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僕は今芸術文化の終わりに直面しているのか【万年橋パークビルへの想い】

追記 (2021年10月6日)

沢山の反響感謝の心があふれてくる。その後の進展を書きたいと思う。展覧会や今後の活動についてメンバーや黒板とキッチンを運営してきた人たちともう一度しっかりと話し合いを行った。僕たちは何を目指すべきかを。

結論から言おう。万年橋パークビルにもう一度訪れるきっかけを作ることになった。まだ来たこともない人もいる、その人たちがここにきて楽しい場所だと思ってもらいたい。楽しくワクワクするようなイベントを企画してこれまで通りの場所を最後まで目指すことになった。今の状況を知ってもう一度訪れた人に、何か参加できるようなイベントをつくりたい。

むろん、新しい代表取締役とはしっかりと話をしていきたいと思っている。これまでは怒りがあったのは確かだ。しかし、今は反省している。今一度冷静になって何ができるか考えている。また、相手の気持ちもしっかりと考えていきたい。今はまだディスコミュニケーションの状態だが話をしていきたいと思っている。そうすればきっと何か良い方法を見けれるのではないかと思って。

今浜松にある一つの自由が奪われようとしている。

 浜松の芸術文化を育み様々な人材を多数輩出した、万年橋パークビルが変化を迎えている。

 僕はその終わりとも思える変化に立ち会っている。僕はこの万年橋パークビルの6階を借りて仲間と共に運営しているが、まさに直面したこの変化は決して他人事ではない。すべての芸術文化を育んでいる施設に起こりえる出来事であると思っている。ここで先に謝っておきたいことがある。僕は前線で立ち向かっている人に比べたら部外者のような存在だ。この記事も人から聞いた話や過去の少ない資料から推測したことが混じるかもしれない。長い歴史で見たらほんのわずかの事しか知らないのだ。間違っていたら申し訳ない。しかし、それでもなお今思うことを少しでも多く書き留めて起きたいと思う。それは、これからの芸術文化を担う施設のためにも、担うこれからの人のためにも同じ轍を踏むことにならないことを願って。

浜松の文化拠点

 万年橋パークビルは東海道の通るゆりの木通り商店街に面した立体駐車場とオフィスを備えた施設だ。ここの特徴はその自由な運営にある。(あると書いたがあったというのが正しいかもしれない)。もともとの代表取締役の意向もあり万年橋パークビルでは様々なイベントや面白い試みがなされてきた。一階には『黒板とキッチン』というサードプレイスとして使われている場所が存在し、駐車所の7階には工房として使われていた『CUBESCAPE』という施設や、駐車場8階には『hachikai』と呼ばれるフリースペースがあるなど様々な方法で利用できる。

 この万年橋パークビルで行われたイベント数の記録がある。今手元にある資料によれば2007年から2018年まででイベント数は650を優に超える。これ以外にも企画未満に終わった数多くのイベントがあったはずだ。

 ここでは、日々様々な企画が誕生し行われてきた、公立の施設でもなければ学校でもない。にもかかわらず芸術や文化の力を信じここを運営してきた人たちの力によってこれほどまで実績を残してきたのだ。地域活性化といったら安直かもしれないが、街の人の心に寄り添ったヒューマンスケールで街の活性化に寄与していたのだ。ここまでくれば、浜松の文化拠点と名乗っても何ら遜色はないだろう。

変化は突然に始まった

 万年橋パークビルの変化は代表取締役が変わってから急激に始まった。7月下旬万年橋パークビルの代表取締役が変わった。当時の僕たちは自分たちの使っていた万年橋パークビル6階の今後がどうなるかなど全く考えていなかった。当時、施設の有効活用の為に同じオフィススペースの7階に引っ越しが決まっていた。僕たちは様々な学生団体にいろいろな利用を呼びかけて使ってもらっていた(例えば、ラグの製作、ユニドルの稽古、演劇の稽古、会議、映像撮影などなど)そしてそこから使用法を見極め、そのあと引っ越しを行い、できれば模様替えもしたいとだけ思っていた。というのも、先代の代表取締役からはこの空間を1~2年は自由に使っていいと伺っていた。今はコロナでオフィス需要も少ない、ならば学生が自由に使ってもらい楽しいことをしてもらう方がよいと、タダで貸していただいていたのだ。僕たちはその言葉からこれからもまだ自由に使えると本当に思っていた。

