【小説】〈3〉住処

〈2〉カラオケルーム

首元の紅い印が、私の気力を全て吸い取っているかのようだった。ついにハズレを引いてしまったのだ。やはりメッセージのやりとりだけではなく、会ってみなければ分からない。昨日の相手は執拗い男だった。挙句の果てに、無許可で目立つ所にキスマークをつけてくるとは。電車に揺られながら、“ハズレ”の連絡先を削除した。今日は例の男の家へ行く日だ。前日の失敗の痕跡とともに行くことになろうとは思いもよらなかった。
「17時38分着に乗ってるよ」
連絡先を削除したその手で例の男にメッセージを送った。

各駅停車に乗り換えて、M駅で降りた。改札を出て右手の辺りで男は待っていた。
「こっち」
男が階段を指さし、歩き出す。後ろについて階段を上り、駅前の商店街を抜けて、通行量の多い道路沿いをしばらく歩いた。互いに話すこともなく、側溝の蓋をがたがた言わせながら歩を進めた。何個目かの横断歩道を渡ったところで、男は後ろを振り向いた。
「着いたよ、ここ」
車道の騒音に紛れてそう聞こえてきた。卵色に塗装された細長い建物だ。男は簡素なオートロックのドアに鍵を差し込んで開けた。
「階段しかないから頑張って」
そう言いながら自分は一段飛ばしでどんどん上がって行く。ぐるぐると上へ続く段を負けじと駆け上がるうちに、何階にいるのか分からなくなった。男は部屋の前で待っていた。
「おじゃまします」
男に続いて敷居をまたぐ。キッチンを通り抜けると典型的なワンルームが広がる。入ってすぐ右手にはギターが2本。左手には箪笥、その上には酒瓶がひしめいている。その奥にPCが載ったデスク。窓際には紺のシーツがかかったベッド。その足元には姿見があった。鞄や教科書、英文が長々と記された用紙などが至る所に散らばっている。壁には狐面だとか写真だとかが飾ってある。
「いい部屋だね」
「まあね、家賃も高くないし」
私は散らかっている部屋の方が落ち着くたちだった。そしてこの部屋の散らかり方は一層好きだった。散乱している物のひとつひとつから男の生活が伺われて、淡い高揚感が生まれる。何気ない雑貨にも男のセンスの良さが感じられた。
「麦茶あるけど飲む?」
キッチンから男が聞いてきた。
「もらうね、ありがとう」
そのくらいの気遣いは出来るらしい。男は自分のコップを一気に空にしてベッドにどさりと腰掛けた。私は床に座って喉を通る麦茶の冷たさを心地よく受け止めていた。
「ねむい」
男は私に構わず寝転んで、スマートフォンから音楽を流し始めた。私は空になったコップをテーブルに置いて、ベッドの足元に腰かけた。
「私も寝たいんだけど」
男が体をずらしてベッドを半分空けた。
「はい」
そこに横たわりながら、男の腕を掴んで私の首の下に置く。仰向けで並んだまま二人共黙っていた。気が付くと眠っていた。

「起きた」
男の呟きで私も目が覚めた。そう時間は経っていないようだった。男のもう1本の腕が私を引き寄せた。体は向き合っているが、目は合わせなかった。
「あ。キスマークついてる」
「見えるところに付けられたの、最悪」
そう言いながら、悪びれることもない自分の態度もなかなかに最悪だと思った。
「ヤリマンちゃん」
からかう男に、拗ねた振りをして無言で背を向けた。男は真に受けることなく後ろから腕を回してくる。そのまま手を腰まで這わせて、ブラウスの中に忍び込ませる。抵抗する気などない。それが解った途端、男は私の耳に噛み付いた。 《続》

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