『ミッドナイト・ブルー 茜編』11章
11章 シヴァ
朝起きると、茜はお気に入りのエプロンをかけ、いそいそと朝食の支度にかかる。これまでは料理用のアンドロイドの仕事だったが、ショーティの考えで、朝と昼は、茜に作らせることになったのだ。
「料理をすることは、いい勉強になるはずだ」
そして、茜に馬鹿にされたくない俺もまた、一緒に厨房に立ち、手本を見せる羽目になっていた。
これでも子供時代に、一応の基本は仕込まれたのだ。上手くはないが、野菜は切れる。林檎の皮も剥ける。濃縮スープにミルクを注いで温めることも、ハムエッグやパンケーキを焼くこともできる。
カレーやシチューなら、材料をぶち込んで煮ればいいのだから、俺たちのような初級者向きだ。
半熟卵のつもりで固ゆでにしてしまったり、コーヒーが濃すぎたり、油はねで軽い火傷をしたりと、毎回ドタバタはするが、何とか食卓の格好はつけられる。
努力した分、食うのにも感激がある。焦がしたパンケーキを前に、茜と顔を見合わせて苦笑することもある。
その一方で、本格的な勉強も始めていた。茜に学者レベルの教養を求めるつもりはないが、辺境の宇宙で生きていく以上、理工系の大学卒業程度の知識や技術は必須である。
「いいか、今日は一次関数のグラフを描くぞ」
方程式、不等式、幾何学、確率、数列。
教えなければならないことは山ほどあるが、一日に進むのは、ほんのわずかな範囲だけだ。一気に欲張ると、茜が混乱する。
この調子でいくと、微分と積分、三角関数と複素関数に行き着くのは、何年先か。オイラーの等式の衝撃的な美しさも、その頃にならなければわからない。
主要な星系や違法都市の銀河座標も知る必要があるし(茜は直交座標は知っていたが、極座標の理解には苦労した)、身の回りの物質の化学式も必要だ。酸素と二酸化炭素、鉄とアルミの区別がつかないと困る。
真空とは何か。慣性とは何か。重力、遠心力、電磁力、核力。
気圧の差が、エアロックでどういう現象を引き起こすか。遮蔽のない場所で恒星からの放射線を浴びると、人間はどうなるか。
陽子、電子、ニュートリノ、反物質。人体の構造と機能。細胞と遺伝子。細菌とウィルス。
茜はよく努力した。俺の命じた計算練習をこなし、重要事項をノートにまとめて暗記する。
一区切りついたら、俺がテストする。合格しなければ、二度、三度と繰り返す。
最初のうち、俺の説明が理解できなかったり、解答ミスを指摘されたりすると、うつむいて、ぽろぽろ涙をこぼしていたが、やがて、間違えてもいいのだ、とわかってきた。
俺もショーティも、そんなことでは怒らない。こちらだって、新米教師なのだから。
注意されたことは、よく守る。明日までにこのページを暗記しろと言えば、懸命に練習して覚えてくる。
つまりは、人間の命令に従うよう、育成されているからだ。まずは、その特性を利用させてもらおう。
むろん、将来的には自立的な判断力を持つべきだが、今は基礎段階だから、こちらの指示に従うだけでいい。
休憩時間には、ジムに行って縄跳びやボール遊びをしたり、俺と一緒にケーキを食べたり、積み木で遊んだりする。
折り紙で鶴を折るのは、ショーティにはできない。ざまあみろ。
もっとも奴は、茜の投げたボールやフリスビーをキャッチするのはうまい。
また、中央のニュース番組を見て(市民社会の通信網と辺境の通信網は、あちこちで非合法につながっている。軍や司法局が接続を断っても、すぐに別の場所で接続されるいたちごっこだ)、植民惑星で行われる季節の行事や、子供たちが通う学校のクラブ活動などについて、ショーティに解説してもらうこともある。
中央に行ったこともないくせに(俺だってないが)、知識だけはある奴だ。
昼間、そうして目一杯張り切っている分、疲労も深いのだろう。茜は夜、枕に頭を載せると、俺が広げる絵本を前にしても、ほんの数ページ分の読み聞かせで、ぐっすり寝入ってしまう。
手間が少ないのは助かるが、
(せっかく熱演しているんだから、もうちょっと聞いてくれんかなあ)
と残念に思うこともある。
一族の連中が見たら、目を疑うだろう。この俺が、『美女と野獣』だの、『竹取物語』だのを、真剣そのもので読んでやるなんて。
