見出し画像

爪跡と生活  - Life with Disaster - 大子・久慈川篇・前編

 「失われた街」という表現が正しいのかどうかはわからない。

 バブル華やかなりし1980年代、日本全国には大型宿泊施設を伴った温泉地が文字通り氾濫していた。当時は慰安旅行全盛の時代で、同じ会社の従業員や地域の集まり、あるいは農協などのつながりから結集した50人100人規模の団体客が同じ宿に泊まり、宴会場で一堂に会して酒を飲みながら無駄話に花を咲かせ、近隣の温泉街に繰り出しては狼藉を働くなど、今の時代では考えられないような過ごし方をさも当たり前のようにしていた時代だった。
 栃木県には有名な温泉地がいくつもあり、そのいずれも時が過ぎた今では凋落の一途を辿っている。もちろんここ茨城県も例外ではない。県の北部に位置する大子町は「奥久慈温泉郷」と呼ばれ、観光資源に乏しいといわれる茨城県でも有数の観光地であった。

画像1

 だが栄華を誇ったその温泉郷も全国規模の衰退からは逃れられず、2000年を契機に廃業の連鎖が起こった。当時大子町で最も大きかった「奥久慈グランドホテル」は久慈川と押川の合流地点に位置し、奥久慈からの雄大な流れを一望できるホテルとして人気を博していた。
 ところが1999年、バブル崩壊後の全国的な景気低迷に加えて、茨城県東海村で起こったJCOの臨界事故を発端とした風評被害が発生。ただでさえ苦しかった経営はその新たな苦境に持ちこたえられず、奥久慈グランドホテルは翌2000年に廃業した。しばらくはいわゆる「廃墟ホテル」として一部マニアには有名だったが、競売にかけられていた同ホテルを2005年に大子町が購入。同地を親水公園「湯の里公園」として整備し現在に至る。
 洲の突端に位置する湯の里公園はJR水郡線の常陸大子駅にもほど近い眺望の良い公園だ。道を挟めば隣に大子町役場があり、商店街もほど近く、大子町のシンボルと言っても過言ではない。

 この湯の里公園と大子町役場を台風19号による洪水が襲った。2019年10月12日のことである。

画像3

画像4

画像36

画像37

 その日の大子町の降雨量は降り始めから10月13日0時までの9時間に累計で270mmを超え、久慈川とその支流である押川が相次いで氾濫した。大子町役場は前述の通りこの2河川の合流地点に位置しており、10月12日22時ごろ押川からの越水が確認された。その後、久慈川からも越水が始まり、両河川から濁流が低地へと押し寄せ、同役場の駐車場を泥で埋め尽くした。最初の越水が確認されてから1時間後の23時ごろには約2mもの浸水が記録されている。

画像5

画像6

 この氾濫地域では死者も発生している。91歳になる一人暮らしの女性が自宅の1階部分で死亡しているのが氾濫の翌日10月13日に発見された。被害者宅は久慈川のすぐそばにあり、家の隣に堤防はもちろんあるものの、越水は1階部分の165cm近くまで確認されたという。2階もある家だったが、被害者は足腰も弱く、あっという間の浸水では逃げ切れなかったのかもしれない。近所からは「越水前に声をかけていれば」と悔やまれる声も聞かれた。久慈川は茨城を代表する河川だが、住民にとっては近しくも恐ろしい川でもあるのだ。

画像7

画像11

 久慈川は福島県と茨城県との境にある八溝山の北側斜面を源流とし、八溝山地、阿武隈高地を南へと流れ茨城に入り、大子町、常陸大宮市を経て日立市と東海村の境から太平洋へと注ぐ、全河川長124kmを誇る大河川である。
 一方の押川は栃木県大田原市の八溝山南側斜面を源流とし、大田原市のはずれを流れながら大子町へと入り、相川川・初原川などの支流と合流してここ大子町役場付近で久慈川へと注ぐ。水郡線の線路はこの押川の上を渡っており、その鉄橋にはびっしりと漂着物がこびりついて台風の爪跡を物語っている。
 町役場の反対岸にある店舗は越水による泥濘に蹂躙され、薄く積もった土化粧を残して全く人の気配がない。川岸の道に併設された安全柵には観光地風の看板がいくつもあったが、そのいくつかは当日の濁流によってなぎ倒され、無残な姿を晒したままだ。

画像8

画像9

画像10

 大子町は観光の街である。年間を通して約100万人以上の観光客がここ大子町を訪れる。地理的には茨城県の最北端に位置し、八溝山を境に北は福島県、西は栃木県と接している。観光及び農業を中心産業とした街であるが、人口は2万人を切っており、また観光客数もそれに比例するように少しずつ減っている。この減少には今も歯止めがかかっていない。
 茨城県の観光資源といえば何といっても太平洋を思い浮かべるが、茨城県下の海水浴場に訪れる観光客の年間の入り数は約50万人程度で毎年推移している。もちろん約2か月間の短い間での数字なので、年間を通した大洗や那珂湊の観光客数を合わせれば年間で800万人ほどになるが、この海水浴客の2倍以上の観光客が大子町を訪れていることになる。
 観光資源としては風光明媚な自然を主体としており、全国的な知名度から言えばその目玉は「袋田の滝」であろう。

