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浮き草のようなわたしを捕まえてくれた緊縛

誰のことも所有せず、また、自分自身も誰にも所有されずに生きる。
それは、とても自由なようで、肉親や友だちなど、頼る人の全くいない土地でひとりでいる場合には、ある意味過酷な状況と言えます。

自由には二つの要素があると、わたしは思います。一つは自由になることそのもので、もう一つは、そうして手に入れた自由でしたいことをすること。その二つはセットで、片割れがないのなら、せっかくの自由が眠ってしまうように思うのです。

果たしてわたしは、自由になる為に、元いた場所を飛び出しました。目の前の大海原にビビりながらも、手を引いてくれたひとのおかげで。

でも、解き放たれても、自由を活かしきれていなかった。幸せになる為の選択だったのに、チケットだけ、自由だけが手に入った状況で、浮き草のような寂しさや心細さを感じていました。

所有されたくない。制限されたくない。だから、飛び出したのに。
戻りたくはない。でも、責任を分かち合う夫婦という役目を降りてみたら、自由ではあってもとても頼りなく、夕暮れ時に、帰る家を無くした子供のような心細さがありました。

私が望んだ自由って、この社会で生きていくには少し、過酷なのだな…。 そして、同時に、人は、ある程度縛られる(所有される)ことで、安心感も貰っていたのだなと感じました。

そうして、その後の新たな出会いを迎える前には、程よく縛られることへの憧れを、わたしは抱き始めていたたのではないかと思います。

物理的な話になりますが、その後出会い、今、お付き合いをしているひとは、緊縛と言って、セックスの時、身体を縄で縛ってくれます。緊縛は、芸術的な見方もありますが、セックスの楽しみ方の一つだと、わたしは思っています。

初めて縛ってもらったとき、わたしは、ロープが体に巻き付くのが楽しくて、うれしくて、出来上がってくるのを、わくわくしながら見ていました。

ロープで縛られた身体は胸が強調されて、それはいやらしいのですが、でも、それだけではないのです。

「縛られたい」という願望は、「相手に委ねたい」という気持ちであり、それはそのまま、甘え方の一つだと、わたしは思うのです。

縛って貰うことで、選択肢は一つになります。即ち、相手に委ねる他ないのです。強制的に甘えられる(甘えることを許される)状況を作り出す。また、その上で可愛がって貰える状況を作り出す。

縛ってもらっている間は、浴衣を着せて貰っている子供のように、
頭を抱えて寝かされるときは、無力な赤ちゃんが親に委ねるように、わたしは思い切りその人に甘えているのです。

そうして、それに応えてくれるように、その人が私に代わって察し、対処してくれる。緊縛自体はSなのに、自分に向けられる気遣いや労りを垣間見て、なんとも言えない幸福感を貰っているのです。

それは、縛る人に一任するものですが、そこに不安はありません。誰にでも抱ける気持ちではないはずですが、わたしは何故か知り合って間もないその人をセックスにおいて信頼しています。

委ねた人から労りを感じることで、その人との幸せな繋がりを感じ、心が満たされるのです。

私にとって、緊縛は、単なるエロや快楽の追求だけではなく、浮き草のような、わたしの頼りなさを受け入れ、安心感を与えてくれるもの。

だから、Dear
わたしにとって、緊縛は、初めて縛って貰った日からいつだって、「親愛なる」なのです。

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