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人間なのに人間のことよくわからないの怖くないですか?

本屋をやっている理由のひとつは、「1冊の本が人生観をがらりと変える」ことを味わったからだ。

こういった経験は、好きなアーティストの1曲でも、1枚の絵でも、1回の旅でも、いろんなものごとに対して起こり得ることだろう。わたしにとっては、それがたまたま本だった。より具体的に言うと科学のジャンルの本だったので、いまも人文書を中心にリベラルアーツ領域の本ばかり読んでいる。

そういった本を読む時、なにかしらの疑問に対する「答え」あるいは「考え方のヒント」を求めている(もちろんそれを無批判に受け取るのではなく自分の頭で考えることがとても大事だ)。

一方で、なぜか忘れられずいつの間にか人生を通して考える「問い」になった生の言葉がいくつかある。

  1. 中学生で反抗期真っ盛りのときに、じいちゃんに言われた「真面目に生きちょるか?」

  2. 大学生のときに恋愛観の話の流れで、バイト先の後輩に言われた「他人の幸せを幸せと思えることがほんとの幸せですよ」

  3. 社会人になって精神的にまいっていて、一人旅をしたときにガールズバーの女の子に言われた「人間なのに人間のことよくわからないの怖くないですか?」(その子が専攻する学問を選んだ理由を聞いた際の返事)

いろいろと本を読んでだ結果ら「1=善、2=利他、3=リベラルアーツ」という領域に定義できた。(わたしの言うリベラルアーツは「人間についての幅広い知識」みたいなニュアンスだ。)言うなればこれまで、これらを分かろうとしていろんな本を読んだり、行動を選択したりしてきたように思える。


「善」というと大袈裟でしんどそうだが、わたしにとっては「人として大事なことを最低限大事にする」みたいな意味だ。まあそれが全然できていないわけだが。そしてそれはシンプルなようで奥深く難しい。ただ、本屋を開いたおかげで自分の至らなさが明確になることがいろいろあり前向きに頑張ろうという意欲は湧いている。
本屋を開いた理由のひとつにこれがある。そのぐらい荒療治をしないといい歳していつまでも人として成長しないなあという危機感からの行動でもあった。
まあ、「わたしは善だ」みたいな自覚が芽生えたらそれこそ危険だ。生きる過程のなかで、できることを真面目にやってくしかないし、真面目にできることを身の回りに揃えていこうと思う。

じいちゃんの言葉を、「生きることに対して真面目であるか」と少し表現を変えて受け取ってみる。それをわたしなりに展開すると、「人と人との関係性、仕事、遊び、息抜き、それらを楽しんで人生を謳歌する」というニュアンスになる。
どうやら、わたしのなかで、「真面目≒楽しんでいる」という感覚があるようだ。「楽しむ」と「楽」は違う。生きることを楽しむには酸いも甘いも含めて奥深さがあった方が魅力的だ。そうやって、人生にドラマを創り、楽しみながら人として成長していこうとする過程を大事にすることがわたしなりの「善」に向かう姿勢だと、一旦ここで仮の結論を出しておく。


「利他」はほんとに難しくて、考え続けてきて、最近少しわかるようになってきた。(ちなみに『利己的な遺伝子』が人生観をガラリと変えた1冊だ)

利他という概念について考える時、考えすぎちゃう人間は、「相手のためとか言ってますけどその行動って結局自分がやりたいからやってるだけでそれって利己ですよね!?」みたいな否定をしたくなってしまう。自分の行動に対しても「良い人と思われたいからやっただけだよな」とかひねくれた理由を後付けしてしまう。
いろいろ本を読んできてわかったが、これはただの考えすぎだ。たしかに相手のためとかいいながら捻じ曲がった愛を押し付ける現象は実在する。しかし、自分の行動に関してはそこまで考えすぎなくていい。そういう行動をした、という事実で思考を止めればいい。その先の理由を探す必要はない。

根本的には「善」と同じで、「わたしは利他的だ」みたいなやつがいたらヤバいし、自分の行動についてくるものではなく、他者がそれを利他的な行動などと評価するものであって、行動者自身から出てくるものではないはずだ。自分の中で「利他」を味わえないとしたら利他という言葉に意味ってあるのだろうか?わたしのなかでは、利他という概念のイメージはむしろ善に対するイメージのほうがしっくりくる。

多分、わたしは利他を特別視しすぎている。思考を程よく止めて人のために行動することの心地よさもだいぶわかるようになってきたが、まだ腹落ちするには少し遠いところにあるのが現時点での利他の捉え方だ。



「人間なのに人間のことよくわからないの怖くないですか?」ポップに表現すると、「人間ってなんなのか知りたくないですか?」
すごい感性だなと思った。わたしも、人間や社会のことがわからなさすぎて本を読むようになった人間だ。いまとなっては知的好奇心として純粋に楽しめているが、人間なのに人間のことよくわからない人間たちで社会を回しているのは結構怖いな、と思う。逆に、人間のことを深く理解したうえで社会を回せたらもっと良い社会になるだろうな、と思っている。

その知識を得るためにリベラルアーツはとても大事な存在だ。巷ではエリートやビジネスパーソンの教養として存在感を出しているが、そんなんじゃなくて、人生を深く楽しむための人間への純粋な知的好奇心みたいな存在にならんものだろうか。まあ「お金=価値」の世の中でそれは道理に合わないわけだが。
しかし、子どもにしろ大人にしろ、他者と集団で共存していくことは避けられないのだから、人間についての知識を得ることは生きるうえでの重要な知恵になると思う。どうせ自分探しや他者との関係性で悩むわけだし。
だから、改めて学校教育のあり方は重要な問題だなと思っている。一方で、子どもの教育も大事だが、そもそも大人が頑張って良い社会つくって次の世代に継ごうよ、と強く思っている。

わたしは、リベラルアーツを通して時代を超えていろんな価値観や考え方に触れることで、相対的に自分の価値観が明確になっていき、一方で自分がその膨大な歴史の流れの一部であることを感じることで自分への執着が少し和らぐ、そんな感覚を持っている。その感覚を味わうのが楽しい。間違いなく終わりのない営みであり、死ぬまでそれなりに続けていたい。人生の多くの時間を割けたら良い。なにもそれは本の学びに限らず、人との対話の中に生じる「気づき」であったりもする。


「善」も「利他」も「人間ってなんなのか」という問いに集約されるわけだが、これらの問いのもとになった言葉を受け取っていなかったらこのような知的好奇心は生まれなかったのだろうか。そこに必要以上に意味を求める必要はないが、少なくともこの文章は書かなくて書いている間の気づきは生まれなかった。

言葉というのは不思議だ。「人間なのに人間のことよくわからないの怖くないですか?」という言葉の受け取り方に奥行きがある人もいれば、なにも感じない人もいるだろう。

そういえば、あの子はなぜ「怖い」という言葉を選んだんだろうか。
もしかしたら記憶違いで「怖い」という表現じゃなかったかもしれない。

少なくとも、わたしの記憶の中では「とてもいい言葉」だ。生き方に深みがないとあんな言葉は出てこない。「人間ってなんなのか知りたくないですか?」ではリアリティが足りない。

じいちゃんの言葉も、「生きることに対して真面目であるか」ではなく、「真面目に生きちょるか?」が良い。


生の言葉にしか出せないリアリティがある。そして、その時に、その人が言って、わたしが聞いたから、そういう意味として解釈される。

人と人との関係性、出来事の奥深さは計り知れない。


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