足りないのは発達障害として生きる覚悟のほうだったかもしれない
こんにちは、階段の下の倉庫に防音室を作ったとまよこ りゃんシーです。
さて、前回のトランスジェンダー覚え書きを書いてみて、発達障害のほうも書いてみようと思って書いてみた。
発達障害覚え書き
発達障害覚え書き
幼稚園前
l 約3,500gで生まれる。帝王切開。
l 母が妊娠中毒症になったためずっと寝かされていたら右側の頭蓋骨が平らになってしまった。
l 母乳を与えてもらっていないらしい。
l 新生児室で「りゃんシーちゃんが泣き始めると他の子が泣き始めるのよねー」と言われる。その頃から空気が読めなかったようだ。それともその頃から低血糖になりやすかったのか。
l 朝起きると必ず散歩に行かないと癇癪を起こしていたらしい。散歩では階段を上ったり下りたりを繰り返したり何かをずっと見ていたりしたらしい。
l 離乳食ではまぐりを食べて下痢
l 抱っこしていると寝るが布団に置くとすぐ目を覚まして泣く為「置くとギャー子ちゃん」と呼ばれていたらしい
l 初めて立って歩いたのは11ヵ月。
l 顔を水につけるのが嫌すぎて水泳を拒む。今もシャワーが苦手。
幼稚園
l スケッチブックの全ページに「たてたてよこよこまーるかいてちょん」を書いて一瞬でスケッチブックを消費する
l 授業でやった虫眼鏡で黒い紙を燃やす遊びにハマり、みんなが飽きた後も一人でずっとやっていた。
l 先生に「みんなと遊ばないの?」と言われる事が増えた。
l 竹馬やホッピングなど遊具を使いたかったが、どう言えばみんなでシェアしたりうんていなどの公共の遊具を共有して遊べるのかがまったく分からず、遊具で遊ぶのを諦めた。
l 年中の時、面識のない年長の遊んでいた砂場を善意でいきなり片付けて怒られた(どうやら年中と年長で遊び時間が違ったらしい)
l スカートめくりをして遊んだ。
l 漠然と、「もしかしたら今が一番人生で楽しいかもしれない」と思った。
l 「おませさん」とか「おねえちゃん」とか呼ばれていたらしい。他の子より背が高かったのは事実。写真を見ると他の子は自然体で写っているのになぜか自分だけは必ずポーズを取っている。
l 他の子より文字の読み書きが早かった。3歳で祖母に手紙を書けたらしい。
l 花いちもんめやごっこ遊びなどはしていたと思う
l プールに顔をつけられず泣いて拒否する。プールは嫌いだった。
l 女児アニメの黎明期。セーラームーンはあったがプリキュアはなかった。その間に「キューティーハニー」があった。キューティーハニーは恐らくほとんど男性スタッフで作ったものだろう。僕にはそれが逆に良かったのだと思う。その後出てきた「おじゃ魔女」などは女性向けの人間関係の描写が多くついて行けなかった。キューティーハニーの、女の子がどんな職業にも自在に変身して潜入するというコンセプトが、女児には不評だったかもしれない。でも僕にはとても面白く感じた。今、記憶を辿っても、女児向けで女児のアイデンティティが薄いと言う作品は「キューティーハニー」と「ガラスの仮面」くらいしか思い付かない。この二つは女の子特有の自我の強さを感じさせない作品だと思う。
l テレビをずっと観ていた。『ドラえもん』のビデオがすり切れるまで何度も観ていたらしい。母曰く「テレビさえ見せておけば静かだったから」
小学校
l 女子のパンツが見えたから「見えた!黒いチェックのぱーんつ!」と叫んだらめちゃくちゃ嫌われて絶交された。
l 他の子はみんな塾に行っていたり勉強していたりしていたが自分だけ放任だったので「お前円錐の体積の求め方知らないだろ」などとばかにされた。勉強できる奴、勉強そのものが嫌いになった。
l 公文式に通わされたが、先生に提出してチェックしてもらうという行為ができず(何故できなかったかは思い出せない。恥ずかしかった、並ぶのが嫌だった…?勉強ができないこと自体が嫌だった訳ではないと思うが、できなすぎて帰れないのが嫌だったかも)親に「行きたくない」とも言えず近所の公園のベンチの下に潜って隠れて寝て時間を潰していた。
l 教師から「出て行きなさい」と言われる事が増えた。
l 運動会かなにかの出し物やBGM決めで事あるごとにポケモンの案を出していたら先生に「もうポケモンはいいよ」と言われる
l 教卓の横(通称「特別席」)に机を移動される
l 廊下に立たされる
l ピアノを習い始めたが、右手と左手で別々の動きを同時にするということがどうしてもできなくてやめた。
l 友達と喧嘩しても次の日にすっかり忘れていて「おはよー!」って挨拶してしまう事が多かった。それで相手が怪訝な顔をして初めて「あ、昨日喧嘩してたんだった」と思い出す。その程度なら笑い話なのだが、アレルギーと分かってて食べたとか、死ぬと分かっててスイッチを入れたとかそういう事をやらかしていく。
l 神のしもべというか、正義感みたいなのがくそ強い気がする。社会で嫌われるより正義やルールや教科書が優先。だってそれが「正しい」じゃん。自分だけが正義。正義の味方はいつだって迫害される。だから僕は正しいと言う自己陶酔。正しい事をしてるのだからいつか絶対報われると言う自信。泣くのはずる賢いい奴だと昔から相場が決まってる。だから嫌われてもぜんぜんへっちゃら。僕には正義があるから。
l 感想文が苦手。面白いのか面白くないのかすら分からない。読んでも何も思わない。登場人物の気持ちの説明とか、その世界観の中の話ならできる。でも感想文っていうのは自分の人生と絡めて書かなくちゃいけない。そんなんカラッポな小学生に無理に決まってる。
l 自分と言う物に何もない感じがした。まずそもそもお手本がなかった。ポケモンの「サトシ」に出会うまで、自分が何なのかもよく分からなかった。サトシと出会って、旅をするのが夢になった。吟遊詩人になって世界中を旅する仕事がしたいと思った。
l 授業はさっぱり分からなかった。でも性格はまじめだからちゃんと授業は受けてた。たまに寝てた。「まじめにしてれば神様がなんとかしてくれる」ってずっと思ってた。全部神に丸投げ……。
l 映画やドラマが観れない。ハラハラしすぎて体調が悪くなって眠れなくなる。面白い作品は睡眠と引き換えに見るしかない。だから子供の頃は映画やドラマは2,3本しか観たことない。
l 一応咽頭異常感症で小児精神科に行った事はあるのだがそこで発達障害を指摘されなかった……それか母親が理解できず治療を打ち切ったか……病院に行ってから良くなったらしいのだがなぜ良くなったのか覚えてないし何を言われたのか覚えていない。なんか、「母親が靴ひもを結べないほどバカで困っている」のような事を言ったらしい。母親が助けてくれない、叱られてばかりでつらい、といった趣旨だったかもしれない。母親がバカなことはずっと悩んでいる。バカが上司や親の辛さみたいなのが一番つらかったのか?いじめもつらかったけど。助けがない辛さが辛かったような気がする。
l 昔は子供向けアニメが大好きで、今は嫌いになった。なんであんな嘘まみれのものを平気で放送するんだろう?
l MMORPGの初期ステータスの割り振りを必ず失敗する。MMOに限らずやりくりするゲームで上手く出来たためしがなく、結局自分の人生もそんな感じだった。だからすぐにゲームオーバーになって飽きたり捨ててしまう。ずっとその繰り返しで生きている。
l 行動に一貫性を持たせられない。脳内で色々な思考がおしゃべりして喧嘩している。
l のび太もナルトもサトシも男の子だった。自分の価値観と似てるのはみんな男の子だった。だから男子に感情移入するのは当たり前の事だった。女の子で感情移入できるキャラはいなかった。
l 分からないことを教えてくれる人がいなかったなと感じる。両親は子供の立場になって喋る人ではないし、学校の先生も分からない子は学校に来なくていいという感じだった。だから僕は社会が嫌いだし、のけ者にされるとすごく辛くなるんだと思う。泣きわめくくらいしか抵抗手段が分からなかった。
l 先生が説教しているとき、「給食当番なのでもう行っていいですか」と聞き非常に怒られた。自分としては行って良いと言われると思ったのでびっくりした。
l 自分が話していたわけではないが同じ班の人がうるさくしていて、同じ班だったので叱られた。「帰れ」と言われたので帰った。
l 「連帯責任」が多く、僕のせいでクラスの子が叱られる事が多く非常に恨まれていた。
l 引っ掻く、叩く、殴るなどを日常的にされていた。ただ、当時はいじめだと思ってなかった。負け犬は去るのが当然だと思ってた。「喧嘩」だと思ってたかな。力関係は一方的だったけど。やられたら10000000000倍返しするから。で、上手く立ち回れなくて向こうが被害者ぶってこっちが余計怒られるみたいな。知能でも力でも負けていて手も足も手ない苦しさと言うか、怒りみたいな。ストレスって言うか鬱って言うか、「怒り」だよね人生の90%が。社会に出たらあっと言う間に刑務所連れて行かれる。でも、それが本来あるべき自分の居場所なんじゃないかってずっと考えている。
l 言葉が出てくるのが遅くてからかわれる。特に「バ」とか滅多に使わない言葉だと「バ」という言葉が出てこない。「坂東君」という人がクラスメイトにいたがなかなか名前を覚えられず「え~っと・・・・・・・・坂東君」と毎回言ってたら「なんで坂東君の時だけ言葉詰まるの?好きなんでしょ?」とかからかわれる。
l 「短期記憶」と言う言葉を知り、「僕はこれがすごい少ないかもしれない」と思った。
l 学芸会で間違えてズボンを下ろしてしまい笑われて恥ずかしがっている子がいて、その時僕だったらあそこまで恥ずかしがらないなと思って「僕は恥の概念が分からないかもしれない」と思った。女子がパンツ見えた時に「みーえた!黒いチェックのぱーんつ!」って叫んだ時もなぜあの子があんなに怒ったのか理解できなかった。
l 恋愛は、「人に好き嫌いを付けるとても失礼な行為」だと思っていた。「戦争をなくすには国際結婚を義務付ければいい」と本気で考えていた。自分は天才なんじゃないか?だって誰も思いつかない解決法を思いつくんだから!
