない。

「平岡もわかってて……。でも、別に俺はだからって夏希が悪いとは思ってない、し、謝ってほしいとかも、ないし……でも、お前、ちゃんとそいつのこと、好きなんだよな?」

舌を見つける。あっ、と小さな声が出た。脈絡のないその発声に、松夫は言葉を止めて何? と聞き返してくる。耳に当てた電話が熱い。私の体温のせいか、松夫の体温のせいか。そんなはずはないのに、そう感じる。

「……雑誌、読んだよ。あれ、あたしのこと? あんなこと言って、いいの?」
「読んだか……そっか……。夏希、のことだよ。うん。お前のところにいろいろ…いかないようにしてる…まあ、あんまり深く考えないで。事務所は別に恋愛禁止とかじゃないし、ちゃんとOKもらってる」
「そっか……。松夫の熱狂的なファンに殺されるかも……」
「は、は、」

彼は心底楽しそうに笑った。
それから少し、他愛無い話をした。松夫は私が答えなかった好きな人のことには触れなかったし、私は雑誌のことにはそれ以上触れなかった。五分か十分か、短い時間だったし、大した話は一つもしていないし、おそらくお互い眠気がピークに達していて、話した内容も本当はでたらめなことばかりだったかもしれない。それでも、私たちは今までのどんな時よりも同じことを共有したのだと思う。
眠い、とつぶやいた私に、松夫はそうだよな、とやはり眠そうな声を出した。

「夏希」
「うん」
「さっきさ、雑誌読んでほしいなんて言ったけどさ。……本当はばかみたいだけど、夏希の声聞きたかっただけなんだ。どうしても、話したかったんだ。夏希がなにしてるか、毎日知りたくて……お前に仮に好きな人がいても、なんでも、よくて、夏希の声が聴きたかったんだ」

一瞬息が止まった。私は、松夫の気持ちを知っている。
千花を思う私と一緒なのだ。
今までの松夫からきたメッセージがまるでスライドショーのように頭の中を巡っていく。彼からのメッセージ画面は、いくらスクロールしても、なかなか最初には戻らないはずだ。何度も何度もスクロールしても、行き止まりにならない。
鼻の奥がきん、と痛くなって、耳の奥もすぼまるような感じがして、これは、と思った瞬間に涙がぼろぼろと頬を伝ってパイル地の枕カバーに吸い込まれていく。吸い込まれないで表面を滑った涙は口元の方に滑ってきて口の端から中に流れてきた。あまじょっぱい。私が急にくぐもった声を出したからか、松夫はあわてていたが、返す言葉が何も浮かばず、間抜けな嗚咽だけを垂れ流していた。
私たちは、互いに、ばかみたいな幼い恋をしていたのだ。

空の青色と海の青色はどうして違うんだろ、と、松夫は改札を出た瞬間につぶやいた。雲一つない快晴で、ついでに海は凪いでいる。ドラマのようにかもめの声は聞こえず、波の音がかすかに聞こえるだけだった。じわじわと陽ざしがささり、帽子も日傘も持ってこなかったことをすぐに後悔した。松夫はスマホを見てあっち、歩いてすぐだよ、という。彼はキャップをかぶりサングラスをして、顔を俯けていればすぐに誰とはわからない。幸い、平日の昼間は人通りもさして多くなく、すぐに気づかれて騒がれたりすることはなさそうだった。平岡さんは車で送っていくと申し出てくれたそうだが、せっかくの彼女の休みを奪うのはよくないといい、私も松夫も丁寧に断った。
こっち曲がるみたい、と、細い路地を指差した松夫の声が聞こえなかったフリをしてまっすぐに進む。初めてここに来たときに間違えたように今日もまた、蛇行していた。こっちだよ、と、彼が後ろから追いかけてきたが、あっちの方もなんか雰囲気あるから、とよくわからない理由をつけてそのまま道を進んだ。もう汗が鼻の頭から噴き出してきた。松夫は涼しい顔で後をついてきて横に並んだ。白いTシャツに濃いブルーのハーフパンツをはいている。シンプルなのにやはりさまになっていた。
雑誌に松夫の発言が載った数日後、職場には来なかったこそすれ、自宅の前に数人、記者のような人がいて話しかけられたりしたが無視を決め込んだ。事務所が恋愛を禁止していないとはいえ、松夫関連のSNSは炎上したようだが、荒れるのも最初の方で、今では落ち着いているという。週刊誌にも載ったと平岡さんからは聞いていたが、私は見なかったしゴシップ好きの星名さんでさえ私ではないかと怪しまれることもなかった。熱狂的なファンに殺されることもなかったし、松夫がマンションを解約し一緒に住もうと言ったので、一緒に住み始め、半年以上になる。顔を合わせることはほとんどないが、これでよかったような気もする。私と松夫の同棲のことも、やはり週刊誌に載っていたようだったが、アイドルが相手をころころ変えもせず堅実にいることはあまり話題にならなかったみたいだ。たまにマンションの前に記者のような人たちはいるが、前ほど迫ってくることはなくなった。

「夏希、こっちだよ」

海の音も聞こえなくなり、住宅地に入りかけ、さすがにあきれた声で松夫は私の腕を取った。前だったら振り払っていたかもしれない。どうでもいい癖にあたしに触らないで、とかなんとか言って。

「げ、手のひら汗まみれ」
「顔とかはかかないのに手のひらだけ異常に汗かくんだよな。マイクよく落とす」
「それやば」
「やばくねーよ。夏希の腕、あつ。日傘持って来いよな」
「前持ってたの無くした」
「帰り買おう」

彼は全く迷いのない足取りで道を戻り、曲がりしていく。海の音が次第に近くなってきて潮の香りが急にし始めた。汗が髪の生え際から一筋落ちてきた。
青い瓦屋根に白い壁が見えてきた。正方形の窓も古い木目のドアも変わらずある。近くに来て、ようやく、ドアにあった「Bar CHIKA」の青い文字が消えているのがわかった。削ったような跡がある。「closed」すら出ていない。

「やってない、んかな? 電気もついてないし、開かない」

水曜日の昼はカレーやってるってなってたよなあ、とぶつぶつ言いながら松夫はドアノブをつかんで動かすが、木がきしむ音だけがする。窓も、どことなく白く濁っていて手入れがされずにずいぶん経っているようだった。ここに立っていたら、また、あの時のように千花がひょっこりとあらわれるような気もしたが、そんな偶然はもう下りてこないんだろうという確信もあった。水曜日のカレーも、人が多いからといって決めた臨時休業も、そもそものバーの仕事も、いつ終わったのか私は知らない。
彼女のあの瞳も、声も、滑らかな肌もすべて覚えているのに、もうたぶん、出会うことはないのだ。あっという間に始まってあっという間に終わった恋だった。それしか、私にはわからなかった。

「はー。せっかく来たのにな。他に店探す? 一年越しだったのに」
「松夫が休みとれないからじゃん」
「お前が行きたくないって散々ダダこねるからじゃん」

松夫はキャップを取って頭をかきむしった。汗で束になった髪の毛がほぐれていく。

「あっつ。とりあえずどっか入ろう。俺、もうお腹空いて死にそうだし暑い」
「あたしも」
「やっぱカレーかな。辛いの食いてえ」
「あたしナンがいいな」
「わかるー」

松夫はまた私の手を取り、スマホをいじりながら歩き出した。私もそれに連れられるままに歩きだす。
少し離れてからまた振り向いたが、やはり千花の姿は見えなかった。
空も海も、青かった。

END