見出し画像

なぜリベラルアーツが誰にとっても大事なものだと思うか

こんにちは。
人文系書店ヒカリノスミカ店主の野尻と申します。
うちの店は名前の通り、人文書(哲学、宗教、社会、歴史など)を中心に、リベラルアーツ領域の本だけ取り扱っています。

情報発信のために音声配信をやろうと思って台本を考えてたときに、リベラルアーツについて軽く説明するのに「固定観念にとらわれない」とか「自由になるための」とった表現がよく使われるわけですが、リベラルアーツってそもそも自由な思考を養うためのものですから、セオリーを鵜呑みにせず自分にしっくりくる表現を考えてました。そもそも、自由を目指すのは現実から遠くてしんどいなと。

ちょっと前は「人間に関する幅広い知識」と表現していました。これは、「わたしたちは人間なのに人間のことをあまりに知らない。人間のことを深く理解することで無自覚な縛りから解放されよう」という意味合いです。
これもわたしの中でとても大事な価値ですが、それを表現するのに「知識」という言葉では物足りないし、そもそも知識は目的じゃない。

それで、自分のなかであれこれ考えてアップデートされた表現が、「思考の柔軟性をあげる学び」です。

これはもはやリベラルアーツがどうこうといった次元ではなく、科学書であれ、他者との会話であれ、フィクションであれ、いろんな「考え」と出会うこと、すなわち「学び」によって、「そういう考えがあるのか」ということを吸収することで、「考え」の引き出しを増やしていくという意味合いです。
その引き出しがあることで「分からないこと」と出会しても柔軟に思考を働かせることができ、怪我しにくくなるわけです。

哲学をかじっていれば、理性ですべて解決できるわけじゃないよな、とか。
生物学をかじっていれば、生き物の本能のなごりだし仕方ないよな、とか。
脳科学をかじっていれば、いま脳が快楽を求めてるんだなー、とか。
心理学をかじっていれば、心の弱さもひとつの機能だよな、とか。
歴史をかじっていれば、価値って変わるんだな、とか。
東洋思想をかじっていれば、自分らしさとかこだわりすぎないでいいな、とか。

そうやっていろんな「考え」を吸収することは、自分の考えを磨くのと同時に、いろんな価値観と比較することで相対的に自分の価値観を明確することにもつながります。

仏教は生きることの苦しみからの解放を目指して悟りを目指すわけですが、いや、苦しみもふくめて人生を深く味わいたいんだよ、と思ったりします。

哲学者の生き様を見てると、考えすぎってよくないな、と思ったりします。
もちろんその思想が歴史的な価値を残しているという事実にも目を向ける必要があって、そこに歴史や人間の営みの「読めなさ」があり、合理性じゃはかれないよな〜、人間ってやっぱおもしろいな〜と思ったりします。

「お前はなにものか」をいやとういうほど問われる時代ですが、これから先もっと世界は多様性と均質化を拡張させ複雑なものになっていくでしょう。そこでサバイブしていくために、自分のオリジナルな価値観、すなわち「自分にとってのよさ」を磨き行動を選択することはとても大事なことだと思うわけです。

つまり、タイトルの「なぜリベラルアーツが誰にとっても大事なものだと思うか」ということの結論は、柔軟な思考を身につけ、自分にとってのよさを磨く、生きるのにとても大事な学びだからです。

それが拡大していけばもっといい社会になるだろうなと思っていて、やれることをやっていきたいと思ってます。

そのために、noteだけじゃなく音声配信もはじめようという所存でいろいろ考え中です。もちろん本屋もじっくり頑張ります。

よろしくお願いします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?