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【歴史小説】天昇る火柱(5)「天女」


この小説について

 この小説の主人公は、赤沢あかざわ新兵衛しんべえ長経ながつねという男です。
 彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
 しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
 兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船からふねに乗って明国にまで渡ってゆきました。
 そして細川京兆家ほそかわけいちょうけ内衆うちしゅとなり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
 神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒たくぞうけん宗益そうえき
 その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元まさもとへの復讐に全てを捧げる驍将ぎょうしょう畠山はたけやま尚慶ひさよし
 弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

本編(5)

 天女が目の前で踊っている。
「夢ではない」
 と、新兵衛は口の中でつぶやいた。
 肩から掛けた羅紗らしゃ領巾ひれを翻し、くるくると回転しながら、肘、膝、手首足首の節を柔らかく折り曲げている。
 腰ですぼまった青い衣は、前合わせを黄色い紐で結んでいる。くるぶしで括った袴に、足元は裸足だ。
「あんた、惣領家の若党だろう」
 人いきれの向こうから、尖った声が聞こえてきた。頭に猪鹿蝶いのしかちょうの張り子を載せているのが見える。
 奈良か、田舎から来た者だろう。古市の郷民ごうみんならば、そのような呼びつけ方などできはしない。
「一番いい場所に突っ立ってないで、さっさと検断けんだんの役目に戻れよ」
 検断。
 そうだった。自分は仕事の真っ最中だ。
 が、もはやそんなことはどうでもいい。
 仮に鹿野園からどやされたって、澄胤本人に見限られるのでなければ、たかが知れている。
 惣社前の広場に掛けられた、五間口ごけんぐちの踊り小屋。
 薄暗がりの左右を、四本の篝火かがりびが照らし出している。
 四隅の円柱の下には、諸肌脱いだ楽人たち。
 馬頭琴ばとうきん龍笛りゅうてき摺鉦すりがね、鼓。
 不思議な音色だった。いや、その前に拍子が異常に速い。
 心をざわめかせるような、追い立てるような、それでいて身を委ねてしまいたいような、不思議な拍子だ。
 そんな音に乗せて、おのれの肢体をくねらせている女。
 いや、娘、と言っていいほどの年頃だ。
 唐草模様を透かし彫りした黄金の天冠に、紫桔梗ききょう挿頭かざしにしている。肌は日焼けしたように浅黒く、紅を刷いた瞼は眠たげなほど厚い。にもかかわらず、その下の瞳は満月のように大きく明るかった。
 細い腰が、寄せ返す波のように揺れている。
「夢ではない」
 新兵衛はひとりで繰り返した。
「あんた、ちゃんと入り口で五文払ったのか?」
 やっかむような怒声。
 周囲では、異形の仮装をした者たちが、汗で濡れた肌を押しつけ合っている。
 頭にかづき物だけを括りつけた連中。しゃちうさぎ百足むかで、花笠、ただの木桶。
 総身を紙の作り物ですっぽりと覆い尽くした連中。赤い甲冑、五条袈裟げさ、獅子、雪丸、鷺舞さぎまい
 誰もが目の前の天女の舞に目を奪われている。恐らくは、心さえも。
 ぬめぬめとした感じが、二の腕を舐めていく。肌着の内では、また新たな汗が吹き出して脇腹を伝っていった。
 舞台の上から、天女がこちらへ腕を差し伸ばしてくる。小さなすももを思わせる唇がほころび、こちらを誘うような妖しい微笑みが……

 七月十六日。
 年に一度の、盂蘭盆会うらぼんえ風流ふりゅうの夜だ。
 古市の念仏風流は、昔からかなり盛んだという。大和国一の賑わいを誇り、学侶六方ろっぽうの指図がうるさい奈良よりも、よほど多くの人々が集まってくる。
(それでも、西方様が惣領だった時分と比べたら、比べられんほど大人しくなったもんですが)
 と、猿丸は話していた。
 西方胤栄は、文雅の人だったという。幼くして和歌や漢詩をものし、茶の湯をたしなみ、長じては風流に才を発揮した。それが古市を、南都に伍すほどの文治の郷にした。
 しかし一面で、戦には弱くなった。
 だから一時は、筒井に大和の覇権を奪われたのだ。
 あとを継いだ澄胤は、文弱の都と化した古市を好まなかった。
 いくつかの趣向が、澄胤の手によって中止された。林間の風呂、連歌会れんがえ唐物からものの品定め。代わりに愛したのは、博打、馬、合戦だった。
 ただ茶の湯だけは別だった。澄胤自身が、珠光じゅこうとかいう貧乏坊主に師事し、「び茶」に傾倒していたからでもあった。
 もう一つ廃せなかったのが、盂蘭盆会の風流である。
 澄胤自身は、風流の踊りや仮装をひどく嫌っていた。が、それでも郷民たちにやめさせることはできなかった。せいぜいが、元六方衆らしく質素倹約を訴えるばかりだった。
(あの時候だけは、わしは絶対に本貫へ帰らん。鼻から息を吸うだけで、胸糞が悪くなる)
 などと放言して憚らなかった。

「あたしの家へ行こう」
 と、天女は言った。
「家があるのか」
 新兵衛は、おかしな尋ね方をしていた。今生きているのなら、誰にだって住む家くらいはあるものだ。
 手を引かれるままに、ただあとへついていく。
 の初刻(午後十一時)を回っても、人出は引きも切らない。
 宮の脇から垣内の辻子ずしを進みながら、すれ違う人波と肌をすり合わせてゆく。篝火の赤い光に、笑った歯がぼんやりと浮かび上がっている。
 娘は舞台がはねたあと、月白げっぱくの小袖に着替えていた。薄雲のかかった十六夜いざよいの月が、地上に映っているようだった。
 解いた髪は縮れ、肩の上で跳ねている。細身には不釣り合いなほど大きな尻が、はち切れんばかりに震えている。
 やがて立ち止まった娘は、こちらを振り返った。試すように微笑んでいた。それもそのはずだ。
「うちじゃないか」
 新兵衛は、思わず声を上げた。
 正しくは、楠葉元次の家だ。その離れに居候している。もっとも主人は全く帰ってこない。木津の鹿背山城にいるのか、あるいは京にいるのか、古市の誰にもわからなかった。
「ここは元、あたしの家」
 かんぬきのない腕木門うでぎもんをくぐり、庭を横切ると、沓脱からずかずかと濡縁ぬれえんへ上がっていった。
 離れの板間の明かり障子を開け放った。床に月の明かりが差し、墨絵の軸を照らし出していた。
「これは、お母さんを描いた絵」
 敷居のところで指差してみせたが、既に笑ってはいなかった。猫のような上目が、まっすぐにこちらを見返していた。
「あたしの名は、楠葉藍紗あいしゃ
「やっぱりそうだったのか」
「やっぱり?」
「俺はこの絵を始終見ていたんだ。見間違えるはずもないさ」
 娘は板間の内へ入り、しとねのところまで歩いていった。新兵衛もあとについていくと、娘はふいに帯を解き、はらりと小袖の前を広げてみせた。下着は何もつけていなかった。やはり大き過ぎるほどの胸乳むなぢが、やっと解き放たれたとでも言うように、ぷるんと飛び出してきた。
 月明かりの下でも、その乳首の色の淡さははっきりわかった。
「赤沢新兵衛。あなたは兄宗益の軍勢を、この古市まで連れてくるのよ。そして西方胤栄様を、もう一度この郷の惣領にして差し上げるの」

                           ~(6)へ続く

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