l 嗅覚が鋭かったので前世は犬だと思ってた。
l 合唱の時などに体を揺らすのを叱られた。先生が「もしわざとだったら凄い才能」と言っていたが、わざとやっている時もあった(楽しいから)。
l 筆算を黒板でみんなの前で解けた時クラスから拍手してもらった。(普段そう言う事をするクラスではないが、バカで有名な僕が筆算をできたのでみんなが思わず拍手したようだ)
l 他人と話が合わないと感じるようになったのはいつ頃からだろう。別に授業さえ座って受けていれば問題はなかった。試験はなぜか点が取れたし……常識と学問は世界観が違うから、学問ができるためには常識を捨てなければならないし、そういうことができるのは才能だと思っていた。それで「常識から外れれば外れる程点が取れる」と思ったのかもしれない。
l 九九がいつまでも覚えられず放課後も先生に居残りで何度も暗唱させられた。
l 友達とテレビの話や共通の話題で喋ることが苦手だった。話題作りのために自分で漫画を描いて教室の後ろのロッカーの上に置いて誰でも読めるようにしておいた。らくがきコーナーなども設けて交流を図った。その時の漫画のタイトルは「みんなあつまれ」で、空手が得意な小学生の女の子を中心にした日常漫画のようなもの。(『ちびまる子ちゃん』みたいな感じ)今は子供だから子供の漫画が書けるけれど、大人になって子供が主役の漫画を書けるか不安だった。自分の目線でしか漫画を書けないと感じていた。
l 「写生大会」など、自分でイベントを開催して遊んだりした。何かを「開催」する事でしか交流できなかった。
l ゲーム「ポケモン」によって友達と繋がることが出来た。
l 社会科や漢字など、覚える教科が苦手で毎回ほぼ0点だった。
l 算数のテストで「分かるかバーカ」と書いたら「マイナス5点」になった事がある。
l なぜか国語の文章問題が得意だったらしいが、「登場人物の気持ちを答えなさい」と言う問題で「~という気持ち」とするところをモノローグ調でずっと書いていた。文章題が得意な理由として、「悲しい気持ちとか葛藤みたいなものがみんなよりよく分かるからかもしれない」と思っていた。つまり、「文章から登場人物の気持ちを参照し、読み取って抜粋する」と言う解き方ではなく、「文章を読んで登場人物の気持ちを想像して勝手にモノローグを書いたら大体当たってた」と言う事だったかも知れない。要するに読解力はなかった。
l 4年か5年生くらいの通信簿の感想欄(抱負欄?)に「しゃべるとおこられるのでだまっているのをがんばりたい」と書いた。
l 自殺したいと何度も思った。
l 「ピエロ」と言うものに共感した。辛くても苦しくても泣いていても笑顔で道化でいなければならない姿を自分と重ねていた。
l 「ポケモンカード部」を作りたくて先生に言ったら「ボードゲーム部(忘れた、確かそんな名前)があるだろう」と言われたのだが、納得できなかった。ボードゲームは囲碁とか将棋とか古臭いことをしているイメージがあり、ポケモンカードのイメージとかけ離れているから。「ややこしい」事が苦手だった。癇癪を起こしかなりこだわっていたと思う。
l 恋愛と言うものが分からなかった。人に好き嫌いや優劣をつけることがなぜ良しとされているか本気で分からなかった。好き嫌いなどエゴであり、奨励されるべきもの出来ないと思っていた。話してて楽しい相手を挙げたら勝手に「好きな人」にされてとても不快だった。
l 「トマカブ式会社」と言うカブ式会社を作った。株式のことは全く知らなかったが「どうぶつの森」を真似て蕪の浅漬けを学校に持ち込んで配った。「いつか会社を作りたい」と漠然と思っていたし、それしか生きる術がないと薄々気づいていた。
l 机の上にティッシュ箱で壁を作り、その中に色々入れていた。先生に怒られ……た記憶はない
l なんとなく、社会に出て、社会人として働くと言う事は自分にはムリだと思っていた。それが何故できないのか、は分からないが、みんなのように出来ないと思っていた。
l 夏にコートを着て職質され、鞄から十徳ナイフが出てきて警察署に連れて行かれた。父は「いい経験したな」と笑っていた。その時「小学校はどこ?」と聞かれ学芸と答えたら「へ~頭良いんだ」と言われ、漠然と疑問符が残った。そもそもなんで僕が学芸小に受かったんだろう。間違い探しのようなものが得意で、知覚推理のようなものが得意だったからだと思う。と言うかそれだけでやって来たみたいなところはある。
l 卒業式の時、クラスの友達に「バカと天才は紙一重だから」と励まされた。
l 中学は公立中学に行こうと思っていたら、母がびっくりして急遽中学受験をすることになった。
l 本来、中学へはエスカレーター式で試験などはないのだが、保護者面談で「お子さんは附属中学校には進ませられません」のような事を言われたらしい。
l 将来は「田尻智」のようになりたいと思っていた。田尻智のように起業して、成功すれば生きていけると思った。
l 自分より絵の上手い人や面白い事を考える人はたくさんいた。なぜみんなその才能を生かそうとしないんだろうと不思議だった。今思えば自分が「才能」だと思っていたことは障害だったし、僕が凄いと思っていたことはできて当たり前のことだった。
l 図工の授業で「ふしぎな木」と言うテーマがあり、先生の「お手本」があった。ほかのクラスの子は先生のお手本の色を変えただけのような絵を描き、僕だけが全然違う絵を描いた。教室の後ろに全員分並べられて、担任の先生に発想力を褒められたが、他の子に発想力がなかったのではなく、「目立ちたくない」とか空気を読むとか先生への忖度とか、そういった思考が僕に欠落しているだけだった。
l 小学校の林間学校で山登りをしていた時「なだらかな道と険しい道のどちらを登るか」と聞かれ「険しい道」と答えたら凄く褒められたのを今でも覚えている。「道が険しければ険しいほど得られるものは大きい」と言うのが意識に染みついていった。この教えは小学校が教え込んだものだろう。
l クラスメートが『亡国のイージス』という「なんだか難しそうな本」を読んでいた。多分僕は今でも読めないと思う。
l なんでできないの、なんでわからないのと常に言われる。できない、分からないが当たり前で、自分はそう言う生き物だと思っていた
l 父は全部決め付ける。間違っていたがそれはメンタルで簡単に言うと「学校でいじめられた。僕は頭おかしいのかな」「学校の奴らなんか気にするな俺達は天才の家系なんだ間違ってるのは有象無象の馬鹿どもなんだ」といったふうな感じ。これのおかげで子供時代は思い悩まずに済んだ。父がたまたま仕事が見つかっただけだった。父のようになれば仕事が見つかると思っていた。
l 父も母も社会の普通の人達とは違っていた。我が家は「そういう家」だと自覚していた。それでも別に、マジョリティでなくても稼いでいければ、手に職があれば、必要とされれば、仕事があればそれで良いと思っていたし、マジョリティと比べようなんて思った事もなかった。お金さえあれば大抵のサービスはマジョリティと同様に受けられたからだと思う(今思えば過分に支払わなければならない事もあったと思う。だからこそ、お金が大切だと思った。マイノリティは「生きる権利」をお金で買うしかないと思っていた。だから友達よりも絶対にお金が大切だと思った)。
l 分かってもらえない、理解してもらえない、誰も配慮してくれない。できない自分が悪い。それを隠して何とか生きるしかない。周りに合わせてヘラヘラ笑いながら泣くしかない。
l 自分の中の自尊心と自己嫌悪についてが混ざり合わずに、対立もせずに共存していた。「俺はクズだけどなんか文句でもあんの?クソが」といった感じ。自分はクズで、相手もクソったれだと思っていた。認められないだけで「いつか見てろよお前らを超えてやる、別の方法で」といった感覚だったのかもしれない。
l 反撃はした。引っ掻かれたりからかわれたり「きかないよー」と言われ腹が立ってばかりいた。
l 「サトラレ」と言うドラマが放送された時、サトラレになりたいと強く思った。そうすれば僕の気持ちを全員に分かってもらえるのにと。どうして自分はサトラレじゃないんだろうと思っていた。サトラレごっこを一人でしていた。
l 「ヒカルの碁」で自分だけに見える相棒がいるのに憧れて、何もない所に向かって「ついてくんなよ!もう!」などと言っていた。
l 「戦争をなくすための素晴らしいアイデア」を思い付いた。それは「国際結婚を義務化する」こと。本当に、それが最高のアイディアだと思っていたし、そんな事を思い付く自分は天才かもしれないと思っていた。自分以外の定型発達の人間が「自由」を求めていることも、これが共産主義的であることも全く気付かなかった。「自分は将来、もしかしたらすごい事を成し遂げるかもしれない」と思っていた。むしろ、それ以外に生きる方法を思い付けなかった。世界を変えられると思っていた。
l 家庭教師にポケモンをやっていると言ったら「バトルしよう」と言われた。家庭教師はプロアクションリプレイでドーピングしていて勝てなかった。当時みんなプロアクションリプレイでポケモンをドーピングしていたが、自分はそんな邪道で楽しむ意味が分からないと感じていた。でも、負けた事が惨めだった。でもプロアクションリプレイを使おうとは思わなかった。ここまで「王道」にこだわっていた理由としてひとつ考えられるのは、「ずる賢さ」が無かっただけなんだろうと思う。バカ正直に努力する以外に改善し上達する方法が分からなかった。だからその羨ましさを憎しみに変えていたような気がする。
l 小学校の頃は「正しく迫害されていた」と思う。出来ないことを認めてもらえていた。バカにされる事は辛かったけど、へらへら笑ってるだけでよかった。今は「出来ないことを信じてもらえない」そのほうがずっとずっと苦しい。
l 将来は「僕を救ってくれたポケモンのような作品を作る人になりたい」と思った。「子供の自殺も止められるような、夢を与える仕事をしたい」それが僕のずっとずっと夢だった。でもいつしか気付いた。「現実逃避の手助けをしているだけ」なのだと。子供を大人にする邪魔をしているだけなのだと。大人になれない僕ら発達障害ならまだしも、普通の人を巻き込んではいけないのだと。
l 「田尻智のようになりたい」と言ったらクラスメートに「子供をゲーム脳にするのが夢なの?」と言われた。今考えるとあの頃流行っていた「ゲーム脳」は発達障害のことであり、ゲーム脳になったと言うか、ゲーム脳だったのだ…
l 父が「アマチュア無線」の資格を持っていたので、いつか僕も取りたいと思ったがインターネットがあったので結局取らなかった。でも今でも機材さえあれば取りたいと思っている。
l 生物が好きで、「空想科学読本」にハマった。不可能を可能にする「発明家」こそ自分の生きる道だとずっと考えていた。紙とペンで世の中に様々なアイディアを提供する「発明家」になりたかった。その世界でなら自分も生きていける気がした。
l 「嘘と言うものは必ずバレる」と思っていた。実際、母につくウソは必ずバレる。だから「何も言わなくても嫌でも全部伝わってしまう」と思い込んでいるふしがある。だからこちらが「冗談」のつもりでも相手には真っ赤な嘘になったりするらしい。精神科医は何でも分かるし診断できると思っていた。でも、実際は何も分からない。
l 言葉は嘘をつく可能性がある。だから行動や結果で示すのが粋だと思っていた。ぺらぺらと喋る人間は嘘臭くて嫌いだし、悪い人間だと思っていた。「男は背中で語るものだ」と思っていた。それで伝わると思っていた。だから今こうして自分史を書くのも10年も渋ってしまい診断がどんどん遅れた。今この瞬間もこうやって書く事がすごくつらい。恥ずかしい。みっともないと思う。「認められたい」と言う欲をさらけ出していると思われそうで辛い。
l 父親の趣味をそのまま受け取って特に違和感がなかったため、父と僕でおもちゃを共有して遊んでいた。父の欲しいものを買って僕が遊ばせてもらうような感じ。カメラとかパソコンとかシンセサイザーとか。最近ならタブレットとか。で、いつの間にか譲り受けていたりする。ゲーム以外はほぼそんな感じ。
l 「世渡り」と言う言葉を初めて知ったのはいつだっただろうか?もちろん言葉としては知っていたが自分には無関係だと思っていた。両親がいて、お金に困ってないのだから世の中について深く考えていないのだろう。もちろん、「世渡りなんてぼくにはむりだなー」と漠然とは思っていたと思う。だからこそ、手に職をつけようとしていた。
中学・高校
l 「もっと自信持って」と先生に言われた。その時、僕は「自信持ってるのにな」と思った。自信がないと言うよりは、「興味がない」と言う方が正しく、「僕とみんなでは生きてる世界が違うから」と言う感覚だったし、どこか世界に現実味がなく、世界を俯瞰?して見る癖があり、自分の事も「~らしい」などと客観的にしか喋れなかった。
l パジャマという概念がなく、制服で寝ていた。パジャマの方が寝やすいという感覚が分からなかった。
l 自信はあった。自分は惚れた腫れただとか人間関係だとかそんな「下らない」事に時間を溶かすバカではなく、勉強し、真理を見つめ、普遍的なものを作り出し、歴史的に評価される偉人(?)になれるだろうと思っていた。いや、実際に偉人になる訳ではないが、「その道」で名のある人間にはなるだろうと考えていた。評価は後からついて来ればいいと思っていた。正しい者には正しい評価が、ずるくて横着な人間にはそれだけの評価が下ると思っていた。
l 人間社会の欲みたいなものがずっと苦手だ。特に「言わない欲」が非常に苦手。他人を強欲だという前提でもてなす?みたいなのが理解できない。だから普通に振る舞うと「怖い」とか「失礼」とか言われて嫌われる。要らないって言ってるのにほんとは欲しいんでしょ?みたいな感じで送りつける日本文化がマジで気持ち悪い。バカにしてんだろ。失礼なのはどっちだよ。