しかし、茜がそれを楽しみにしているうちは、続けるしかない。勉強と経験を積んで、精神年齢が上がらないことには、『やらせていただく』ことはおろか、キスの一つもできないからだ。
額に軽く『お休みのキス』ならともかく、舌を使うようなやつは不可能だろう。茜が泣いてショーティに訴えたりしたら、俺の立場がない。
そういう騒ぎにならないよう、俺は俺なりに気を遣っていた。用があって茜の部屋を訪ねる時は、入っていいか許可を求める。手狭な厨房でぶつかりそうになったら、俺の方が場所を譲る。
肩や背中であっても、気安く触れたりしない。間違って襟元から谷間が見えてしまったら、その幸運に感謝してから、黙って目をそらす。
〝本物の女〟が相手なら、当たり前の作法ばかりだ。
しかし、最初のうちは、どうしても俺の頭に、
(こいつはまがい物)
(安物のセックス人形)
という差別意識が残っていた。それが言動の端々に出ていると、ショーティから何度も厳しく注意された。
「茜を、卑屈な奴隷のままにしておきたいのか? それとも、本物の淑女に育てたいのか?」
「何かを始めたら、とことんやり遂げるのが、きみの数少ない取り柄ではなかったのか?」
腹も立ったが、理屈では奴に勝てない。自分で気をつけて、
(お嬢さま扱い、お嬢さま扱い)
と唱えているうち、気分が変わってきたのだと思う。
(どこかから預かって、育てている娘)
という感じになってきた。そもそも昔の人間は、子供を『天からの授かりもの』と言っていたのではないか?
運動も大切だ。勉強の合間には、一緒に円周通路をぐるぐるジョギングしたり、ジムでトレーニングマシンの使い方を教えたりした。
茜の希望で、フェルト布を使った縫いぐるみの熊さえ作った。この俺が、針仕事!!
茜の作った熊は表情が可愛く、俺が作った方は不貞腐れている、とショーティが床を転げ回って笑ったくらいだ。
しかし、茜が両方揃えて棚に飾ってくれたので、まあいいことにする。何度も針を指に刺した甲斐がある、というものだ。
やはりこれは、俺の方が〝調教〟されているのだろうか。
(いつまでも、無頼を気取っていることはないだろう。家庭的な方が、ずっと楽ではないか)
とショーティは思っているのかもしれない。
別に〝孤高の一匹狼〟のつもりはないのだ。ただ、ショーティの他には誰も味方がいない日々が長かったので、つい疑い深くなり、肩に力が入ってしまうだけのこと。
しかし、茜のおかげで笑う回数が増えた。そうすると、無駄な力が抜ける。
これは、いいことなのかもしれない。俺は武道の修業もずいぶんしたが、本物の達人は柔和で、水のように静かだというからな。
***
そういう船旅のある朝、食堂のテーブルに花が飾られていた。白い一重の花と、濃いピンクの八重咲きの花が、堅い緑の葉を茂らせた枝についている。
この船内に花とは、珍しい。というか、初めてかもしれない。
これまでは、料理に使うハーブや柑橘類を、ショーティがささやかな温室で育てているだけだった。
茜は既に朝食の支度にかかっていて(ここ何日も、俺より早く来て準備をしているので、俺のすることがあまり残っていない)、ジャムの瓶やサラダボウルや取り皿を並べていた。教養のあるところを見せようとして、
「椿だな」
と断定したら、
「山茶花だ」
と犬に訂正された。
――くそ。似たようなものだろうが。
憮然としながら席に着いたら、向かい側に座った茜が、にこにこして白いカードを差し出してくる。何だろうと見てみたら、子供が描いたようにぎこちない、しかし、赤い薔薇とわかる花の絵が四隅にあった。中央には、練習したらしい丁寧な文字で、
『シヴァ、お誕生日おめでとう。茜より』
と書いてある。俺は驚いて、横の床に寝そべる大型犬を振り向いた。
「おまえが教えたのか!?」
誕生日を祝福されたのは、十八歳の時が最後だ。それから今日まで十数年、そんなものは忘れ果てていた。ショーティだって、これまでは無関心だったくせに。
「茜が映画を見て、誕生パーティとは何か、質問してくれたのでね。今度から、順繰りに祝うことにした。シヴァ、誕生日おめでとう。きみも、茜にお礼を言いたまえ」
茜が尋ねたから!? そんな理由で!?
