榊原紘『悪友』デジタル栞文-vol.3-

「遠泳」同人の榊原紘の第一歌集『悪友』(書肆侃侃房)が刊行されました。毎週一回、「遠泳」メンバーがリレー方式で歌集についてnoteを更新しています。第三回目は坂井ユリが担当です。

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第三回:無題

 昔、同僚に連れて行かれた占い屋(タロットカード)で「どんな努力も実を結ばない人」と言われたことがある。度肝を抜かれた。事実、私の努力は実ったことはない(と言える)。というより、努力を続けられない性質なのだ。榊原さんはそんな私とは正反対の人だと思う。努力のできる人。こよなく自分を信じられる人。そういう、底抜けの強さを持つ人。これはあくまでも私個人の印象で、本人がどう思うかはわからないけれど。『悪友』を読んでいると、私のこの印象も間違いではないのだろうなと思う。

願望が絶えない 昼夜の寒暖の差に僕たちは買い物をする
/由来

 例えばこの歌。「願望の数」、それがひとつっきりでも複数でもどちらでもよい。私の眼目は、やはりこの「僕たち」が願望を絶やさないでいるところだ。だって願望は絶やさないでいることによってでしか絶えないでいられないのだから。そういえば、鷲田清一によれば「待つ」という行為は「『応え』がなかったという記憶をたえず消去しつづけることでしか維持できない」そうだ※。待つことと、願望を絶やさずにいることは似ている。私にとって、待つことも願望を絶やさずにいることも等しく、苦痛でしかない。

 こんな私と榊原さんだから、榊原さんは仲良くしてくれていたけれど、そして私も榊原さんがとても好きだけれど、どこかいつも怖かった。自分の限界を目の前にして、怠惰に立ち止まることでしか立っていられない私を、生活や短歌を続けられない私を、榊原さんは叱咤したいのではないか。そう思っていた。まあこれは今になって思うことであって、当時は馬鹿みたいに馬鹿みたいな話をずっと聞いてもらっていたのだが。

 話を元に戻す。私は榊原さんと彼女の歌から、常に前方に向かう精神を感じ取っていたわけだ。しかしながら歌集を読んでみると(これまで読んだことのある歌のはずなのに)、そういった印象とは違う歌がいくつもあった。そういったものに、今は惹かれている。

硝子戸の桟に古びた歯ブラシを滑らせ春の船跡のよう
/名画座
記憶にない火傷の痕がある膝に母が花火と教えてくれる
/はためく
幾つかの春が果てたら焦点が合ったみたいに出会えるひとよ
/由来

 「船跡」「火傷の痕」「幾つかの春」。どの歌も、主体は過去(のようなもの)に思いを馳せる。あるいは今・ここという、自分が目で見て肌で感じられるものたちでできた時空間、ではないものに到達しようとしている。こういった歌を読むと心底泣きそうになる。あらゆるものの存在が、きっと受け容れられているはずだと信じたくなるのだ。

 『悪友』刊行、本当におめでとうございます。


※鷲田清一『「待つ」ということ』(角川学芸出版)

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