l 僕からすればなんで日本語でおしゃべりできるのにテストの点取れないの?って思う。僕なんか日本語じゃべれないのに一日10時間勉強したら簡単に取れるのに。
l 凸凹が大きくなればなるほど嫉妬と蹂躙のどちらも受けることが分かっている。だから「できない」に見せかけるしかない。バカのふりを過剰にするクセがあるし、それを見抜かれて「甘え」と言われる。
l 本が読めないのでNHKのラジオドラマがもっぱらの楽しみだった。ラジオはよく聞いており、語学講座も欠かさず聞いていた。たいていはNHKを聴いていた。後々、この「ラジオドラマ好き」を「声優好き」ひいては「BL好き」と勘違いされる事となった。
l 新しいものや流行に一切興味がなかった。ウォークマンなど若者の機器にも興味がなく、「いかつい」といつも言われていた。
l アニメは苦手だった。アニメーションを「動画」と捉える事ができず、1枚1枚の絵に引っかかりを覚えてしまい気持ち悪さが強くなって見れなくなってしまうことが多かった。絵と効果音や声優の演技のミスマッチなど、気になるところが多すぎると集中して見れない。
l 居場所が無かったのと、あまりにも学校の風紀が乱れていたため生徒会に立候補して学校を変えたいと思った。みんな生徒会長に立候補していたので自分もしたら、後でみんな辞退していた事を知った。生徒会長としてスピーチしたり、一方的なマスコミュニケーションは可能なのだが、一対一での会話が苦手だった。
l なぜか「怖い」とか「キモい」とか言われる事が多かった。
l メモばかりする。自分の名前すら度忘れするのでとにかくメモしている。人生の70%はメモしている。強迫的になって一時期大変だった。
l 昼食を抜いていた。性転換手術代を貯める為・・・でもあるが、食べるのが遅く不器用なので50分で食べ終われない。トイレに行くのが恥ずかしい。一人で食べるのがみじめ、などの理由があったかもしれない。特に食堂は「一人席」がないので必然的に相席になってしまうのが苦痛だった(或いは4人テーブルを一人で独占するのは気が引けた)。カレーを箸で食べてたらからかわれた。食事によって食器を使い分けるのが苦手。がやがやして混み合った場所も人とぶつかるから苦手。
l 数学のテストとかは3回くらい確認する。ミスが多いのでミスありきで計画する。だから相当労力がかかる。「資料作って印刷」とかも10回くらい印刷ミスする。
l 何かが好きになって、その世界に入ると拒絶されて嫌いになることがとても多い。だから好きなものがどんどんなくなる。だから他人に好きなものを言わない。お店とか、どんなに気に入っても顔を覚えられないようにたまにしか行けない。
l 文化祭の音声編集を頼まれたが「今日やる」と言ったら驚かれた。「すぐやってくれてありがとう」と言われたが明日になると多分忘れるからである。明日に持ち越さないように夜更かしして何でもやっつけてしまったりする。
l 「空気を読むとか言うバカがいるが空気は読めるものじゃない。存在しないものを読む奴は頭がおかしい。はい論破~」そういう感じ。
l 柔道部の顧問に「悲劇のヒロイン気取り」と言われた。小学校からそれでよくからかわれる。「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」「からかわれる」それで人と話すのをやめた。
l 目線を制御できない。興味が少しでもあるとそれを見てしまうことを我慢できない。見知らぬヤンキーに「何ガンつけてんだよ」と絡まれたこともある。胸元が開いている女性の胸元とかをつい見てしまう。だからわざと眼鏡をしない。
l 「子供は座席に座ってはならない」と言う信念があったため、友達が座席に座ると「座るなよ」と叱っていた。高校生くらいになると自分も座るようになった。
l 人の言葉が聞き取れないことが多かった。プロの声優が喋っていても聞き取れず、洋画は吹き替えではなく字幕を好んだ。部活の先輩の言っている事が聞き取れず適当に「はい」と言っていたら首を傾げられた。
l 担任に(性転換手術代のために)バイトがしたいと言ったらお金なんて大人になったらすぐ貯まると言われるが結局まだ一度も稼げたことない
l 好きな事をすると脳がパニックになるので好きな事が好きではない。
l 父は何でも用意周到に持ち歩く人で鞄の中にたくさんのものが入っていた。それを真似していたら腰痛が酷くて自分には出来なかった。高校の頃、教科書を八王子から国分寺まで1時間半毎日持ち歩いていたが今考えると全くその必要はなかった・・・。
l 僕が喋る度に教室がシーンとなるような感じで、なぜか目立つ。なぜだったんだろう。変人だからか。おかしい事言うからかな・・・。小学校のときはいじめられたからなるべく話し掛けられないように目を伏せて生きるようにした。
l 僕は理系の中高一貫校だし父もエンジニアなので「本物のアスペルガー」をたくさん知っている。だからこそ自分が発達障害である事に気付かなかったのだろう。むしろあのくらい振り切れててれば仕事は逆にあるのに。彼らはADHDは弱い…。
l 過集中により、大好きなCDを貸してもらった時、数学の問題を解いていたので塩対応になってしまったら、その後貸してくれなくなった。
l 感化されやすさ
l お酒を一升瓶飲んだなどと嘘をついて酒豪キャラでいた。酔っていると嘘をつけばおかしいことも怒られないと思った。同じように警察にサバイバルナイフが見つかった時も「知らない男に襲われた時の護身用」などと嘘をでっちあげて余計怒られた事がある。多分なんでも嘘をつくのは発達障害でできないことを指摘されて説明できない事態になるのを避ける為なんだと思う。でもだいたい余計怒られる。
l 子供向けの仕事をすればいいと思っていた
l 作家にこだわっていたのは、じぶんは早死にするし人生で何も残せないと分かっていたからだと思う。作品が自分の子供だった。
l 欲望を抑える事が苦手の為、母親の買ってきたお菓子を庭に捨てるなどしていた。京都で一人暮らしを始めてからもそういう恐怖であまり買えなかったんだと思う。
l へりくだるのが苦手。プライドが…とかではなく、「へりくだる」という行為自体に白々しさのようなものを感じるから苦手。「嘘がつけない」と言う事なのか、ナメられたくないという思いは強い。へりくだってつけ上がられて損したら意味ないと思っているのはある。
l 空気ばっか読む奴は何の生産性もないバカだと思っていた
l 言葉を覚えるのが得意のように感じる。但し思考と単語を正しく関連付けられないが。スポンジのように何でも吸収できる気がした。いつまでも子供の脳だからなのかな。
l つまらないものにすごく価値があるように感じてしまう。自分の大切なものをよく笑われる。ケチ傾向?こだわり?
l 川村さんがバレンタインにチョコを持って来てみんなで食べていた時に先生が入ってきてみんなは隠したのに僕だけ「先生も食べますか?」と聞いて周りが「はあ?」となった。学校が飲食物持ち込み禁止な事とか、先生に見つかったら叱られる事とかを忘れていた。
l 文章を読まないで概念で理解している
l 自分より才能のある人はたくさんいた。何故みんな作家にならないのか疑問だった。でもみんなは社会人として生きていける技能も、作家としての才能も両方あっただけだったんだ。僕は自分の身も命も削ってようやく作家にしがみ付けるかどうかという人生だったのに。そんな事は子供の頃からよく分かっていた。だから寝食も削って努力するしかないと思った。
l 勉強と言うものに価値を感じていなかった。勉強が出来ない事に全く劣等感がなかった。母は歌手で父はエンジニアだったので、自分も職人とかそういう仕事をするつもりだったので、勉強よりも技術を上達させる事に価値を置いていた。大学に行く予定もなかった。
l 漫画家になる為に学校の勉強を捨てて漫画の勉強に絞るか悩んだが、集英社のお悩みコーナーで「学生のうちは勉強した方がマンガのネタにもなる」と書いてあるのを読み勉強に集中する事にした。しかしこの時もっと早くから漫画の道に足を踏み入れていれば大学生の時に慌てて詰め込まなくて済んだだろうし体を壊す事もなかったかもしれない。高校から大学の「急転換」が失敗の元凶だった気がする。
l 勉強は学歴の為でも進路の為でもなく、ひたすら「マンガのため」でしかなかった。だから大学生になってもマンガのネタにならない授業は必修科目でも取らなかった。
l 本を読まなければと思って頑張って読んだ。半年に1冊くらいのペースで読んだ。子供向けの冒険小説など。それ以上のものとなると無理だった。
l 「自分は他の人と違う」と言う意識は幼稚園の頃にはすでにあった。それはそもそも親が他の友達の親と全然違っていたし、「うちはうち、よそはよそ」という感じで、劣等感だとか違和感だとかそういうものはあまり感じていなかった。親はそれでいいと言ってくれていた。うちの両親は他の子の祖母、祖父と言って良い世代だったので、ジェネレーションギャップだとばかり思っていた。
l 漫画家になるつもりだったので、暇さえあれば絵の練習をしていた。
l 文化祭のポスターを礒沼の名前で応募して、当選してしまい礒沼に連絡が行って「多分とまよこじゃないか」という話になって僕に連絡が来た。自分の名前で応募できない。自分が何かやらかして怒られたりするのが怖い。
l 「世界で一番嫌いなのは教師」と教師の前で言ったりしていた。教師しか大人を知らないんだから当然だと思っていたが、今考えても世界で一番嫌いな職業は教師だ……。
l 普通にノートを取る事が出来ず、キャラクターを書いてふきだしで喋らせないと文字が読めなかった。ノートを取るのが大変だった。「吹き出しの中の文字」なら読める。また、台詞などは読めるが地文(ですます、だ、である)などが読めなかった。
l 「自分は何かがおかしい」と漠然と考えていたが「きっとこれが中二病なのだろう」と思って深く考えなかった
l 小学校で僕をいじめた友達に復讐と言うか、見返したいという思いが強かった。中学校より小学校のほうが、辛い事も多かったが楽しい事も多かった。小学校は全力で他人とぶつかって生きる楽しさがあった。またあの世界に戻りたいと思い、勉強に励んだ。いつか同窓会などでみんなをびっくりさせようと思った。また褒められたいと思った。
l 自分は補習に出るのが当たり前だと思っていたので(勉強が出来ると思っていなかった)自分より勉強が出来ない子を初めて見た。しかも、たくさんいてびっくりした。その事実から目を背けていた。「自分は勉強ができない」と思い込む事で自分を鼓舞していた。
l 自堕落な性格だと自覚していた。とにかく少しでも甘えられる環境があると甘えてしまうので、お菓子を捨てる、冷房を付けない、食事を摂らない、CDを庭の物置にしまうなど物理的に自分を追い込む事が多かった。夕食も太るのが恥ずかしくて白米を抜き、まともに食事をするのは朝食だけだった。
l 小学校のレベルがいかに高かったかを知った。しかし今回はレベルが低すぎてこのままでは負け組になる(食べていけない)と思った。
l この当時は小学校のレベルが高かったという認識はあまりなく、とにかく中学のレベルが低すぎて動物園だなと感じていた。
l 自分が喋ると周りが水を打ったようにシーンとなることが増えた。しかしそれを「的確過ぎてぐうの音も出ないんだな」と勘違いしていた。
l 勉強はすればするほど成績が上がり、学校での地位が上がる事がとても楽しくなった。「勉強さえしていれば良いんだ」と思っていたし、学問ができることが社会で生きていける力なのだと思っていた。
l 父が「勉強が得意な奴ほど社会に出ると落ちぶれる」と言っていたが無視した。
l 勉強をすると社会の仕組みが分かってくる。だから、周りで無駄な事をしている人を見ると「バカなんだ」と思うようになった。ここで言う「無駄」は、友達と遊ぶとか、雑談をするとか、気を遣うとか、そういったこと。
l 分からない事は徹底的に無視して、限界まで簡略化(デフォルメ)して理解することで勉強していた。「今の勉強のしかたじゃ、いずれ限界が来てしまうかもしれない」と思っていた。しかし大学に受かってしまったので、「これで良いんだ」と自信を付けてしまった。
l 感情がない自分を誇りに感じていた。「普通の人」より優れていると思っていた。何故なら効率的だから。論理以外に重要な事はないと思っていた。感情がない人間は受け入れてもらえないと知らなかった。
l 自分は頭が悪いと分かっていたので、とにかく「保険」をたくさん作っておかなければいけないと思った。やってやりすぎと言う事はないと思っていた。がめついとかケチとか言われようが、とにかく何でも溜め込むし乞うようになった。昼食は食べなかった。
l 文化祭の余ったクラスTを全部もらったり、図書室の要らなくなった本を10冊以上鞄に入れて八王子から国分寺まで持ち帰ったりした。「タダ」と聞けば手に入れなければ気が済まないと言う感じがした。後々これはますます悪化していき、強迫観念のようになって自分を苦しめた。
l 高校くらいから友達が一人もいなくなり、学校で一言も声を出さずに終わる事が増えた。
l 高校では生徒会には入らなかった。「推薦目当ての卑怯者」だと思われたくなかったから。
l 正々堂々ではないことを軽蔑していた。一夜漬けなどの邪道をしてまでテストで「良い点」を取りたいと言う強欲さと言ったものに拒否反応があった。同じように、嘘やお世辞、おべっかなどの邪道行為も軽蔑視していたし、そういった事で成り上がっても自分の為にならないと思っていた。世間体とか社会的地位とかそんなことよりも自分自身の心の充足や自己研鑽に費やす事が好きだった。今思えばそれは「こだわり」であり他者への関心の薄さであった。