まあいいが……つまり、それが〝文化的な生活〟なのだとショーティは思ったのだろうから……しかし……三十代半ばに来て今更……
ああ、そうか。
俺やショーティはともかく、茜については、誕生日というものを祝ってやらなくては可哀想だ。ケーキを焼いて、年の数だけ蝋燭を立てて、プレゼントを用意して。
しかし、バイオロイドの誕生日というのは、どうやって決めればいい!?
培養カプセルから出された日のことか!? それとも、工場から出荷されて、買い手に引き渡された日!?
そんなもの、本人にだってわからないだろうに。
とにかく俺は、茜に向き直った。顔がひきつりそうなのをこらえ、何とか言葉を探し当てる。
「ああ、その……この薔薇、よく描けてるな。綺麗だ。字も上手だ。ありがとう」
しかし、ショーティが尻尾をはたはたしている。長い付き合いなので、俺との間では『尻尾サイン』が出来上がっていた。これは、否定の振り方だ。何かが足りないのか。
「ええ、その、そうだ、額装して、俺の部屋に飾っておこう。来年もまた、こういうカードをくれ。これから毎年ずっと、おまえのくれたカードを飾っていくから」
ようやく、尻尾がOKの振り方になった。茜も満足そうに、にこにこしている。まったく、子供をおだてるのは大変だ。
朝食は、特にいつもと変わった料理ではなかったが、茜の淹れた紅茶は俺好みの濃さで、美味かった。
初冬の花を飾った食卓には、バターとジャムを添えたトースト、スクランブルエッグ、厚切りのハム、焼いたトマト、それに蒸したキャベツにアンチョビをからめたサラダが並んでいる。
茜も最初の頃よりずいぶん手際がよくなったので、ほとんど俺の助けを必要としない。むしろ、俺がのそのそしていると、邪魔になる。たぶん、料理に適性があるのだろう。
「後で、ケーキを焼くのに挑戦する予定だ。うまくできたら、蝋燭を立てて、今夜の食卓に出そう」
所定の位置で骨をかじっていたショーティが、生徒を誇る教師の口調で言う。
嘘だろう。この俺が、口をすぼめて蝋燭を吹き消すのか。どっちを向いていいやら、わからん。
しかしショーティは、これも茜の情操教育、と考えているらしい。これから一つ一つ、文化的な要素を生活に組み込んでいくつもりらしいのだ。
「わたしの場合、母犬から生まれた日付がわからないので、シヴァと出会った日が誕生日でいいと思う。茜の場合もやはり、誕生の経緯がわからないから、きみと会った日でいいのではないかな」
茜はにこにこして聞いているが、俺は冷や汗がにじんだ。そんな日を記念日にしたら、茜は毎年、いやでも、出会いの状況を思い出してしまうではないか。今となっては土下座して、
『忘れてくれ』
と頼みたいくらいなのに。
「そういえば、なんでいきなり、花があるんだ」
と苦しまぎれに尋ねたら、ショーティは自慢げに種明かしする。
「茜のものを買い入れた時、一緒に注文しておいたのだよ。これからは、花を飾る機会もあるだろうと思ってね」
ほう、そうかい。
「切り花では保たないので、鉢植えで色々と買って、温室で育てている。いずれ、茜に余裕ができたら、世話を任せることにしよう」
つまり、茜がこの船に来た時から……いや、時間的に考えれば、それ以前、俺が茜を連れて車に乗ったことを知った時から、既にそこまで気を回して、あれこれ準備していたのか。
恐るべき周到さだ。こいつ、もしかして『赤毛のアン』や『足長おじさん』が愛読書だったんじゃないか!?
