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酒を飲まなくても生きられるのは「健全」なことなのか、

八月八日

進歩していく人間社会にとって、解決すべき問題の一つは、獲得したものの保全である。発明されたものは、場合によっては後続世代の手で拡張・拡大されるわけだが、そのためにも、まず、その後続世代に継承されることが先決だ。一方、文字表記は、その本質において、知識を固定する技術であり、これによって人間社会は、記憶内容の口頭伝達にともなう不確実性を免れる。

エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上 アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか』第5章 ドイツ、プロテスタンティズム、世界の識字化(堀茂樹・訳 文藝春秋)

午後十二時三〇分。納豆ご飯、紅茶。暗愁が飽和している。このごろサザンの「冷たい夏」が頭を離れない。脛毛をぜんぶ剃ろうか、それとも陰毛をブリーチしようか、あるいは革命でも起こそうか。三日ほど酒を飲んでないけどあんがい平気だ。読書の質が上がったし量も増えた。いままで酒を飲まずにはいられなかったのは酒を飲んでいたからなんだな。俺が酒を欲していたのではなくて酒が酒を欲していたんだ。酒を飲まないでも生きられる人たちをあんなに罵ってしまったことをいまは後悔している。鈍感なのはオイラの方だった。自分が病気でありながら病気でない人たちをバカにするのは俺の本当によくない癖だ。たぶん俺が喫煙者だったら非喫煙者をボロカスに言ってるだろう。開高健がこんなことを書いている。

いまさらいうまでもないことですが、人間には〝ないものねだり〟という欲望があります。この欲望はたいへんつよいものです。とりわけ男にはこの欲望がつよい。お金がほしい、傑作を書きたい、スゴい筋肉美になりたい。この欲望は、そういうわけで、千変万化します。がこういうことをつづめてみて一言でズバリというなら、すべて『自分以外のものになりたい』ということではありませんか。
そう。
『自分以外のものになりたい』
コレです、男がお酒を飲みたがるのも。

『孔雀の舌 開高健全ノンフィクションⅣ』Ⅴ(文藝春秋)

酒を飲まないでも生きられる人間は大なり小なり「いまの自分」に満足しているんだな。良くも悪くも「自分はとっくに生に飽きている」ということに気が付いていないんだな。その点ではやはり「倒錯的」ではあるのだろうけど酒を飲むことでやたら「自分以外のもの」になりたがるよりは「倒錯的」ではないとは言える。酒飲みに欠けているのは「健全な鈍感さ」なんだろう。むろん友達になりたいのは酒を飲まない人間よりも酒を飲む人間のほうなんだけど。だいたい「いまの自分」でいることに平気な人間なんてきっとろくな奴じゃない。駅のホームで電車に飛び込みたい衝動に駆られたことがないような人間だろう。いつも死にたくてしようがないような人間だけが「まとも」に見える。暗くなければ人間ではない。抑鬱でなければ人間ではない。いつも死にたい死にたいと呻きながら生きている人間以外に俺は興味がないね。生の九割九分は苦痛なんだから。というかぜんぶ苦痛なんだ。《一切皆苦》。私にも私以外にも希望などありはしない。それゆえ絶望もない。ただ一面の倦怠。五億年後も五十億年後も「このような意識」が存在しているとしたら。「世界」は「不変」だ。結局は何も起こらない。自覚のあるなしにかかわらず衆生はこの倦怠に苦しんでいる。「生」とはいつまでも倦怠に苦しむことなんだ。この苦しみの「無益さ」を悟った瞬間、君は発狂するだろう。きょうこのあとどうしようか。文圃閣にでも行きたいのだけど。とりあえず洗濯してそれから考えようか。汗だくのセナ様に抱かれたい。セナ様になら何をされてもいい。パイロットのボールペンで目を刺されてもいい。時間よ、服を脱げ。

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