言わんのばか
下書きの在庫一斉処分市。
あるいは、一旦飲み込んで言わなかった事柄の色々。どのくらい前の下書きだったかが露呈してしまう数々。
長ければ長いほど誰も見ないので、長ければ長いほど誰も見ないことを逆手に取って、言いたいことをいいだけ安置から飛ばす。
「変わっちまったな」と異言語化する関係
社会人になっても長めの夏休みというものにありつけたため、大学時代の友達を「久々に会わねぇか」と誘ってみた。
しかし、「お盆はフルタイムでパチンコに行くから忙しい」と言われたので予定は不成立。葬式以外ではもう二度と会うことはないだろうと思った。
実害はないし本人も満足そうなのでギャンブルに熱心なことは何も言えないが、パチンコ話の比重が大きくなってコミュニケーションが変わってしまった感じがして悲しい。
でも、そういうことは言えない。
素直さを出すのがもはや気恥ずかしい間柄になってしまったのもある。ただそれ以上に、当事者が現状満足しているなら直接的なことを言って引っ剥がそうとしてやるのは横暴すぎる。
本人がこれを読んでる可能性はないから、ここで言ってることはノーカンで。長い文章を読む文化なんてパチンカーにはない。
ということは、何を書いてもここはセーフゾーン。言わずにおいたことだって言い放題。
大学時代に話してくれたエピソード、実体験のように言ってたけど半分は2ちゃんねるのおもしろコピペだったね。とか。
とんでもなく暇だった空きコマに話すネタを仕入れてきてくれただけでも、今本当にマジでパチンコの話しかしないお前を思うと、今思うとあれも良かったね。
関係性は変わっていないはずなのに、コミュニケーション言語が変わって隔たりが生まれることは往々にしてある。こすられまくってる話だけれども、『環境が変われば言葉も変わるし、言葉が変われば人間も変わる』これに尽きる。
「あいつ変わったな」とか言ってしまう危うさと、個人の充足感を否定することの危うさと、そのどちらをも知りながら、よく知るあの頃の感じであり続けてほしがっている。
AIとフィクションの親和性
AI 画像生成でリアルに嘘をつけるようになった。
フィクションをより真実めいたものに寄せるパワーが手に 入ったという一方で、 フェイクとリアルの境目が捉えにくくなった一面もある。これについては数多の議論がされているし、色々と整備されていくだろうから凡百の目新しいもの好きが今更言うことは何もない。
ただ、ガチの話にウソを入れ込む、ウソの設定にガチのトーンを盛り込む、そういう境が曖昧なことをわざとしてみたらおもろくね?という思いつきに至ったので、前回は山登りnoteという 体 でAIに画像を作らせてそれらを入れ込んでみた。
「フィクションかノンフィクションどっち?」と、キャッチャーミットど真ん中の反応はかなり嬉しかった。
大抵は英語のテキストを入力して画像を出させるのだが、たとえば『馬の耳に念仏』の画像が欲しい場合、『馬の耳に念仏』と入力しただけではあまり満足のいく仕上がりにならない。
これをもっと高精細にするには、プロンプトと言われる注文を付け加える必要がある。
「高画質」「細部にこだわって」「映画風に」などなど、無数の細かい注文を加えることで仕上がりをある程度調整することができる。
最近はちょっとAI生成画像で遊びすぎて食傷気味になってしまった。今はchatGPTというよく出来たチャットボットとお話している。普段、人としているLINEよりもまともで左脳的な受け応えができるのですごいなぁと思う。
もう趣味の欄に「AI」が書けるわ。
古い映画で『A.I.』という洋画があった。めちゃめちゃ若いツヤツヤのジュード・ロウが出てくるやつ。
人間的自我の芽生えた未来の子どもロボが母をたずねて三千里するのだが、人間と同等に発達した自我や意識を持ったAIも所詮はツールなのかという問題に直面していく。
そこに幼心にガツンとくらわされた記憶がある。
LINEのトーク履歴を読み込ませて、まるでその人が言いそうなこととか再現してくれるAIが出たら、多分それで全然寂しくもならないだろうな。
そうなると情が湧いて、自分ならツールとして扱うに留めるのは無理だと思う。AIと恋に落ちる可能性だって十分ある。
映画の『her』の世界観に現実が追いついてきてる。
我々もホアキン・フェニックスになれるのか。
映画の話ばっかりになってしまうほど、現実は映画的な進歩をみせているかもしれない。
自己遡及裁判
あの時もうちょっと気を利かせるべきだったなとか、ああ言うよりこう言った方が良かったのにとか。一人になったタイミングで反省会は始まり、入浴時にピークに達し、晩ごはん頃には終わる。