l 数学が好きで数学科に行こうと思ったが数学の先生に「数学科に行っても仕事がない」と言われ不安になって辞めた。今思えば数学科に行っておけばよかった。「高校数学が好きな人は大学の数学が嫌いになる」と言われたが、それは今思えば教師の私怨に過ぎないのだ。
l 世界には「真理」があると考えていた。普遍的なもの、絶対的なもの、それに沿って生きれば「間違い」は有り得ないし、世の中の人々は感情に絆されて本当に大切な事が見えていない「かわいそうな人達」だと思っていた。彼らに理解されようとすら思っていなかったし、理解される言葉で話すつもりもなかった。
l 「好きなもの」と言うものがないと感じていた。漫画やアニメは今思えば「現実逃避」としてしていただけで、好きな訳ではなかった。好きか嫌いかと言う判断基準が自分の中にないと思った。
l 一応武蔵野美術大学の建築学科には受かった。漫画サークルに入っていい相棒を見つけてその人達とチームを組んでデビュー…みたいなことを夢想していたが、性転換のために実家を出る必要があったので京都の大学にした。今考えれば多分それも無理だったと思う。
l シェアハウスをしたいと思ったが父に止められた。自炊も止められて学食のプリペイドカードみたいなのをもらった。今思えば学食のプリペイドだけじゃ足りなかったからもっと自炊するべきだった。シェアハウスも無理だったかな・・・。でもやりたかった。ずっと「友達が欲しい」という気持ちだけがある。でも現実はトラブルばかり起こして「出ていけ」と言われる。そういう欲求不満を解消するために漫画を描き続けていないと精神が崩壊する。
l 漫画の描き方について勉強した。週刊かせめて月刊で連載できるようになれば食べていけると踏んでいた。そのためには大学を卒業するまでにデビューしなければならないと思っていた。
l 成長を重ねれば重ねるほど、人とうまく喋れなくなっていることに気が付いてきた。昔は人と目を合わせられたはずなのに、なぜかどんどん目を合わせるのが怖くなっていった。クラスの人と喋ることはほとんどなかった。「目が悪くなってるからだ」と思っていた。眼鏡を買っても「相手が眼鏡のフレーム外にいるからだ、眼鏡のフレームが小さすぎるからだ」
l 学校に有名な学者か誰かが来て興奮して質問に行ったのだが日本語が支離滅裂になってしまい結局何を聞いたのかもわからなかった。思考を言葉にすることが苦手で、焦るとメチャクチャな文章になってしまう。例えば、「あのそれがえっとだからいつしたんですかえっとあの反逆がすごくてあれが」
l 「建築家なんて設計図さえ書いてりゃいいんだよ」と父は言った。工学院大学のオープンキャンパスで建築の道に進みたいと言ったら、「建築はみんなで話し合ったりしなきゃいけないから…」と何故か困った顔をされた。当時はなぜ彼らが困った顔をしているのかさえ理解できなかった。
l 理系の偏差値35の学校だったため、国語の授業の難易度はかなり低かった。一度だけ、国語の「走れメロスの続きを書く」と言う宿題が出たが、書けなくて出さずにいたら何も言われなかった。次に「旅」と言うテーマで文章を書くように言われたが「原稿用紙に筆で書いていいですか?」と聞き、みんなが小説やエッセイを書いている所をでかでかと詩を書いて乗り切り、これまた怒られなかった(それどころか発想を褒められたほどだった)。結局6年間で何かを書く課題が出たのはその2回のみ。ちなみに詩の内容は「旅は嫌われる前に別れられるから好き」といったもの。広く浅く一瞬だけの付き合いなら嫌われずに済むから旅人になりたかった。
l 自分には「才能はない」ことは重々承知していた。しかし努力は才能に勝つのだと信じていた。学問に王道はない。ただひたすら頑張ればいつか必ず報われると信じていた。
l 父が何でも「言い切る」人だった。「ダメだよ」「三流だよ」
l 父から「とにかく何かのプロになりなさい」と言われ続けていた。「大人になっても何の取り柄もない人間が一番恥ずかしいし可哀想だ」と言い、庶務や総務や事務といった職種を心底バカにしていた。僕はその教えに何の疑いも持っていなかった。
l 教頭に「君は大成功するか大失敗するかのどちらかだね」と言われた。マルチメディア部を作り、教頭に顧問になってもらった。ワイヤレスマイクなど、部活の為に投資してもらったが、部員が集まらず廃部になった。
l また国立に進むことに抵抗はあったが、次こそ負けるものかと発奮していた。
l 勉強して世界を知って世界の仕組みを知る事は快感だった。僕の癒しだった。
l 自分を律する事も快感だった。自分を虐める楽しさもあったし、投資しているのだと思うと楽しかった。努力した分が必ず報われると思っていたから。頑張れば頑張るほど幸せになれると思っていた。
l 紙の上だけが僕の居場所だった。誰も怒らないし誰も横槍を入れてこないし誰も否定しない。僕が僕でいられる場所だった。「とまよこさんって文字のキャラと喋ってる時のキャラ違うね」と言われるようになった。「喋るとむーって感じだけど描いたマンガ読むとさ……」のようなことを言われた。
l 友達の定義が分からず、先生に「礒沼と友達だろ」と言われて「(友達の定義が分からないため、友達の定義が分かるまでは)友達じゃないです」と言ってから礒沼に距離を置かれた。
l 何でも「分かりません」と言っていた。すると、なんだか会話がおかしな事になることに気が付いた。相手はたいてい、「分かりません」を「いいえ」と捉えてしまうことに気が付いた。今思えば、「分からない」ことは有り得ないのだから、「いいえ」を遠回しに伝えていたと思われていたのだろう。
l 「シャイ」と言われる事が増えた。恥ずかしがりと言うか、目立つのは好きだしグループで楽しくやるのも、分担をしっかり決めてチームワークを行うのも好きだ。だがこの世界ではそれが出来ないと言うだけの話。
l 教頭に沖縄で頭のいい子が世界中から集まって強化合宿するイベントがあるから立候補しろと言われたが冗談じゃないと思った。そんな所に行って疲弊したりついて行けなくてみじめになったり意味の分からない会話を聞かされて何が楽しいんだと思ったので、立候補の英文に「I hate sea」と書いたら僕だけ落ちて佐藤亜衣さんは受かった。その事にみじめも一切なくただ「頑張りたい人が頑張れば良いよ」としか思わなかった。
l 僕の友達は大きく2種類いた。「勉強ができる子」と「DRIVE!!」グループだ。
l 相手によって自分を自然に使い分ける事が得意だと思った。相手の好きな話題を調べ上げて合わせる事は勉強と同じで何の苦痛もなかった。
l ふざけ合うノリの素早さについて行けないと感じる事が多かった。どつき合ったりするフィジカルなコミュニケーションは3秒も4秒も反応が遅れてしまう。
l ハンディキャップがある事は知っていた。それを隠して、カバーしなければ生きていけない事は分かっていた。そのために「常識」で生きていてはだめで、法律違反スレスレか賭けに出るような生き方をしなければ死ぬと思っていた。綱渡りのような気持ちだった。人より何十倍も努力する必要は分かっていた。
l 有料老人ホームに入るのが夢だった。お金をしこたま貯めて、早くから有料老人ホームに入って20年くらい生活する事が「将来の夢」だった。あとは「長生きする事」。建築家は長生きが多いと聞いていたから建築家になろうと思った。
l 「天才」以外に生きる道はなかった。天才にならなければ死ぬ。だからとにかく突き詰める必要があった。
l 父は全部決め付ける。間違っていたがそれはメンタルで簡単に言うと「学校でいじめられた。僕は頭おかしいのかな」「学校の奴らなんか気にするな俺達は天才の家系なんだ間違ってるのは有象無象の馬鹿どもなんだ」といったふうな感じ。これのおかげで子供時代は思い悩まずに済んだ。父がたまたま仕事が見つかっただけだった。父のようになればしごとが見つかると思っていた
l ぎゃふんと言わせる、復讐する。そんな感じ。才能を知らしめる
l 小学生がゲームショップでゲームで遊んでいたので「仲間に入れて」と言ったら気味悪がられて笑われた。
l 三者面談でこれからの人生の辛さに泣いた。父は「どうしても京都工芸繊維大に入りたいから」だと思ったらしい。
l 一応自己愛もあった、これはまあ普通だろう解離もあるし
l サングラスを持ち込んでる人がいてかけて遊んでたら出沼さんが「安芸先生が睨んでたよ」と言ったので腹が立って安芸先生に「これって持ち込みOKですか?」と聞いた。
l 修学旅行で私市さんから大食い対決を持ちかけられカレーを7杯くらい食べて本当に胃が壊れるかと思った。ああいう時、「目立った事」をしたくなる癖がある。「普通」でありたくないという意識があるし、「おかしい」と思われていれば大抵の事が許されるので、わざとおかしいふりを普段からしていると誤解されたりしなくて済むのだ。とにかく、おかしいふりをして、人を遠ざけたかったのかもしれない。普通ではないと思わせる事は、僕の人生においていじめられないためにとても大切な事だった。それとも、負けたくなくて圧倒的な力を見せたかったのか?私市さんはいじめっ子で、僕のことをナメてるふしがあったので、全力でボコボコにしばき倒したい気持ちもあったかもしれない。
l 自分が嫌いで他人も嫌い。結局全員嫌いなんだ僕の魂は
l 家を貸して不労所得で働かないのが一番良かったのだが大学に行け、家は売ると言われた。
l 図書室で毎日勉強していたので、ある日図書室の司書さんに「毎日勉強して凄いね」と話し掛けられたが、何をどう答えれば良いのかまったく分からず「ひょひょひょひょ」と言って手を振って逃げた。多分「いえいえとんでもないです」と言いたかったのだと思う。
l 酔ってるふりをすることが多かった。「親のお酒飲んだんだよ」と言っておけば、たいていの失敗やおかしな言動が許されるから。でも、お酒を飲んだことは一度もないし、今まで一度も飲んだことがない。ADHDは酔っ払った状態に似ていると感じる。だからただでさえ酔っているような状態なのにお酒を飲んだら完全に頭がおかしくなって犯罪を犯す気がするからだ。
l 学園祭で着ぐるみを着たら人が怖くなくなっておどけたりできた。
l 学園祭で客の呼び込みをするのが楽しい。目立つことは得意だ。何もしなくてもただでさえ僕の言動は目立つのだから。それが「良い事」である状況がこの上なく気持ちがいいしリラックスできる。しかも、客の反応も見なくていい。ただ目立って宣伝するだけでいい。こんなに楽なことがあるか。
l クラスメートに「キョドい(挙動不審)」とよく言われた。多分、多動の事だろう。
l グループの中に入るのが本当に苦手のため、ここでも「発信」する事でコミュニケーションを取った。読むことが苦手の為書くことしか出来ない。書いて作り出してそれを見てもらって楽しんでもらうと言うコミュニケーションの方法しか取れない自分に違和感はあった。
l 「精神科に行きたい」と言うと母に「何しに行くの」と言われた。両親は自分たちの人生や仕事に違和感を持っていないようだった。2人はバブル期に「ただ、働ければいい」と言う状況で歌手やエンジニアとして「働く」事だけをしていた。でも現代は「働く」ことだけではないことが必要なのではないか?昔はただ言う通りに行動するだけでお金が貰える時代だったのだと思う。
l 発想力も記憶力もない僕の唯一の武器が「論理」しかないと思った。例えば「ドラえもん」は「猫」と「ロボット」に分解される。つまり無機物と有機物のコラボは売れる、などといった「売れる法則」について延々と考えていた。「シナリオの書き方」のような本を読み漁り、受けるドラマの構成を頭に叩き込んだ。法則は才能に勝つと信じていた。
l 漫画家になりたかったわけではない。ただ僕のように自殺しようとしている子供を救うことに意義があると思っていたし、消去法でその仕事しかなかった。今思えば前提からして、発達障害に全部振り回されていた。
l 将来はこうしよう、大人になったらこんな仕事をしよう、漫画家になってたくさんの子供たちを楽しませよう、こんな作品を作ろう、そんな事を考えていた頃は睡眠を取る事ができた。いつからだろう、その夢を描けなくなり、眠る事ができなくなったのは…
l 現実を忘れるために勉強していた。勉強して、将来に夢を見ている時だけは幸せになれた。
l 担任に「ポエマー」と言われるが、長文が書けないだけだった。
l 世の中の人間と少しでも関わらずに生きていくにはどうしたら良いのか考えた。インターネットを使って生きていくことを考えていた。だからwebデザインの仕事をして、そのうち漫画だろうが何だろうが事業を立ち上げて一人で生きていく予定だった。子供向けを想定していた。
l 田島君に空色デイズ貸してと言ったらTSUTAYAで借りたものを貸してくれた事がある。
l チック症の櫻井君と出席番号が近かったのでよく喋っていたら周りの男子が「お前はとまよことでも話してろよ」といじめていた。そういういじめはくだらないと思って舌打ちして無視してたら櫻井君が転校した。差別はしないが逆差別もしない。対応を変えられない。自分がそうやって扱われてきたからもある。転校した時は「もうちょっと優しく接するべきだったのかな」と思ったが障害があるから優しく接するとかは違うと思っていた。それはバカにする行為だ。人として尊重しているつもりなのに傷つける事があるのだろうか。それは今思えば自分がずっとされてきた事だ。
l 障害者を羨ましいと思っていた。保護や支援があってさぞ気楽だろうなと。障害者に生まれたかった。そう思ってる時点で、今思えば障害者だった。無意識に「なんであいつらばっかり支援受けられて同じようにハンディキャップのある俺らは障害者扱いしてもらえないんだろう」という意識があったのは間違いない。世界がそれを強いるのなら、受け入れて戦うしかないと思っていた。
