サビアンシンボルでアカシックリーディングする(34)20210823

サビアンシンボルでアカシックリーディングする(34)

2021年8月16日から書き始める

今回はいて座、やぎ座、みずがめ座、うお座の22度について書いていく。だんだん22の数字に慣れてきた。20の数字以後、時間の一方向性の進行が打ち破られているので、これを説明するのが難しいと言える。もちろんこのような意味を22の数字に与えるためには、異なるコスモスとの関係が重要で、単一コスモスの中では成り立たない。これをタロットカードにするのは、かなり面白いのではあるまいか。

奪衣婆は洗濯屋か

 21度は上昇し、22度は降りてくるというセットでは、いて座21度A child and a dog with borrowed eyeglasses.[借りた眼鏡をかけている子供と犬]、いて座22度A Chinese laundry.[中国の洗濯物]は、無理な勉強をしていく、自分の足元に降りる、という説明が、トリトコスモス用に通用した。
 これは試験勉強で、一夜づけをするが、次の日の学力試験で、自分の実力を思い知らされる、足元を見よという続きだ。結局自分の素性はこれだ、というようなことが22度の着地で生じることから、中国人とはアメリカに来ているが、自分は中国人なのだと思いだす。ならイタリア人のピザ屋でもいいのかというと、トリトコスモス専用ならあまり問題はないと思う。
 でも、このサビアンシンボルをメゾコスモス以上の領域に応用しようとした場合、 中国の洗濯物という言葉をそのまま使うことができるかどうかは迷う。
 このセットをわたしは「3歩進んで、2歩下がる」というふうに説明していたが、変成意識への導きとしてのサビアンシンボルは、言葉を見ているだけで、枠を破って破裂するというような印象があり、そもそもエリスが中国人という言葉に思い入れがあると思うので、この中国、洗濯というふたつの言葉が、トリトコスモス的な横のつながりで維持される意味の枠から、すぐにはみ出してしまうように見える。むしろはみ出させいほうがいい。それに上がって降りた場所はもとの場所でもない。
 エリスは詩人・霊能者だが、これは自分が発する言葉のすみずみまで自覚しているのかどうかはわからない。なので言葉の定義を従来のものから、はみ出させても間違っていないというより、「印象の多角的増殖」という観点からすれば、あれこれといじりまわしても構わない。

 奪衣婆は、三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る。そしてこの衣服は、川のそばの木にかけられて、乾かされる。奪衣婆も、時代とか場所によって説明が変わるし、仏教徒の脚色が毎度のようになされるし、仏教者は残酷イメージを使うことも多いので、衣服がない者は皮をはがされるという説明も加わったりする。なので、どれを真とすればいいのかわからなくなると思うが、そもそも記述としての真はない。これは神話元型なので、言葉にした時、さまざまな言い方に変わる。
 なので、わたしのほうが勝手に解釈を加えるのがいい。わたしはあるルートを示したと言えばいいのだ。違うルートもある。そこで、亡者の衣類は、人間がこの世で生きるためのアカシックレコードの着物だ。
 三途川を天の川銀河と考えてもいいが、そこに入る時人は「人の形」を失う。シュタイナーは、人が死ぬと、エーテル体、アストラル体を順番に切り離すと言うが、これは順番に、外側から衣服を脱いでいくということだ。つまり着物は単衣でなく、下着、上着という具合に何重か。
 その人の最終的な自我、コアが、どこのコスモスにあるかによって違うと思うが、このコアに行くまで、段階的に脱ぎ捨てられる、というのがシュタイナー説だ。しかしそもそも7つのコスモス論で考えてみると、人が死んだ時、誰もが、メンタル体のところまで衣服を脱いで行くということはないのではないか。人が死ぬという時、どこのレベルで死ぬのかがここでは問われていない。たいていの場合、人が死ぬとは、肉体レベルにおいて死ぬということだが、わざわざそこを言わない。

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