 8月、夏休みに入った頃に新しい代表取締役と今の万年橋パークビルの管理をしている方との間でうまく話が進まない状況になっていったらしい。僕はその時、管理をしている方から早めに引っ越しを行って僕たちの空間を確保してほしいと伺った。夏休み僕たちは自分たちの空間を完成させることに決めた。そして、新しく移る7階について様々に考えをめぐらし『きっかけの場になる』ことを目標に整備することを決めた。ここでのきっかけの場というのは、先代の代表取締役の言葉からも強い影響を受けている。先代からは、自分たちの為に活動をしてほしいといわれてきた。というのは、街のためや商店街のためと、最初から社会的な価値のあることを考えている人のアイデアはどうしても狭くなってしまう。そのために全国的に見たら数ある商店街の中でもこのゆりの木商店街が面白いと思ってもらえる活動は生まれにくい。それなら、自由に活動してもらいどこにもないオリジナルの活動をしてもらう方が為になると考えておられたのだ。僕たちはそれを受けて考えた。その結果生まれたのが先ほども言った『きっかけの場になる』という目標だ。これは、万年橋パークビル7階を通して様々な人が出会うきっかけの場、様々な企画が生まれるきっかけになる場、自分自身の将来を考えそれに気づくきっかけになる場であり、さまざまな場面に出会うきっかけ、何かを知るきっかけになってほしいと願いを込めて考えたのだ。これは僕たち学生のきっかけが今本当に少ないことを思って思いついたのだ。

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そして、デザイン学部の生徒と一緒に具体的な形に落とし込んでいっているときだった。万年橋パークビルの様子が変わるかもしれないと聞いた。はじめは自分たちは何とかなるんではないかと思っていた。実際、部屋はこれまで通りだし電気水道も何も問題なく使えている。

しかし、9月14日突然新しい代表取締役が訪れてきた。そこで言われた「9月末に出てくれ」。驚いた、いや、その時がついに来たと思った。だが、まさかこんな突然に。僕たちもこれまで善意から借りていると思っていた。善意に対して無茶を言うのは間違っている、対話をしてしっかりとすり合わせたいと思っていた。しかし、こちらの話をする余裕もなく出ることが決まっていたのだ。先代の方針、言葉など何一つ知らないといわれた。突然のことに驚いたが、現実的にはあと半月で引っ越しを行うことは不可能だった。これは僕自身の考えだが「出ろ」と言われて居続けることはしたくなかった、万年橋パークビル6階の価値はこの部屋だけではない。この建物すべての環境が僕たちを後押ししていると思っていた。だから周辺の環境が変わってまで居続けるのも何か違うと思っていたからだ。だが一緒に活動しているみんなと会話を続けるうちにここを残すことがとても重要であることに気づかされた。何よりも、この空間にはすでに多くの歴史があった。そしてこの歴史は新しい企画や新しい出会いを生み出す空気を作りつつあったのだ。

 事態の急変に、ここまで企画されていたイベントや引っ越し計画は急遽中止になった。部屋への立ち入りも制限をかけ、事態を知っている人のみの入退室となった。万年橋パークビルの運営は「お金になるの?」という言葉のもと数々の活動が終了してしまった。これまでたくさんのイベントを作った人や、街の為に活動してきた人たちが辞めさせられた。自由なフリースペースは短期的なお金を儲けるためのための場所に変えられつつある。(だが、お金儲けの場所にしても儲からないことはこれまで十数年の歴史で明らかになっている。建物の経年劣化も利便性を考えてもすでに周辺の施設から比べたら見劣りばかりだ。だかこそ、そのスペースを文化活動に使い将来の利益に使っていたのだ。それを何も考えず儲けを出す明確な方法もなしに、直感的な判断を下す現状は地獄絵図のようだ。)

僕たちにできることは何か

 そこから、現状でできることはいったい何があるのかそれぞれが考え始めた。僕は、これまでの万年橋パークビルの歴史のまとめと僕らの活動をまとめた展覧会を提案した。一緒に活動している女の子からの意見でインタビューを多く入れ、当事者たちのつながりや思いを中心的にまとめることにした。インタビューを行うのは今しかそれをやれる時はないと思ったためだ。万年橋パークビルの場所がなくなれば、これまでこの場所を介してつながっていた人々のつながりがなくなる。そうなってしまうと現実的にここでの出来事を知る人と出会えなくなってしまう。そうなる前に、ここでの出来事を聴き、まとめこれからの為に何か役にたつ資料を作ることが必要だと考えたからだ。

 企画を考えたのは僕だけでない。ほかにも、僕たちの創作品をまとめた雑誌作りを企画してくれる人もいた。10月末をめざし今も進んでいる。

 ではなぜこんなことを企画したのか。忘れないためにも素直に書いておきたいと思う。僕たちの万年橋パークビル6階での活動は、ここまですごい活動のように書いたが大したことはしていない。ただ、学生がたむろしていただけだ。確かにこれも十分に価値があるといわれたことがある。だが、あまりにも浅い歴史に利己的になりがちな自分たちの活動では自己満足的な訴えにしかならなず意味がないと思ってならなかった。アート活動を目指していた。しかし、アートとは名ばかりで企画未満が多くまだ形が生まれる前の物がほとんどだった。僕は、自分たちをセルフプロデュースするだけの事実が少ないと思った。だからこそ僕たちにできることは何か本気で考える必要があった。自分たちの活動はどこにあるのかそこから考えた。万年橋パークビルの歴史のほんの少しにちょこんと乗っかっている。それなら、その歴史を明らかにして資料をまとめよう。自分たちは何者であったのかその歴史から考えてみようと思ったのだ。