l アウトローとして生きる道も考えた。「いつか刑務所に行くかもしれない」と、今も漠然と思っている。刑務所入るなら女性のままでいた方がラクな気がする~。刑務所は衣食住保証してもらえるから最高じゃんと言うと周りに怒られることが分からなかった。死ぬよりマシだろ。空気が読めなくてルールも分からないからすぐ警察に目を付けられる。だから警察は嫌いだ。
l 「簡単に言うな」とよく怒られる。難しく言っても簡単に言っても内容は同じなのに。
l 「俺たちがこんな社会に負けるはずない」と誰かが言っていた。僕は負けたけど。
l 小瀧さんに「人を怒らせる天才だね」と言われた。
l 本を勧められたりして読むことも増えたが、感想を聞かれても「よくわかんなかった」しか言えなかった。
l 数学はバカでもできる学問だと思っていた。ただ階段を一段ずつ上るだけでできるから。数学が出来ない奴はみんな「賢い」やつだと思ってた。「数学しかできない」と言うと「すごい」と言われる事が疑問だった。今でもこの誤解が解けない。
l 勉強しない奴は「勉強した事なんて人生で使わない」と言っていた。それは間違いだと知っていたが、「世渡り」と言う言葉はとっくに知っていた。世渡りできる自信があるなら、勉強しないこともまた自由だとは思ってた。ただ、「浅い人生しか送れないんだろうな」と見下してはいた。学歴はどうでも良かったが人生に実りは欲しかったから。
l 自分の力ですることが善で、他人の力を借りるのは悪だと思っていた。オーストラリアの教育実習生とかに手紙を渡すとき、みんなの手紙をその場で読んで反応してくれるのだが、僕が自分で考えたオリジナルの手紙は引きつった笑みなのにみんなのいわゆる「テンプレ」文章にはにこやかに反応していて、みんなはカンニングしてるのになんでみんなの方が褒められるのか分からなかった。今でも他人の力を借りるのが苦手だ。だから素人から抜け出せないのだろう。
l 僕より頭が悪いと言うより、僕より頭が良すぎて馬鹿正直に勉強してないんだろうなと思ってた。賢くないから勉強するのは知ってた。そもそも、頭が良い悪いとかそういう二元論?で物事を昔から考えてない気がする。良いとか悪いとかではなく別のもの、他人、違うものという認識で、自分と比べると言う事をほとんどした事がない。「比べる」と言う事をやりはじめたのは発達障害と診断されてからだと思う。「どうして僕はみんなと違って就職できないんだろう」と思うまでは他人と違う事に悩むことはなかった。要は生きてさえいければ良いだけだから。
l 就職は「夢」だったが、どうせ無理だろうと言う感覚だった。父のように「コツコツ」できないのは恐らく母のADHDのせいだろう。父はASD、母はADHDと言う感じだった。自分は数学も好き、理科も好き、でも絵も好きだし音楽も好き、コツコツするのも好きだが目立つのも好き、論理的なものも好きだが派手なものも好き。そんな自分の芯のなさのようなものがずっと疑問だった。父の言う「専門家(プロ)」になれない気がした。自分はプロデュースタイプだと思ったが、人と渡り合うのは苦手だった。
l コツコツするのは得意だが、父のように30年も40年も同じ事だけをし続けるのは無理だと思った。
l 「デザイン」が好きだった。でもそれは一般的な「デザイン」ではなく、「言語を視覚化する」と言った意味。「最も美しいものは数学的に洗練されたものだ」と言う思想だった。シンプルがこの世で最も「美しい」と思っていた。しかしそれは自分に「美しい」と捉える器官が無いだけだったとは…。
l 教頭先生は僕に色々なアクティビティをさせたがったが、僕は人との交流の仕方が分からなくなって人と目が合わせられなくなっていった。教頭が話し掛けても逃げた。
l 卒業した時、パンフレットに卒業生の声を載せるかと一応聞かれたが、答える前に「君はこういうの嫌いだよね」と言われた。書きたかったが、恐らく僕がまた顰蹙を買うようなことを書かれても学校のメンツ的に嫌だったのだろう。好きだった学校から切り捨てられたのが悲しかったし、学校の実績になるからと受験も頑張ったのに無意味のような気がした。卒業してしばらく高校のホームページに自分の大学が書かれていたのを眺めて癒されていたのだが、3年くらいで消された時に「何の為に大学受験したんだろう、たったこの3年の広告のために自分の青春を全部ドブに捨てたのかな」と思った。それくらい、大学受験は「学校のため」だと思ってやっていたのだと気付いた。高校がもっと質の良い生徒が増えてレベルの高い学校になってくれる事は僕の望みだった。でも、それに貢献できなかった無力さがあった。
l 人の為になりたくても怒られたり嫌われたりする。だから人の為に動く事は一切やめようと誓った。
l 学校説明会で小学生の親が「理系の学校だから国語の授業とか少ないんですか?」と聞いてきたので安心させようと「はい、全然ないです」と言ったら引率の先生に物凄い睨まれた。自分の「良い」と言う価値観は他の人の「悪い」と言う価値観なのだと思った。国語の授業が苦手で嫌いな人が理系特化のために理系の中学に来るのだから、国語の授業が少ないと言うのは「良い点」だと思うのだが…?なら最初から普通の学校として売り出すべき。でもうちは「理系」が売りだった。父も国語なんて必要ないと言っていた。国語なんてクソだと思っていた。きっと生徒全員そう思っていたはず。
l 英語が得意だった。日本語より得意と言うと語弊があるが、英語の「結論を先に言う」と言う言い方が短期記憶を使わない感じがして使いやすいと感じていた。もし英語圏に生まれていたらもっと言語IQは高かったと思う。
l ノートに漫画を描いて「事実をデフォルメ」して覚える。複雑な事はそのまま理解できないので単純化して覚える。このような勉強法で本当に良いのかなと不安になったが、大学に合格できたから大丈夫なんだと安心した。
l 自分が障害者であることも知らず、世の中の人間の何と気楽なことだとばかにしていた。こんなに努力しているのだから失敗するなんて有り得ない、絶対失敗しないくらいに努力すれば失敗しないだろうと思っていた。でも、失敗した。そもそも生まれることに失敗していた。
l 自分の事を「人間」だとあまり認識していなかった。どちらかと言うと機械側の人間で、人間と言うものを他人事のように見ていたし、見下していた。親戚付き合いも一切なく、人間社会に組み込まれてる感覚も乏しかった。だから食べなくても生きていけると勘違いしたのかもしれない。人間らしい事について全て否定的な目で見ていた。機械至上主義。もちろんその考え方をやめることはできないため今もそうだが、今は人体の勉強をしたため「休むことが必要」と学習した。学習しなければ分からない。なぜみんなは自然に分かる?
l 哲学が好きだった
l 偉人の伝記のようなものが好きだった。エジソンや平賀源内などに傾倒していた。僕もこんな人達のようになりたい、いや、ならなければ他に生きる道が無いと分かっていた。でも僕の人生は彼らのようにはならなかった。
l 性器を触ったときに鳥肌がするのは分かっていたが「気持ちいい」という感覚はなかった。むしろぞわぞわして気持ち悪かった。そもそも性器だと知らなかった。
l 何でも忘れるので、何でもまっさらな気持ちで見れる。言語とか覚えやすいし新しい概念も頭に入ってきやすい。だからこそ普遍的なものに依存しがち。それを発達障害と呼ぶらしいな。
l 言葉で言うのは粋じゃないと思っていた。起承転結で驚かせるのが好きだから。「ツンデレ」と言う言葉を知った時、素晴らしい言葉だと思った。二律背反のジレンマをよく表していると思った。
l 漫画は不特定多数に向けられているから好き。僕じゃない誰かに宛てられたものを僕は同じように享受できる。でもそれは僕のためのものじゃないから、どこか違和感がある。それから目を背けるためには、自分を封印するしかない。
l よく「動きに無駄が多すぎる」と言われる。ドッジボール大会で当てられる度に倒れていたら先生に「動きに無駄が多い」のような事を言われた。
l 言葉は不完全だと言う意識があるし、言っても伝わらないし意味が無いと思っている節もある
l 結果だけ見せて驚かれるのが一番美しいと思っていた。でもこれはオーディションをしてもらうチャンスがないとだめ。
l 面接に強いタイプだと思ってる。でも試験を受けるチャンスがない。
l 宗教を信じていた。神が必ず見ている、世界は平等だと思っていた。
l 顔が赤くなりやすい。寒いだけで赤くなるのだが東京の人はそんなことないため、誤解される。発達障害に似ているかもしれない。
l Zoomが流行り始めたがzoomが怖い。してること忘れて大変なことをしてしまうのではないかと怖い。小学生の時スカイプをしていてシーンとなった時に通話しているのを忘れて独り言を喋ってしまった事があり、それから音声通話は絶対しないようにしている。
l 兎と亀の話が好きで、自分は亀だと言い聞かせていた。いつか逆転するのだと信じていた。
l 京都の美術館で図録を買わないかとお店の人に言われ、「大人になったら」と言ったらお店の人ががくっとした。「どう見てももう大人だろ!」という意味だったかもしれない。そう言えばいつまでも「大人になったら」って思ってるけど、いつが「大人になった」のか分からない。
l 完全に石丸伸二のような人間だった。社会が間違っていると信じ込み、自分なら世界を変えられると信じていた。
l 女風呂を覗くのが合法な人生だから、犯罪に対するハードルが低いのかもしれない。
l 真面目に生きても怒られるから、嘘をつくようになったのだろう。
l 高校三年の最後の三者面談に父を呼んだ。なぜ父を呼んだのか分からないが、「父のおかしさ」のようなものを先生に見てもらいたかった。それはおかしいから助けてとかそういった意図ではなく、ただ「おかしいけどこれ見てどう思う?」程度のつもり。父は「文系のあなたには分からんでしょうが」と絶好調だった。これからの人生に希望が持てず泣いた。父はどうしても大学に行きたいからだと思ったらしい。先生からは卒業のときに「がんばれよ」と念を押された。
l もしかしてやりたいことを強くアピールすることが苦手かもしれない。コミュニケーションを取る事で相手の意志を変えるということが想像できない気がする。そもそも相手に意思がある事をうまく想像できていないのだと思う。だから結論だけを受け取って変更しようとしない。
l アメリカに憧れていた。出る杭を打たない、個性を尊重する、忖度しない、思った事を伝えてもいい、空気を読まなくていい、そんな世界でなら生きていけるのではないかと思っていた。しかしオーストラリアにホームステイをした時、外国でもお世辞や思いやりなど相手の裏を読む必要はあると分かり、そのうえ言語能力が下がって余計コミュニケーションができないと分かり外国への憧れはなくなった。
l 「コミュニケーションができる」はひとつの能力でしかないと思っていた。それができないと障害者!?マジか…「コミュニケーションしか能がない人間」をバカにしていた。
l 親の庇護が無くなったらどうやって生きていくのか自分でも想像できなかった。なんとか誰かの脛をかじって暮らせないかずっと考えていた。
l 藤子F不二夫は藤子A不二夫がいたからやっていけたのだ。それを知らずに藤子F不二夫のようになりたいと思っていた。
大学以降
l 大学に合格したは良いが、これから性転換をして、漫画家になって食べて行けるのかと不安だった。綱渡りをするような感覚だった。デビューするまでは一瞬も休んではいけないと思った。
l 「情報の取捨選択」ができなくなっていると感じた。元々出来ないほうだったが、何が必要で何が不要なのかがどんどん分からなくなっていき、何が正しいのかも分からなくなった。その結果、目についたものを全て取り込むようになり、自分自身か支離滅裂になっていく感じがした。書く漫画も支離滅裂で、自分の中になんの軸もないと感じていた。
l 発達障害だと分かった瞬間、緊張の糸が切れたように頑張れなくなった。
l 自分が信じていた善悪だとか、優劣だとか、そういったものが全部ひっくり返る感覚があった。自分が正しい事を証明してやりたかったが、体調も悪くなり、自惚れ切れなかった。
l 言葉や文字に対する感受性が強い気がする。言語IQは80なのに。本を読むのが嫌いなのは本に飲み込まれるからで、数日は何も手につかなくなる。
l 買い物が苦手だと感じた。自分がこれからどうなるのか、何が必要になるのかを想像するのが苦手で、「お腹が空いてからしか食べ物を求められない」、お腹が空く前に動くことが出来ない、段取りが出来ない。料理に必要なものが何かを考えて用意することが出来ないと感じた。スーパーが徒歩10分の遠い所だったので、ほとんど何も食べないで空腹を我慢して過ごしていた。あの頃に戻れるのなら絶対にもっと食べておくのに……。
l 「かさ」を想像するのが苦手で、必要な量をイメージできない。その3~4倍の量を用意してしまうか、或いは1/3の量くらいしか用意できない。足りないと思っていると足りるし、足りると思っていると全然足りない。足りなかったらどうしようという不安もあるのかもしれない。だから買い物がものすごく苦手で、家計簿のようなものもつけたことがない。
l 漫画家になるにしても一人ではなれない。編集者に短期記憶をサポートして貰わないとできない。でもその編集者と出会うことができなかったということなのかな。
l 思い返すと僕の周りは発達障害しかいなかった気がする。発達障害の診断進むと社会の60%くらい発達障害になるのでは?