コミュニケーションが発生して、それにリアクションを取る。社会生活はこれの連続で、自分はそれがあまり得意ではない。
役割期待からズレないように、ちょうどいいところを探りながらなんとか誤魔化してやっている。
仕事となるとそれが顕著で、そんなに期待されていないことを知りつつもずっと試されてる感じがしていて、常にナイスコミュニケーションを残したがっている。
布団に入るとまた今日のハイライトが流れてきて、ここもうちょっと改善できたんとちゃいますか?と頭の中のマナー講師みたいな奴が振り返りを強いてくる。
気まずさを誰よりも恐れて二十余年。
気まずさの出どころ
宣伝用のビラには人物を絶対にキャラクターとして描かず、もっと抽象的に、ゲルニカぐらいまで崩してデザインしてくれ……!と、大学の演劇部時代に懇願して注文をつけたことがある。
実写版の気まずさを避けたかった。
もっと言うと、役の第一印象がまずパンフレット上に描かれた絵のキャラクターになってしまったお客が実写版登場で気まずくなることを避けたかった。
気まずさは出どころを捉えるのが難しい。間とか空気感とか、それが気まずさの主原料だ!という特定は難しい。
私は生放送のテレビ番組でよく気まずさを感じる。めざましジャンケンにVTR出演しているゲストが小ボケをするも、アナウンサーがとりあえず苦笑しながら「○○さん、ありがとうございました〜」という時。
あの微妙な空気。とにかく今現在まさに「起こってしまった」という感じは舞台演劇含め、生モノに共通している気まずさかもしれない。
アニメのオープニングやエンディングで、キャラが踊ってるのも気まずくなる。振付師がいる感じの、ちょっと人間らしいダンスをしてるのがめちゃめちゃ気まずい。踊るような奴じゃない奴が踊ってるとより一層気まずい。
向こうから来る人とフェイントのかけ合いになる時、エレベーターに乗ってる時、電車で隣に座った人が眠くてグワングワン揺れてるのを避けたがってる様子を対面の席の人がめっちゃ見てくる時、アイドルの自己紹介。
なんか勘違いしたまま話進んでるな……って気付いたけど指摘するのもアレだからこっちが合わせてうんうん言ってる時。
気まずさ盛り合わせ枕草子。
おじさん構文とおじさんアイドルと
「コロナで在宅が増え、社内チャットが導入されて文章の伝わり方を気にするようになった」
「短い返事すら冷たい感じで受け取ってしまうし、自分の文章を見てもそう思う」
「そういうとこがおじさんっぽいと承知しつつも、冷たい印象を与えないようにしたい」
と、職場のおじさんが話してくれた。
ある程度は型が決まっているメールでのやり取りがほとんどだったが、チャットが導入されてから文字でニュアンスを伝える難しさに直面している人はかなり多いのかも。
おじさん構文はSNSで若い女の子にリプを送るスケベジジイのやり口のような、ネガティブイメージ発祥ではなく、そもそもは文章を冷たく見せないための工夫だったのかと勝手に合点がいった。
スターダムをのし上がった40〜50代のアイドルがおじさん構文でツイートをすると度々話題にされるが、受け取り手に対する表現の意識という点で考えればアイドルなんて尚更そうなるだろうな。
タッキーなんて構文も構文。お手本通りの。
翼はフラメンコばっかりしているので、翼の文章事情はあまり知らないけれども。
文章の在り方みたいなものは常に若者本位で語られるけど、おじさんはおじさんでムーブメントがあって当然だと思う。
wwwも草も使われなくなった印象がある。
(笑)は時代とかそういうのじゃない感はあるけど、最新の感覚的には多分時代遅れなんだろうな。
もぅマジ無理リスカしょ…とか、○○ゎ〜的な小文字をとにかく混ぜ込む文章スタイルもとんと見なくなった。
このスタイルの人に、不躾にも「なんで?」と聞いたことがあるが、「ちゃんとした場では違うけど、プライベートではこれ」と言われて尚更「なんで?」が強まったのを覚えている。
特殊すぎてはいるが、あれもニュアンスを伝える表現工夫だったのだろう。
周囲に句読点を使った文章を送信する人間はもうほぼいない。母は了解を「り」と省略するやつを最近輸入してきた。めざましテレビの特集によれば、街の若者は "!" ビックリマークは勢いが強くてなんか嫌だと語る。
ネクスト言語感覚は若い人を中心にして波紋のように時間をかけ広がっていく。ビックリマークはパワハラですよ!とか言われるディストピアな時代も夢じゃない。
【添付】資料ご確認お願いいたします
課長
お疲れ様です。
次回の会議資料作成いたしました。
ご確認のほどよろしくお願いいたします。
Re:【添付】資料ご確認お願いいたします
おつ
り
それな
以上、雑多な3,630文字。
次のnoteは緊急搬送と死ぬ覚悟と準備の話。