 実際調べて見れば過去の活動は膨大だった。インタビューをするたびにここで行われてきたたくさんの出来事に驚きを隠せなかった。これまでは見えなかったものが見えてきたと思っている。黒板とキッチン、立体駐車場そこに人が集まり、笑い合い話し合った姿が。恥ずかしい言い方だが、本当にそこに多くの思い出があると思えるのだ。これは小学校に対する思いに近いのかもしれない。人知れず生まれる様々な物語がそこには存在する。その場所に来ることで忘れていた記憶が想起されることもある。多くの人間の歴史がそこでは空間を介して密接につながっているのだ。

 インタビューを初めて多くの事実を知った。そのたびに、ここでの活動ができなくなると思うたびに胸がいっぱいになる。感情論でしかないが、どうしてこうなったのかと悔しさがあふれてしまう。

 僕は、大学で芸術文化について様々な角度から学んでいる。まだまだ学んでいる途中だが、芸術文化の価値を少なからず言葉で知っている僕らは今活動を起こすしかないと思っている。ここで、僕らが動かないとこれまでここで活動をしてきた人たちの想いを裏切ることに他ならない。僕たちも知っている以上やれることをしないと一生後悔するだろうとも思う。今僕らは、展覧会や資料作成、SNSを使った現状の告知、教授や知識のある人たちにお願いをして言葉を教えてもらっている。法律や契約関係は黒板とキッチンを管理している人が全力をかけてまとめ、権利を主張しようとしている。そのうえで、それ以外の僕らにできることがたくさんあると思っている。これから、街の人に事実関係と僕らの考えをまとめたチラシをくばり万年橋パークビルや黒板とキッチン存続に向けた署名活動を行いたいと思っている。効果は微力かも知れないが、街の人の想いを形にすることも訴えるための手段の一つだと思っている。

何がここまで芸術文化を脅かすのか

 ここまでいろいろと今のところまでの僕の見てきたものを書いてきた。かなり端折ったが、詳細は展覧会でしっかりと行いたいと思っている。

 ここからは、この事態について僕個人の考えを少ししたい。今回の代表取締役変更からの事態の急変はほとんど「お金の無駄」という言葉で行われてきた。僕は最近資本主義が文化における悪影響を考えてしまう。まだまだ新自由主義的な経済性政策は続くだろう。これからも経済は世界をつなぐようになる。このような社会において、いかなる企業も利益追求こそが第一である。しかし、多くの芸術文化はぱっと見では多くの利益にならず。むしろ無駄を多く生みだしているようにも見えてしまう。だが、そんなことはい一切ない。芸術文化の社会的価値は第三者に多大な利益をあたえ、都市や街、将来世代の子供たちに多大な影響を与えることができる。それは、文化芸術を育む者自身にも還元されるようになる。

 だが、そのような長期的な利益を考えず目先の現金に飛びついてしまう。僕が考える資本主義の危惧はここにある。利益の追求も正しく行えば世界を変えることだってできる。だが、一歩間違えれば取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうのだ。それは、現実に起こってきた多くの環境破壊と同じだ。一度、利益の為に起こした環境破壊は元に戻るには多大な時間を有してしまう。いや元に戻らないこともあるかもしれない。そして、今回の万年橋パークビルに起こっていることもそれと同じなのだ。長い時間をかけて育まれてきた芸術文化を、たった今の目の前にあるお金の為に破壊しようとしている。(いや目の前にお金などないのかもしれない、これまで長いこと勤めてきた優秀な人材をコストカットの為に解雇にすることは企業としての運営を困難にしかねない)資本主義社会で育まれた安直なお金に対する考えは、多くの人類の、世界の財産を破壊してしまうと思ってならないのだ。

 社会は人と人が関わり合いながら生きている。芸術文化はそのつながりによって生まれる産物だ。それは、法律に規定されていないから守らなくてもいいものではない。「なぜ自分がそれをしないといけないんだ」という反論は自分の利益の事しか考えておらず、それも未来における利益を捨てることになっていることを分かっていない証拠だ。

最後に

 ここまで読んでくださった方がいたら本当に感謝しかない。拙い言葉だが、今の僕の想いを残しておくことも重要だと勝手に思って書かせてもらった。僕は今芸術文化の終わりの現場に直面しているように思う。万年橋パークビルのいや浜松の芸術文化を守りたい。その思いを何とか形にしたかった。芸術文化というと、少々堅苦しいかもしれないが、感情的にはここでの人のつながりや思い出を壊してほしくないのだ。僕にできることは数少ないがそれでも多くの人の力を借りて大きな運動になることを願っている。

ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。


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