l 障害隠して誤魔化して嘘とハッタリで騙し騙し孤独に生きればそれで良かったのに精神科なんか行ってしまったから社会に矯正参加させられて苦しんでいる
l 「どうかしてる」と言われる
l 晴和病院での聞き取りで「全然気付きませんでした」と母に言われ傷つく。
l 癇癪でタブレットを叩き割る
l 返事を書かないという発想がない。いまだに返事がない時の意味が分からない。失礼以外の何物でもないのか、相手の為に返事をしないのかよく分からない。返信を書くのと書かないのの違いが分からない。「あ、はい、いいですね」って返事を書いて返事が来なくなる。
l 誕生日に何をあげたら良いか分からないからあげられない
l 京都の華道教室のアルバイトで「あなたもやってみなさい」と言われたが全く分からずただぶっ刺したら怒られもせず「心配してたけど大丈夫そうね」と言われた。どういう意味?
l 「女子の裸を見てはいけない」と言う教えを頑なに守っているから動揺する。そもそも女子に動揺する。
l 1度に1回のことしかできない。昼飯を買いに買い物に行く。帰ってきて、お腹が空くまで何もしない。お腹が空いて困る。なにもない。夜飯を買いに行く。帰って来る。
l トイレットペーパーとかは買い忘れるので使わない。皿は風呂でいっしょに洗う。
l 頭おかしいよとか言われることが増えた。てかもう何もかもどうでもよかった。
l 発達障害は遺伝的なものなのに、親の発達障害を想定してない病院多すぎないか?
l パニックになる、理解できないことが重なるとどうしてもぐるぐる回りたくなる
l 日本社会が悪いことに気づけなかった。発達障害と気づいてもらえなかった。発達障害と診断してもらえなかった。いつだって僕の人生がうまくいかないのは日本社会の制度が整っていないからだなと今振り返ればわかる。また日本社会制度の世話になるのはまずいんじゃないか。殺されるんじゃないか。
l タブレットを床に叩きつけて壊したり
l 自分としては卒業するつもりはあったのに父がもうだめだと言った。休学したいと言ったときもだめだと言った。専門学校に行きたくないと言ったのに行けと言われて行ったけど体調悪すぎてまた辞めた。
l 森井先生に「幻聴とかありますか?」で鐘の音とか聞こえると言ってしまった。たまに空耳っていうか一定の周波数が別の声とかに聞こえることあるよね?父さんもよく冗談半分に「幽霊がいる」とか言うし、発達障害は幻覚見ないからこその発達障害ジョークだなと後から思った。幽霊とか妄想とか「あるわけない」前提で、「ある」という悪ふざけをする。
l 暇が嫌で、暇潰しに辛い思いをしていた気がする。「たくさん支払えば、たくさん返ってくる」と思い、「欲しいから払っていた」と言う面があったと思う。余裕があると、将来がダメになるかもしれないという不安があった。
l 手塚治虫に共感していた。「もしかして僕は手塚治虫の生まれ変わりじゃないか?」と思った。もし本当に手塚治虫の生まれ変わりならお前はとっくに漫画家になってるだろとその頃の僕に言いたい。
l 「ココナラ」は他のサービスへの誘導について厳しいのだがそのことを知らず(忘れて)誘導してBANされた。自転車をうっかり従業員用のとこに停めて撤去されたり思った事を書いて誹謗中傷で告訴すると脅されたりなどなどなどなど
l 清和病院の発達障害の検査で本人への聞き取りが全くなくてびっくりした。母親が気付かなかったら発達障害じゃない事になってしまう……。
l 『ガラスの仮面』に北島マヤという子がいるが彼女の「憑依型演技」と言うのに共感した。自我が乏しく自分を忘れ、場に流されやすいため、その場に没入してしまい後から混乱することがある。役目を望まれると「空気を読んで」その役目を担当してしまうふしがあった。しかし後からこれが「空気を読む」と言う事ではないと知る。例えば喧嘩を売られたら買う、イジられればボケるといったような感じで、相手が求める「キャラ」を担当しがち。だから「性自認」と言う物も心の奥深くにしまわれていた。女だと言われ女のふりをする事を真っ向から拒否せず、流されてオカマっぽく振る舞う事自体は許容できる。そういう面でグレーと言うか、「自分」を強く出して生きる人間では元々ない。だから人との交流を絶って「役を下ろして」10年自分を見つめて、初めてやっぱりトランスジェンダーだと確信した。
l 嘘がつけない。男に生まれてても性欲を隠せないし、女に生まれててもバカ正直に喋って仲間外れにされる。たぶん、どっちの性別にも居場所はないんだと思う。
l 集中力が続かないと言うか、情報量が多いと混乱してしまう。「多い」と言うのは3つとか4つのこと。2時間のオーディオドラマの編集に10年かけてしまったのは、一気にやるとどれをやったのか分からなくなったりどうすればいいのか分からなくなったりして上手くできないから。
l やりたい事がありすぎる。医学部に行きたいし音響の専門学校に行きたいし服飾の専門学校に行きたいし物理学科に行きたいし建築学科に行きたいし考古学や哲学も勉強したいし神学部も興味ある。とにかく目に入るものほとんどに興味があり前に進めない。「今勉強しなきゃ後悔する」と強迫的になって、興味がないこともやり続けて鬱っぽくなっていく。自分が何が好きなのかを自覚する力がない。たぶん周りからの評価で価値を決める以外に自分の判断基準が無いからだろう。
l 父は「頑固」と言うより「執念」と言う方が正しい気がする。学歴に拘って、現実おかまいなしにとにかく敵を蹴散らして、しがみ付いて、それでやっと発達障害をカバーして生きていたのかもしれないと思った。「プロフェッショナルになる」と言えば聞こえは良いのかもしれないが、結局それ以外できないからそればかりしつこく死守していたと言う方が正しいのかなと。
l ももこころの診療所で、詳しくは忘れたが「それはわざとだ」と言われた。何がだったか忘れたができないことを、できる時とできない時に分けていると言ったらわざとだと言われた。よく覚えていないが、外では喋らず家では喋れることについてだったかもしれない。
l あとドアを親に開けて貰ったら怒られた。しかしこれは、何をしても怒られるので一切手を出したくないと言う気持ちがあると思った。
l 晴和病院で「父も発達障害だと思う」と言ったら「お父さん仕事できてますよね」と言われてびっくりした。父は、典型的なASDにしか見えない…。
l 感情がないことは優れている事ではなく「頭が悪く脳の回転が遅く鈍感である」と気付いた。
l メールの返信が一人また一人と途絶えていき、何がいけないのかも分からないし聞けないままどんどん無視されていくのが非常に苦痛だった。
l 梧桐学苑の人に母が色々話したら「京都で何かあったんですかね」と言われ、「この人は分かってくれるかもしれない」と思った。梧桐学苑に入りたかったが母がお金がないからと断った。
l 父親が「大学は絶対出ろ」って言うから大学に行ったけどそれがやっぱり良くなかったと思う。無理をしたわけで。その無理をやめる方法を考える方が大切だったのに、そういうことから全部目を背けてひたすら受験勉強していた。それがもうそもそも人として壊れていた。そうなってしまった理由を考えるべきだったのに。
l 父の言う通りにしてただけなのに発達障害と言われて驚いた。
l つけもの工場に面接に行って「発達障害」と言った瞬間から目を合わせてもらえず話し掛けられる事もなく帰らされた。
l 一人暮らしをしていた時、父に意見を仰げなくてとてもつらかった。少しでも困った事があった時は父に相談していたがそれがなく、発達障害と診断された事を相談できず、どうすればいいのか分からず心が潰れてしまった。もし父に相談していたら「そんな医者はクズだ」とか言ってくれていたかもしれないが、僕にはそういうふうに考えられる自信がなかった。もっと父に相談すればよかったのだが、結局父に失望された。
l 大学に行けなくなって、休学して体調を整えてなんとか卒業したいと思ったが、まず、卒業しても就職できると思っていなかった。就職してもそこでコミュニケーションが出来ないのだから意味がない。自分は漫画家以外に食べていける職業がないと思っていた。漫画家として一方的な発信をしてそれについて来てくれる人がお金を払ってもらう仕組みでしか生きられないと分かっていた。
l 父は結局休学を許してくれず、退学した。体調が悪く、一人で暮らすのは絶対に無理だと分かった。
l 京都に行ってすぐの頃、銭湯でおばさんに「お背中流しましょうか」と話しかけた。地域の交流をしたりすることに憧れていた。「かまへんけど」を「構わないで」という意味だと思い結局しなかった。人と交流したいという思いは強く、友達が欲しい、受け入れられたい、仲良くしたい、楽しく生きたいという思いが100%だとすると、それを実現できるのは0%である。
l ずる賢い嘘つき達に負けた。愚直に努力しても夢は叶わないと知った。世界に裏切られた。バカと天才は紙一重じゃなく、バカはバカだった。
l 現実世界に居場所がないためマンガしかすることがない。漫画の話をすると「フィクションやないかーい」と言われる事が増え、周りの人は現実の世界を生き始めている事に気付いた。昔のように僕の作品を読んだり一緒に創作してくれる人もいなくなっていき、最終的に一人になった。
l 現実に僕を受け入れる場所がない。
l ディーキャリアの面談で「苦手な人とかいますか?」って聞かれた時に「頭のいい人」と答えたら「俺高卒ですよ」とか言われたがそういう事じゃない。健常者が苦手だという事。
l 買い物ができない。段取りや未来予測ができない。
l 寝ない、ノルマを決めて、それをこなさないと寝れないようにしたら、一日30分しか寝る時間がなく、講義中に寝るなどをしていた。とにかく受験勉強中に出来なかった創作の勉強や創作活動をして、大学卒業までにデビューしなければ生きていけないと思ったから大学は二の次三の次になっていった。
l 自分が嫌いで他人も嫌い。結局全員嫌いなんだ僕の魂は
l yahoo知恵袋で相談しても「恵まれてる」「ワガママ」という答えばかりでかえって傷つく。自分は本当にワガママなのか、じゃあなんでこんなに辛いのかとそればかり考えていた。
l 相談したら悲劇の主人公ぶるなと言われる
l 家を汚したくなくて(掃除できないから)カラオケでかばんの整理をしていたら「警察呼びますよ」と言われた。
l 服が汚れていてもおかまいなしだったので歯医者に「ペンキ屋さん?」と言われた。せめて「美大生?」って言えよ。
l 小学校の頃は正しく迫害されていた、と感じる。小学校の頃はバカで、無能で、そのことで正しく差別されていた。大人になるにつれそういう差別ではなく、「悪意がある」と思われたり敵意があると思われたりすることが増えた。それは僕がコミュニケーションがうまくできないから相手に喧嘩を売っているようになってしまうからだと思う。それで、こちらは親しくなりたいのに傷つけられるという経験を300回くらい繰り返して、ようやく人と話すのを一切やめる事にした。
