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母さんの夢 5

 私に不満を抱かせ続けた夫は、今、小さな箱を開けている。
 出てきたのは油壷。
「あ、そうだ。月曜日にイーゼルが届くから、受け取り頼む」
「オッケー」
 何がオッケーだ。そんな返事をした自分が嫌になる。
 でもさすがに、イーゼルまでは抱えて帰ることができなかったのだろう。浩哉君の部屋にあった絵を立てかけるための道具、イーゼルだ。
 キャンバスが置かれていないときには、スモッグ替わりのシャツが引っ掛かっていた。そして私は、そのシャツの匂いをかぐのが好きだった。
 ええい、悔しい。情景が、はっきりと目に浮かんでくるではないか。
 浩哉君……。夫の名前を呟きながら、シャツに頬ずりする私。
 今すぐ抹殺したい記憶だ
しかし、遠い日の記憶というのは、抹殺するには甘美なのだ。
 そのシャツが臭かったことはない。森の中にいるようないい匂いだった。
 浩哉君を油絵具の汚れから守っていたあのシャツの色は、ミッドナイトブルー、否、ロイヤルブルーだった?
 あれ? 何色だったっけ? はっきりと目に浮かんだわりには、色が定かでない。でも古い板張りの部屋で、イーゼルに青いシャツがヒョイと掛けてあったことは、はっきりと覚えている。
「ねえ、この部屋のどこをアトリエにするつもり?」
 3LDKのマンションの、どこを、だ。
「ここじゃだめか?」
「だめに決まっているでしょう。こんなところで描かれた日には、ご飯だって食べられない」
 あの頃とは、えらい違いだ。
「でも、僕はこの絵の具じゃないとだめなんだ」
 はい?
「臭いを抑えたものも出ているらしいけど、僕はこれを使う」
 使えばいいじゃない。全く、もう……。
「私は、あなたが絵を描く場所を訊いているのよ」


   続きます

この頓珍漢な夫婦の会話。
そりゃあねぇ、画家が使う絵の具に外野が口出しはできませんて。
その辺りは、翔子も理解しているようですな。

写真はロンドン、
公園の一角です。
太陽に向かってシャッターを切ったら、こんな写真になりました。

この写真はね、
見ただけで、あなたに幸福が訪れると……、言われておりません。

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Yu-to

私にサポーターが現れるとは思えません。 え? してくださった? おおきにどすえ。

いいことあるよ♡
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主に小説とエッセイを書いています。 別の媒体で出版した物語を加筆訂正しました。 続けて読んでいただければ嬉しいです。