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アスリートが白馬で人力車? スカイランニング日本代表、上正原真人さんの挑戦

白馬の雄大な山々を、人力車に乗って楽しむーー。9月より、新しい取り組み「白馬人力車」のサービスが始まった。はじめたのは上正原真人(かみしょうはら・まさと)さん(24)。山を駆ける「スカイランニング」の日本代表でもある彼は、なぜ白馬で人力車観光を始めようと思ったのか。彼のこれまでと、目指すものについて聞いた。

サッカーを諦めて出会った「山を走ること」

群馬県出身の上正原さんは、小学校低学年のときにサッカーに出会い、すぐに夢中になった。「プロになりたい」という夢を抱き、高校はスポーツ推薦で名門・前橋育英高校へ。しかしそこで、現実に直面することになる。「自分より明らかにうまい人もたくさんいて、上には上がいるんだなということを実感しました。それでも頑張りはしますが、高2の終わりぐらいからプロは無理だな、と思い始めました」

プロになれなくとも、スポーツ推薦で大学に進み、サッカーを続けるという道もあった。だが上正原さんはそうしなかった。「プロになれないんだったら、サッカーを続ける意味もないなと思いました。それにサッカーだけしかしていなかったら、大学が終わった時に選択肢がないな、と思ったんです」。レベルが高く、全員がライバル。そんなバチバチの環境の中で疲れてしまい、好きだったはずのサッカーがつらいものになっていた。「未練はなかったですね」。一般受験をすることにし、受験勉強に取り組み上智大学に進んだ。

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それまでサッカーしかやってこなかった上正原さんにとって、大学生活は「天国みたいな環境」だった。サークルに入り、友達と遊び、飲みに行く。体を動かすのが好きだったため、浅草で人力車の車夫のバイトもはじめた。だが心のどこかで、なにか熱中できるものはないか、と探していた。もともとサッカーをやっていたときから走るのが速く、長距離を走ってみたら速い、という自信があった。「なので、マラソンでもしてみようかなと思って、一人でランニングして、練習をはじめました」。何か大会に出ようと思ってたまたま目に留まったのが、茨城県石岡市で毎年開催されている「いしおかトレイルラン」だった。

大学3年の春、上正原さんは人生初の山レースを「いしおかトレイルラン」で体験した。それまでほとんど山を走った経験もなく、平坦なロードレースへの経験もない中、27kmの部にエントリー。「本当に、めちゃくちゃきつかったです!」と振り返るが、ゴールした時の達成感は今までに味わったことがないものだった。「完全にハマりましたね」。そこから普段はロードを走り、休みの日は高尾山で走って練習し、2カ月に1回ほどのペースで楽しそうなレースを選んで出場。「友達はなんかまた変なことはじめたぞ、って笑ってましたね」という通り、完全に一人でトレイルランにのめり込んでいった。

「もっといけるぞ」本格的にのめりこむ

走っていくうちに、なぜか上正原さんの中に「もっといけるぞ」という気持ちが湧き上がってきた。「この競技って日本代表とかあるのかな? と思って、ネットで調べてみたらスカイランニングという分野で、競技として確立しているとわかりました」。そこから練習量を増やし、本格的に「競技」として取り組み始めた。

トレイルランニングとスカイランニングは何が違うのか。山や不整地を走るレース全般のことをトレイルランニングといい、その中でもより山に特化しているものをスカイランニングと呼ぶ、と上正原さんは説明する。スカイランニングの中にも3つの分類があり、5km以内の距離を登るだけの「バーティカル」、合計30~50km、標高差2000~3000mでスピード・スタミナが必要な「スカイ」、70~80kmのロングランとなる「ウルトラ」に分かれている。そのうち「スカイ」は平地で言うマラソンのようなもので、花形種目。上正原さんはこれをメインに、バーティカルの大会やトレイルランニングの大会にも出場している。ちなみにこの種目の日本での第一人者は上田瑠偉選手(佐久長聖高校~早稲田大学)で、ワールドシリーズの年間王者にも輝いている。

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大学4年、19年のスカイランニング日本選手権で、上正原さんは念願の優勝。卒業後の進路を考えたときに、まだまだ本気で競技に向き合いたいと考えた。「2年間は本気で競技に打ち込んで、プロとして食っていけなかったら就職しよう、2年間はアルバイトで食いつなぎながら生活しよう、と決めました」。そして山が近く練習環境もいいということで、卒業後は群馬の実家に戻った。