l ケチすぎて困る。お店に行っても必要な物を買うことが出来ない。これが一番困っている。お金を失うのが怖い。
l 睡眠を取るのが怖い。そのまま二度と起きなかったらどうしようと不安になり意識がなくなるのが怖い。
l アイヌはうらやましい。守ってもらえて。「アイヌ」と言えば同情される。発達障害は同情されない。自業自得だと言われる。努力しろと言われる。
l 普通の発達障害は発達障害同士で友達ができたりするが僕はGIDのせいで友達がいないので孤独。ASD男子は女性と全く会話した事が無いため僕が話しかけると「女だ」となって避けられてしまう。だから友達を作る為に女でいることが嫌だった。
l 普通に生きると不注意多すぎて無理だから寝不足になる
l 「ダメだね」「見れません」「しない手はない」などを額面通りに受け取り後から訂正され、騙されたと思う事が多い。
l 相手の意見が覆るという発想がない
l ありのままをさらけ出して生きたことがなかったので気付かなかった。自分がどれだけ特殊な人間か、自分でも気付かなかった。
l 声優学校でミキシングの手伝いをする事になった時、「経験ある?」と言われて「専門学校…」と言ったら「ああー」と言われたが、「専門学校に行っていた」ではなく「専門学校のオープンキャンパスで1回触ったことがある」なのに言うのが遅すぎて最後まで言えなかった。言えないまま当日になって、言い出せなくてドタキャンした。
l 自分は大学肌と言うか大学に行きたいと思ってなかった。それは会社員になれる自信がなかったから。かと言って研究員になれるだけの頭の良さもないし「クリエーター」以外に道は有り得ないのに大学に行く意味はないと言うだけで、大学の学問自体は向いていたというか高校の先生に「研究肌」と言われたし研究自体は大好きだし大学というもの自体は合っていると思う。「象牙の塔」に一生引き籠って死ねるならそうしたいが、日本の「大学」でそれができるのかは疑問だ。今思うと日本の大学は本当の意味での「大学」ではないのかもしれない。なんか忖度とかそういうイメージがある。だから大学で働きたいと思わなかった。ただ、クリエーターとして成功して大学の嘱託講師とかになれたらベストだと思ってた。
l 未来予測をするのが苦手だ。とにかく明後日くらいのことを考える事が苦手だ。その日の事で頭がいっぱいになる。
l 誰かに「友達ゼロ人」と言ったら「嘘でしょ?」と言われた。
l 漫画を好きだから書いているという認識がなく、好きだからすると言う感情も分からず、嫌味や皮肉でしか会話が出来なくなった。専門学校の先生に「通学中は何してるの」と聞かれ「仕事…」と答えた。漫画の事をずっと「仕事」だと捉えていた。それでしか食べていく事は出来ないと思っていた。
l 発想力も記憶力もない僕の唯一の武器が「論理」しかないと思った。例えば「ドラえもん」は「猫」と「ロボット」に分解される。つまり無機物と有機物のコラボは売れる、などといった「売れる法則」について延々と考えていた。「シナリオの書き方」のような本を読み漁り、受けるドラマの構成を頭に叩き込んだ。法則は才能に勝つと信じていた。
l 生け花教室のバイトで「あなたもやってみなさい」と言われ絶望した。何がどう良いのかさっぱり分からずとにかくぶっ刺すだけにしたら「心配してたけど大丈夫そうね」と言われた。恐らく「オドオドして気弱に見えるが実際は大胆なので心配要らない」と言う見解だったのだろうが、無自覚で大胆なだけなので余計相手の神経を逆撫でして余計オドオドしてしまうのだが…。
l 精神科は、もっと体系的なものかと思ってたら、かなり適当な業界でびっくりした。
l 「意外」と言われる事に強い、強い苦痛がある。「他人の意志」や「思考」が入ってきて自分がなくなってしまうのが怖い。影響されやすい。自我?アイデンティティ?のようなものが極度に薄いように感じる。他人に自分の気持ちを決め付けられるとひどく人権を蹂躙されている感覚になるのは母にずっとそうされて来たからなのかもしれない。
l 「分かってもらおう」とする事に強い苦痛を感じる。自分の中のものは自分だけで大切にしていたいと感じる。だから、まるきり違う人間になって嘘をつきまくるのが得意だし好きだし、安心する。だから、人に悩みを相談出来ない。だから、友達が出来ない。僕はエンターテイナーなんだからそれで良いとずっと思っていた。
l 僕の中の自分と言うものがすぐに消えてしまう危うさがあると自覚していた。
l 嘘つきを疑われることが嫌だった。話しても相手は信用できず、僕がまるで嘘をついているように思われる事がトラウマだった。
l 「バカにされる」事がずっと嫌いだった。ここで言う「バカにされる」は、「怠け者と思われること」だ。怠け者が大嫌いだし、そう思われる事が死ぬほど嫌だった。叱られる事が何より嫌だった。小学校のトラウマなのかもしれない。
l 正直に言うと必ず怒られるか否定される。
l 焦る、多動、時間いっぱいに動く、しないと気が済まない、
l 自分が何者なのかを客観的に書くために、女とは何か、定型発達とは何かを調べる必要があった。その作業は、定型発達やシスジェンダーとして生まれていたら不要な作業
l 「機械みたい」「ロボット人間」などと揶揄されて久しいが、人工知能が出来てコンピューターに知能を超されてしまった。
l トランスジェンダーは発達障害に多いと言う話を聞いたが、発達障害だと自分に嘘をついて生きていけないからっていう面も大きいと思う。
l 誠実になればなるほど嫌われる
l 食べなかったら死ぬと言うことがなぜ分からなかったんだろう
l 「ありのまま」で生きる事が良い事だと教わってきた。
l 漫画家の「食べてないアピール」を真に受けた。バクマンで飲まず食わずで漫画を描いて倒れる描写をそのままやった。倒れたけど、治るのに10年以上掛かってる。
l 街を歩いてて、ふと「今ここを歩いてる99%以上の人は僕より価値があるんだ」と思う事がある。
l 答えの出ない宙ぶらりんな感覚。どこにも居場所がなく不安な感覚。落ち着いてご飯が食べられない。「どこか」に落ち着こうと必死だった。それが「漫画家」だと思っていた。だから、漫画家になるまではご飯もあまり食べられなかった。
l 進んだ大学のコンセプトが「科学と芸術の融合」だった。僕はそれを「科学的に証明された機能的なデザイン」の事だと思っていたが全然違った(笑)
l 「芸術」とは、テーマや思想を伝える事であり、エンタメとは効能作用のあるものだと結論付けた。
l 政治学科に進んだ小瀧さんに「政治って何?」と聞いた。政治とは何たるかを教えてもらえると思ったが返事はなかった。
l メールの返信が来ない事が多い。自分の中では相手の返事もシミュレーションしてあってその返事も考えてあるのに、返事が来ないからラリーが続けられない。
l この世は健常者の目線で作られていて、僕達は「石ころ」程度のものでしかないと気付いた。
l ちあきクリニックでSCTテストをしたら「不真面目」と怒られ、受診を拒否された。「ありのまま思った事を言うと怒られる」は医師に対しても同じなのだとしたら、僕を救う人はこの世にいないと言う事になる。いりさわで受診拒否された時「他の精神科に行ってまた同じように拒否されたら立ち直れない」と思って精神科に行けなくなってしまったが、あの時行かなくて本当に良かったと思う。
l 「女性の発達障害はADHDの方が強い」と言うのは僕にも当てはまっていたのかもしれない。ADHDは思っている以上に深刻かもしれない。
l いつ自殺しようか考え中。
l 大人がどれだけ子供を平気で騙していたのか大人になってから分かった。他の子は気付いていたのだろう。努力は天才に勝てないし、勉強や学歴はやっぱり何の役にも立たないのだ。一番正しい生き方は勉強なんかさせずに才能だけを伸ばす事だったのだ。その才能が僕にはなかったが。
l 実際、発達障害とハッキリ診断されるのを避けているふしもあるのだろう。
l 人間は機械だと思っていた。でも、人間は機械ではなかった。機械よりもっとポンコツの、なんか勘違いとか誤解とかが多い未熟な機関だった。人体を人為的にいじれるスイッチがあればいいのに。それが鍼灸なのか?もっとアラートとか出して欲しい。
l 食べなかった理由として、やっぱりこの世に居場所がない、死にたいという無意識の思いはあると思う。自分の体を大切にできないし、生まれたことをありがたく思ってないし、いらないゴミだから。
l お前らが発達障害と差別するのなら俺も犯罪だって厭わない。社会に復讐してやる。この世の全員が嫌いだ。
l この世のどこかに一人くらいは理解者がいると思ってた。その人を探すために漫画家になろうと思ってた。
l 「普通」に生まれてたら考えなくていい事をしこたま考えさせられてる。そんな人生にもう疲れた。
l 漫画は酔ったような感じで描けばいい。吾妻ひでおのような作品でもじゅうぶんお金はもらえるのだから、とにかく思い付いた事を書けば仕事になると思った。
l まさか父さんの事でこんなに怒られるなんて思わなかった。父の言う通りに生きて、振る舞っていたらみんなに怒られる。なぜダメなのか全く理解できなかった。
l 友達(だと思っていた人)に「僕ドーパミン少ないからさー」と言ったら「何開き直ってんの?」と言われた。
l 舌っ足らずと言うか活舌が悪いから口数が少ない。本名言いにくすぎる。言いたくない。自己紹介が大嫌いで、言う事もないし言っても首を傾げられる。口を動かす、喋る脳みそが弱い気がする。
l 目立つことが好きと言うよりは、目立たなければお金が貰えないと思っていた。「空気を読むことで社会に受け入れられる」という価値観そのものを学んでこなかった。必要も、可能性もないとはなから切り捨てていた。
l 京都のカウンセリングで考えている事をそのまま話したら首を傾げられた。それ以来、いくらプロでも人に思ったことをそのまま言うのはやめようと思った。
l 最近気付いたのだが、自分には「価値観」という概念が少ない方に感じる。善悪、優劣、是非といった、正負の価値観に乏しい。僕の中にあるのは「生死」しかないような気がする。ただ動物と人間では人間の方が価値が高い感覚はある。これは要するに「自分以外に興味がない」と言う事でもある気がする。人と比べると言う感覚が基本的に乏しいため、自分と他人、あるいは他人と他人を比べるような意識があまりない。ただ、一人は寂しいと言う感覚はある。本能的な事しか分からないと言うことかもしれない。
l 言葉で示すと嘘っぽくなるのが好きではない。これは親にさんざん嘘をつかれて生きてきたからかもしれない。
l 計画や段取りが出来ない為必ず行動して失敗してから考える。そのために疲れるし、信頼も得にくい。
l 母親が僕を罵るのはきっと僕が発達障害だからなのだろう
l 世の中の人の「返信しないタイミング」とか「返信しない意味」が分からない。だから返信がなくなるとどうしてなくなったのか分からなくて10年近くずっと悩んでいる。色々な可能性を全部挙げるが、結局分からない。健常者の人たちはみんな分かるのだろうか?