画像12

画像13

画像14

画像15

 袋田の滝は高さ120m、幅73mの大きさを誇る一大瀑布で、日本三名瀑の一つに数えられている。滝の流れが大岩壁を四段にかけて落下することから別名「四度(よど)の滝」とも呼ばれる。久慈川の支流である滝川の上流にあたり、冬には滝が凍結する「氷瀑」という現象が起こることで有名だ。春夏秋冬を通して風光の変化が大きく、それぞれの季節にたびたび訪れたくなることから「四度の滝」と呼ばれるのだとも言われている。
 袋田の滝は年間を通じて人気だが、大子町の観光客数のピークは何と言っても紅葉を迎える秋であり、特産品である「奥久慈りんご」が紅く色づいて食べ頃になる時節だ。袋田の滝の紅葉を眺め、秋の味覚を楽しんで温泉に浸かる。これが大子でも人気のある観光コースの一つだ。

画像16

画像17

画像18

 久慈川と押川の合流地点である氾濫地域から、その温泉宿が集中する久慈川沿いへと北上すると、もう一つの大規模氾濫地域である池田橋付近へと出る。こちらの崩落個所は数も多くそれぞれの大きさも桁違いだ。取材時はフレコンバッグとブルーシートによる仮工事がどうにか終わった程度で、本格的な復旧にはまだ時間がかかると見受けられた。
 崩落の多くは右岸側で起きている。その久慈川の右岸を池田橋から北へと歩けども歩けども、視界には新たなフレコンの築跡が入ってくる。その築跡のそばでは、濁流にのまれた家々が待つ者もないまましとどに濡れる雨の中にひっそりと佇んでいる。

画像19

画像20

画像21

画像22

 この地域を襲った水流の威力は筆舌に尽くしがたいものだ。塀は倒れ、建屋の基礎部分から根こそぎ破壊されている家もある。金網は水圧に歪み、多くの家屋の1階部分はがらん洞になるほど生活の痕跡を流し去ってしまった。頑丈に見える企業や店舗の建屋でさえも例外ではなく、自然の脅威は人間の悲喜こもごもをみな一様にさらい尽くし、静寂だけを残して去っていった。

画像23

画像24

画像25

画像26

 冒頭にも書いた「失われた街」という印象は、被災状況だけを表したものではない。年々減りつつある人口と観光客数。古くなり続ける橋や線路。人々が集い乱れた巨大な建物も、砂楼のごとく跡形もなくなってしまう。それは災害のような一瞬のインパクトであれ、不景気が襲い真綿で首を絞められるよう徐々にであれ、常に何かが失われ続けている。
 自然災害は時間軸とは無縁であり、それが起きる瞬間を予測することは人間には不可能だ。対して人間の経済活動というものは、ぬるま湯に浸かった蛙が次第に上がっていく湯の温度に気づかぬように、当事者は迂遠なまでに周囲の衰退に対して鈍感だ。

画像27

画像28

画像29


 人は必ずどこかに住む。その多くは街だ。しかし街とは、失われていく場所なのだ。


画像30

画像31

画像32

 それを防ぐ手立てが「政治」や「経済」だと思いたいが、人間のなすことには限界がある。行いが必ずしも正解だとは限らないし、正解がすなわち正道でもないだろう。やっても無駄なことは数多いし、やらなければよかったと後悔することさえ稀ではない。だが、それらが検証できた時にはおそらくもう手遅れなのかもしれない。

画像33

画像34

画像35

 大子町の被害は中心部と池田橋付近だけではもちろん終わらない。袋田の滝でも浸水被害があった。滝のすぐ近くにある観瀑台から泥が押し寄せ、通路が約200mにわたって泥だらけになったのだ。滝の入口には数件の土産物店が軒を連ねるが、その中の1軒「まるせんや」では高さ1mまで浸水。テーブルや多くの土産物が泥に浸かった。店舗内を消毒し、水に浸かった商品はすべて廃棄せざるを得なかった。
 急ピッチで復旧作業を進め、10月20日にはどうにか営業再開にこぎつけたものの、被災によるJR水郡線の運休は続いていた。店主は「秋の紅葉シーズンに向けて、首都圏からのアクセスが回復しないのは痛い」と毎日新聞の取材に対して弱音を漏らしていた。

画像36

 その悪い予感は的中する。水郡線が再び大子町まで通行できるようになったのはつい先日、2021年3月27日のことだ。

 (後編へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?