「環境を変えたい」と思い出会った白馬の地

しかし20年春、新型コロナウイルスの影響が日本中を襲った。目指していた大会が次々と中止になり、どうしても思考がマイナスの方向に向かってしまった。レースに出ても成績も上がらない。何か環境を変えないと……。そんな気持ちで夏すぎ、思い立ってアルバイトも辞め、長野市に2カ月間短期移住した。長野の山々を走り回り、モチベーションも上がり20年のスカイランニング日本選手権も制覇。その過程で出会ったのが、白馬村だった。「集落から山が近く、本当に最高の環境だなと思いました。移住したい! とすぐに思いました」

そして上正原さんは、冬の間は白馬エリアの栂池高原スキー場で住み込みのアルバイトを経験。夏山、冬山両方の顔を見て、改めて住みたいと気持ちを新たにした。そして21年の春、白馬村に本格移住してきた。「村の中心地から、こんなにすぐ山がそびえているところはなかなかないです。迫力が他の場所とはまったく違います。ヨーロッパのような雰囲気もあって、すごく気に入っています」。今住んでいる家から走って、山頂まで行けるのも魅力だという。といっても登山口まで10kmはあるが、上正原さんにとってはいいトレーニングになっている。

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白馬村は新しいものを取り入れる、歓迎する土壌がある土地だ。移住者が新しいことを始めて観光が盛り上がり、地元の人がそれを暖かく見守り、支えるという理想的な構図ができあがっている。外部との交流も盛んだ。そういった流れで、白馬村の観光局と広告会社が企画したブートキャンプが今春開催された。テーマは「持続可能な村にしていくために、何が必要か」。環境活動家や科学者、地元で農業に従事している人などが集まったこの会に、上正原さんも参加した。ディスカッションのテーマとして「ゼロカーボンな村内の移動手段」があがり、参加者たちは電気自動車や電動自転車などのアイディアを出した。その時上正原さんがポロッと口にしたのが「人力車はどうですか?」だった。

ゼロカーボン=人力車?

「大学4年まで人力車のバイトをやっていたので、自然と口から出てきました。人力車ってかなりきつくて、トレーニングにもなるんです。トレランを始めてすぐ成績がでたのも人力車のおかげというところもあったかと思います。卒業したあともトレーニング用に人力車がほしいな、なんて漠然と考えたりはしてました(笑)」

そこに食いついてきたのが、ローカルツーリズム株式会社の糀屋さんだった。「人力車の単語を出したときに、速攻で『人力車って1台いくらなの?』って聞かれました。その後にご飯に行ったりして、話していたら、トントン拍子に人力車を購入して白馬で人力車観光を始めよう、ということになったんです」

一般での購入は難しい人力車だが、上正原さんには、4年間の浅草人力車でのアルバイト経験があった。以前のツテをたどって浅草のお店に連絡したところ、中古の人力車を売ってもらえることになった。「タイミングもすごくよかったです」

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しかし、白馬で人力車という前例のないチャレンジに、迷いはなかったのだろうか。「なんかもう、導かれているとしか思えないタイミングで、『やるしかないだろ!』とシンプルに思えました」と笑う上正原さん。9月上旬に村内の住人の方を対象にモニターツアーを開催。村の人たちは一足先に体験した人力車に驚いていたという。白馬には人力車が来るのも初めてのため、乗るのも初めてという人がほとんど。「乗り心地にもびっくりされました。人力車って目線が上がるので、普段の道も新鮮に感じられると思います」。そして先日のシルバーウィークから本格的に「白馬人力車」としてサービスを開始している。

白馬をもっと盛り上げて、世界一の選手になりたい

今後、上正原さんが白馬人力車を通して目指していきたいものとは。「ひとつは、アスリートが白馬でトレーニングをしながら経済的にも生活していける仕組みとして活用していきたいと思います。山を走る人って、大きな大会でも賞金はほとんど出なくて、トップレベルの選手でもレースではお金を稼げないんです。仕事をしながら片手間にレースに出る、という方が大多数だと思います。白馬に来れば、人力車を引いてトレーニングしながら競技を続けられる、という環境を作りたいですね」

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そして人力車を通して、もっともっと白馬を盛り上げていきたいとも話す。「人力車に乗りながら、白馬の雄大な山の景色を楽しんでもらいたいですね。地元の人達にも温かい目で見守っていただいているので、僕はよそ者だけど白馬に恩返ししたいと思っています。もっともっと関わっていきたいです」

大好きな白馬の土地で新しい挑戦をしながら、目指すのは世界一の山岳ランナー。「まずはヨーロッパに出ていって、海外シリーズで主要レースを転戦して結果を残したいです」。上正原さんの挑戦は始まったばかりだ。

(取材・文 藤井みさ)


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