l 親とゲームやマンガを共有した思い出がある人が羨ましい。まあ父親とは共有してるけど
l 就活の「志望理由」に「お金」って書いちゃいけない理由が分からない。お金以外に働く理由なんかないだろ。と思っていたが「数ある会社の中からその会社を選んだ理由」を書けと言う事だと知り、今度は「近いから」と書いた。人に相談すると「仕事なんて何でもいい。お金を稼ぐ手段でしかない」と言う人ばかり。なのに志望理由は「どこでもよかったけど近いから」じゃダメな理由が分からない。本音と建て前と言うか、じゃあどっちが本音?なのかが良く分からない。「この仕事をしたいから」と言う相談をハローワークにすると今度は「仕事は割り切ってやるもの」とハローワークで怒られる。
l 発達障害ではないと言われると怒ると言うか、発達障害ではないと言う結論は僕の人生の中でもうダメだと思う。発達障害と言われて、全部気持ち入れ替えて全部受け入れて、10年かけてストレスかかりながら発達障害の研究して眠れなくなって潰瘍性大腸炎になって、それで「やっぱり違いました」は絶対に許せない。
l 発達障害だったと言うと返信が来なくなる。
l づら君に「本当(の発達障害)はそんなもんじゃない」とか言われた。多分高校時代の友達とかみんなは僕の事発達障害じゃないと思ってる。だから僕が「医者に」発達障害って言われたって言うと返信がなくなる。
l 2Eじゃなかった。「天才だったら何をしても許される」、それ以外に生きる道はなかった。天才にならなければならなかった。天才になれないという事は許されなかった。とにかくプロフェッショナルにならねばならなかった。だから大学に行っている暇はなかった。僕は漫画のプロフェッショナルになるのだから。
l 個性がなければ生きていけないと分かっていた。空気が読めないのなら、空気を「いかに読まないか」でお金を貰うしかない。だから「発達障害」というレッテルはむしろその才能を認められたようで嬉しくもある。
l ミソジニーがあると思う。女が嫌いだ。何でもキモいと言うし、嘘ばかりで何もしない。化粧の話ばかりで中身もない。そんな人間が反吐が出るほど嫌いで、自分がそいつらと同じ性器を持っていると思うと嫌で仕方がなかった。嫉妬だと思うが。女ポイントと男ポイントがそれぞれ10点ずつあるなら、僕は女が0点で男が5点くらいだと思う。男かと言われるとそれも危うい。普通の男よりも女のうわさ話を聞くから女が嫌いなのか?
l 母親が鈍いから世の中の人が全員鈍いと思ってる
l 学歴は信用してないと言うか、なんだか学歴を振りかざすのが恥ずかしいと感じる。自分に自信がないからかもしれない。それよりも実力で勝負した方がかっこいいと思う。学歴は実力じゃないって意識があるのかな。
l 男になれば「発達障害」じゃなくなると思っている節がある。父は僕と同程度のこだわりがあるけど仕事が出来ている。それは男性だからで、男性として受け皿があるからで、自分も男性だったら受け入れられていただろうと思っているふしがある。だから「発達障害として生きる為」に男性になりたいというのが最初のきっかけだった。ポケモンでタケシが「男って言うのはこだわりがあるものなんだ」と言った瞬間から、僕はずっとそう考えてきたんだと思う。男になればおかしくない、普通になれる。女性ASDよりも男性ASDのほうが理解されやすいし仕事も多い。筋力さえあれば力仕事だって出来るし生理痛さえなければ動けるし。女性ASDという絶望から抜け出したいと思ったのだと思う。
l 発達障害は人を叩く免罪符になる
l 世の中の半分は発達障害だと思ってる。僕はたまたま精神科に用事があったからそう診断されただけで、正直「僕が発達障害なら世の中の半分は発達障害だよな」って思っている。だから、発達障害であることを認めていないのだと思う。
l 発達障害と言われて安心した面がある。世の中にどれだけ噛みついても許されるから。
l 公務員になりたいと思っていた。とにかく幼少期より就職やお金に対する恐怖が強く、安定を求めていた。公務員になりたかった。
l 他人とどう話せばいいのか分からない。
l 発達障害のためにトランスジェンダーの自覚も遅れたし他者への伝達も遅れた
l 僕は絶対に大切なものは他人に見せないようにしている気がする。奪われたり否定されたりすると何年も、どうかすると一生その言葉で傷つき続けるって分かってるから。だから深刻な悩みも絶対人に言わないんだ。だからある意味女に生まれたのは良かったと思ってる。好きな人とか自分の性癖とか、絶対バレないから。女が女のフリしていたら周りは絶対女だと思うから。それが心地いいと感じている部分があるんだろうな。
l 京都から、重すぎて鞄を宅急便で送った。その鞄の中に入っていた牛乳を母さんに飲ませてお腹を壊したことがある。常温で3日くらい保存していたのだから飲んではいけないという事を忘れていた。よく考えれば分かる事なのに、その瞬間は忘れているという事が多い。それでしょっちゅう怒られる。殺人とか、そういう事をしないか怖い。
l 芸能界は分かりやすくて好きだ。みんなが自己顕示欲も闘争心も隠さず生きていて清々しい。こそこそ嫌味を言いながら「察しろ」と強要する日本の文化に馴染めない。でもきっと芸能人もそうなのだと思う。「あそここそ僕の居場所じゃないか」と思って行って拒絶されるのを繰り返している。京都もそう。古い伝統を大事にする芸術と文化と自由の町だと思って引っ越したのに全然違った。
l 「芸術」が好き。芸術とはひとつの社会批判だ。社会批判や思想、皮肉は好きだし理解できると思う。ただ綺麗なものを楽しむだけなは娯楽だ。芸術は思想がなければならない。と思う事にした。
l 父が死にそうな時、動画に残そうと思ってスマホで動画を撮っていた。僕はスマホを持っていないので母のスマホで撮っていた。でも、救急車をスマホで呼ばなきゃいけない事を忘れていて母が携帯をずっと探していて携帯を見つけるのが遅れて救急車を呼ぶのが遅れて父が死んだ。
l 収骨の時蚊がいたので殺そうと追いかけて収骨に遅れた。
l ナプキンをつける事を忘れてズボンが汚れないかいつも不安になる。生理痛もつらいので生理中は出掛けない。
l 車酔いがひどい。
l 血糖調節ができない。調べると「自家中毒」というのが発達障害だと起きるらしい。低血糖になると片頭痛になるのはこれだろうと思った。
l 血糖調節ができないのは発達障害にありがちらしい。
l とにかくシンプルになっていないと混乱する。だからすぐ捨ててしまい後悔する。すると今度は全部保管してしまう。
l はりまメンタルクリニックで「男性として生きていなければ許可できない」と言われた事を山崎さんに相談したら「発達障害に理解がないところで通用されるように努力すればいい」と言われて腹が立った。それで努力して通用するならなぜ発達障害は「障害」なのだ?なぜ僕は体を壊したのだ?なぜ偏差値65の大学に受かっても誰も認めてくれないのだ?殴れば良いのか?福祉は何の為にあるのだ?
l 「量」を想像する事が苦手だ。想定の10倍近く違う事が多い。必要だと思って買っても使わなかったり、要らないと思って買わなくて困ったりする。食事しなくていいと思い一日1食にして体を壊したり、炊飯器でどのくらい炊けばいいかが分からない。自分がどのくらい必要なのかが分からない。
l 男に生まれてたら友達たくさんできてたんだろうな 童貞陰キャキモオタ同士でつるんで女を罵って好きな女優の話して男だけで遊んだりしたかった人生だった 僕はその罵る対象の女なんだからもう死ねばいいじゃん。
l 「何をどう話せばいいか分からない」って言うのは、発達障害だからと言うより「どう思われるか怖い」「どう言えば否定されないか分からない」という意識の方が強い気もする。
l じゃがりこを母親にとられ、諦めたらあとから「もういらないからあげる」と言われて怒った。じゃがりこが食べられることより予定がころころ変わることがいやなのかな。て言うか母親の責任感の無さみたいなのが嫌なのか。
l 「相手の気持ちが分からない」のもあるけど、「相手の気持ちを忘れる」っていうのが大きいかもしれない。自分の名前すらときどき度忘れする。
l する仕事によって座る場所を変えないとその仕事が出来ない。その仕事をするためのワーキングメモリを呼び出すために座る場所とか部屋を変えないとできないという感じ。机がごちゃごちゃしていると多分何も進められない。
l 母さんが僕がやらかしすぎて最近叱るのをやめた。「死にたくなってきた」と言っているが僕はその気持ちが小学生からあるって言うのに。やっと分かってくれたのかな。
l 常に録音して暮らすのは誰にも理解されないから。
l 生きてる前提が違いすぎて、周りに冗談が通じないと感じる。薬学部で麻薬の研究をしてる友達に「ヤク中になったから?」って聞いたらブロックされた。ヤク中は身近な感覚がある。
l 幸せになりたくないと感じる。掃除をすれば綺麗になって気持ち良いのにそれをする必要はあるのだろうかと思う。自分が食事をしてると「食べる意味なんてあるんだろうか」と思う。生きていても意味などないから。幸せになる意味はあるのだろうかと思うことが多い。ただ与えられているから食べているだけで、自分から能動的に生きたいと思っていない気がする。それは「想像力がない」からなのか?だから一人暮らしの時食事をあまりとらなかった気がする。
l 世の中の発達障害の情報が明らかに「健常者目線」なのに違和感を感じる…。「想像力がない」とかいってお前らも発達障害の気持ち想像できないだろ。お互い様のくせに……そんな思いがあるからずっと謙虚になれないし、結局発達障害である自分に誇りを持ってるから社会でずっと軋轢が出るんだと思う。でもそれを「治療」したいとは思わないなあ…。
l 府中こころ診療所のデイケアでスタッフがひろゆきの事を「あの人なんてまさに(発達障害)って感じですよね」って言ってて「医療関係者の中では完全にひろゆきって発達障害なんだ」と思って、世間がいかに間違っているか実感した。
l 雑貨屋とかで何も買わずに出ると店先まで店員がやってきて「いらっしゃいませー」とか叫んでくる。万引きと思われてるな
l もうこのままずっと最底辺で社会を呪いながら死ぬのもいいかなと思えてきた、どんなことしても許されるんじゃないか?青葉真司みたいに。
l 発達障害なんだから、子供なんだからホルモン投与する必要はないってことなのかな。
l 他人が悪意を持ってることに気づけないことが多い。だからたぶん無視されるんだと今なら分かる。
l 「はい」「いいえ」で答えて誤解される事が多い。
あとは愛着障害の覚え書きも書きたいんだけど、なんだかそれだけすごくメンタルに来るからなかなか進まね~。。
パーソナリティ障害かあ…そこまでじゃないと思ってるんだけどなぁ…だって僕よりよっぽどパーソナリティおかしい人達普通に世の中にいるじゃん。「親が高齢だから育て方がシビアすぎただけ」だし。まあでも…それがストレスの根本原因なんだから…治した方が良いのか?う~ん、分からない…。一応感情ローテーションワーキング法で治せてるつもりなんだけどな。
最近思うんだけど、発達障害を開き直る父の生き方ってかなり難しいと思った。。僕には真似できないよな。だから昔考えてた「男になれば受け入れられる」とかは違くて、結局弱者男性である事は間違いなくて、友達も多分できない。ホモになるつもりはないんだからさ。
だから僕の中で性転換の動機が二律背反と言うか。「発達障害を開き直りたくて男になりたい自分」と、「筋力を手に入れて強くなって勝ちたい自分」がいて、その2つのジャンルを同時に満たす生き方はちょっと難しいって事だと思う。まあ、やってる人いるけどね…ヤンキーとか。もし僕男に生まれてたら少年院入ってたかもしんない。まあ今からでも刑務所入ったらカースト最下位だしなあ。あとは死んで終わりの人生だろうな。あ、でも男に生まれてたらこんなに社会嫌いじゃないか。友達いただろうし。
それでは、RMSSDの値がいつ計っても低いとまよこ りゃんシーでした。