見出し画像

人間やめますか、お酒やめますか、日本廃人紀行、

八月五日

貴族の戦争の基本は、つまるところ剣術である。この種の対決においては、武器は腕の延長であり、武器の殺傷力は戦士の技と気力とに依存している。もちろん、いろいろな武器がつぎつぎに現れて、弦の張力や火薬の爆発といった外的力により、離れたところから人を殺すことが可能になった。しかしこれらの武器は後に不承不承採用されるようにはなるものの、それまでは軽蔑され、あるいは禁止されていた。ともかく、これらは下衆の武器、徒歩で戦うものの武器であった。

ロジェ・カイヨワ『戦争論 われわれの内にひそむベローナ』第三章 銃砲 歩兵 民主主義(秋枝茂夫・訳 法政大学出版局)

午後十二時六分。紅茶、ゴマ豆乳ドリンク。休館日。キーボードが以前のものより小さいので打ち間違いが連発。イライラする。自分の手の大きさのことをもっと考慮にいれたほうがよかったのか。いまに慣れることを祈る。靴を変えると最初は違和感を覚えるものだ。いまスポティファイでビートルズを聴きながら書いているのだけど、そうするとやや言葉が出にくくなる気がする。文章を書くのに費やすべき「認知リソース」が音楽を聴くほうにも振り分けられてしまうからなのか。こんな愚にも付かない雑文を書くのにもそれなりの「集中力」が必要なのか。いま俺は「夏休みの午前中」的穏やかさのなかにいる。といってもそこには「夏休みの友」もなければ自由実験もない。絵日記もないし工作もないしラジオ体操もない。世の中ついでに生きている(五代目古今亭志ん生)という感が半端ない。いったいこの日本で世の中ついでに生きている人間がどれくらいいるだろう。誰かにせっつかれているような顔ばかりじゃないか。凡庸な生活者たち。宇宙自体にはそもそも目的はない。原子はただそこにそのようにあるだけだ。人体を構成する一つ一つの原子の無意図性に俺は憧れる。どうやら今日はポエムの日みたい。もともと俺とポエムとの親和性はかなり高い。油断すると感傷まみれの甘ったるい言辞を垂れ流してしまう。学生の頃はそんなのばっかり書いてた。俺はいつも頭が疲れている。生きるのに向いてないんだよ俺は。人間に関する一切のことがバカバカしくてならない。パレスチナでのあんな虐殺の一方でメダルがどうだとか盛り上がっているふりをしている連中を見てるとゲロが出そう。鏡を見ているようだ。人間はもう救われないだろう。そんなこともうみんな分かってる。どいつもこいつも死に損ないだ。自分が死に損ないだと気づいていないやつがいるとすればそいつこそが死に損ないの親玉だ。内省。いま俺が自分にも他人にも求めたいのはこれだけ。内省は暴力を退けられるだろうか、という問題はさしあたりどうでもいいのだ。ただ生存し続けていることの暴力性を認識しなければならないのだ。生きていてもいいですか、と誰もが自分に激しく問わねばならないのだ。恥を知ること。内省とは恥を知ることでもある。さくやペットボトルのトリクラをぜんぶ飲んだ。ブランクがあったからかやや悪酔いした。でも吐かなかった。今日からはとうぶん飲まない。あんな基地外ドリンクをまいにち飲むことの愚劣さに俺はようやく気が付きつつある。酒なんかに月何千円も使うのは紳士にふさわしいことではない。そんな金があれば岩波文庫の新刊にでも使えよ。ところで『失われた時を求めて』をさいきんはぜんぜん読んでいないな。なんか知らんけど気が向かないの。死ぬまでに読めるの? そういう本もあっていいんだよ。読書は快楽であるべきで、快楽のない本は読むに値しない。アルフォート食べたい。セナ様に抱かれたい。セナ様に抱かれた瞬間、この悪夢の宇宙史は終わる。あじゃっぱー。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?