「わたしもこれまで、記念日を祝うとか、花を愛でるとかいう心の余裕がなかったが、これからは、女の子がいることだしね。今度、違法都市に寄港したら、きみの好きな花も買ってあげよう」
すると当の〝女の子〟は、張り切った様子で手をひらめかせる。
「ありがとう、嬉しい、という意味だよ」
数日前から、アニメの手話講座を見せて、練習を始めているという。
「最初は、アンドロイド兵に手本を演じさせようかと思ったのだが、茜にとっては不気味だし、楽しくないだろう。オーバーアクションのできる、可愛い絵柄のアニメの方が効果的だとわかった」
いやな予感に打たれた。犬なら、尻尾を巻き込みたいところだ。しかし、茜が期待顔でこちらを見ている。
「……俺も、覚える必要があるんだな?」
「その方がいいね」
という、あっさりした返事。
「明日から、きみも一緒に授業を受けまえ。わたしが試験をして、覚えたかどうか試すから」
大変なことになった。
まさか、そんなものを覚える羽目になるとは。
だが、考えてみれば、茜とショーティの間でだけ話が通じて、俺は置き去り、というのは悲しい。茜は筆記ができるとはいえ、常に筆記用具があるとは限らないのだから。
皿の上の料理が片付くと、茜が果物ナイフを取って、俺の好きな洋梨を剥いてくれた。まだ達人のナイフさばきとはいかないが、子供としては立派なものだ。一個の三分の二を俺が食べ、残りを茜が取るという分け方も、お決まりになってきた。
「ケーキを焼くと言ってたな。俺も手伝うか?」
と尋ねたら、茜は手を前に出し、首を横に振って、制止の身振りをする。自力で挑戦するつもりらしい。
「じゃ、頼む。少しくらい焦げても、崩れても、ちゃんと食べるから」
茜は嬉しそうな顔になって、大きく頷いた。こちらもつい、幸福な気分になって、言ってしまう。
「おまえの誕生日の時は、俺がケーキを焼こう」
まあ、練習すれば、何とかなるだろう。それまでにはまだ、一年近い猶予があるのだから。
すると、茜はショーティを振り向いて、何か自慢げに身振り、手振りをしてみせる。
(聞いた? 聞いた? いいでしょう!!)
と言っているように思える。俺の方がこそばゆくて、きまり悪くなるくらいだ。こんなことで幸せになれるなら、俺にだって、してやれることが山ほどある。
他のバイオロイドたちを助けてやれない分、せめてもの罪滅ぼしという気もあった。
娼婦だけではない。兵士として使われるバイオロイドの男たちも、また哀れなのである。五年が過ぎれば、次の世代の兵士たちの前に突き出され、射撃演習の的にされるのだから。
ただ、それでも彼らには、同じバイオロイドの女たちを餌食にする、という共通項がある。
結局は、バイオロイドの女たちが一番の弱者なのだ。人間の男からも、バイオロイドの男からも利用されて。
その後、勉強部屋に移動し、いつも通りの計算練習をさせながら、俺は茜のくれたカードを眺めていた。自分が子供の頃は、一族の大人たちから、誕生日の都度、贈り物をもらっていた、と思い出す。
中央で流行りのスポーツ用自転車、特注のオフロード用バイク、プロ仕様の工具一式、アーチェリーやダーツの道具、翡翠のチェス盤、大型のサバイバルナイフ。
だが、この稚拙なカードほど、思いのこもった品があったかどうか。
ショーティに指導されてカードを仕上げる間、茜は一心不乱だったに違いない。たぶん来年は、絵も字も、大きく進歩しているはずだ。毎年、カードを壁に飾っていったら、いつか茜が笑い崩れるに違いない。
――いやだわ、わたし、こんなもので得意になっていたのね。恥ずかしいから、もう引っ込めて。
だが、これは、大人には描けない貴重な作品だ。これをもらっただけで、この宇宙における自分の存在も、無駄ではない、と思えるではないか。
『ミッドナイト・ブルー 茜編』12章に続く
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