【自分と向き合う】なぜ私は買った本を読まなかったり、最後まで読まないのか

先ほど、池田貴将さんの「人間力の磨き方」という本を少し読んでいた。

そこには、池田さん自身の、自分と向き合いつづけた苦悩の日々がつづられていた。

こんなに赤裸々に、自分の中にある感情や思いを書き出せることに驚きを隠せない。

私自身も、自分の心の内を文章としてしたためたくて仕方がないのだが、いかんせん言葉が出てこない。

むしろ、書き出してみるとあまりにも心の内にあるものと違いすぎるので、書くことを途中で諦めてしまう。

一体これがなんなのか今まではよくわからなかった。

ところが、先に挙げた池田さんの本を読み進めるうち、だんだんとわかってきたことがある。

それは、自分が自分と本当に心から、諦めて、明け渡して、自分と向き合う、ということを本当には決めていないから言葉がでないのだと。

本当に本当に心から自分と向き合うことをしていれば、きっと相手の心に刺さるくらいの言葉がでるはずなのだ。

その言葉を見ただけで相手が何かを思い、感じる言葉が出てくるはずなのだ。

だから、私は今、自分の「向き合っているよ」という感覚がすべて「ウソ」であると認めることにした。

そう。すべては「向き合っているふり」だったのだ。

これは結構衝撃だ。

というか、衝撃を受けないように、今自分の心の中では必死に何かを取り繕っているのがわかる。

だって、その衝撃すらもまともに受け止められないくらい、今の私のハートはガラスになってしまっている様子だから。

あぁ、書きながらもすでに心が砕けそうだ。

いつから私はこんなグラスハートになってしまっていたのか。

カラダに申し訳ない。

私が最近「逃げているなぁ」と感じた場面がある。

どんなときかというと、「本を買ったのに読まない」「本を読んでいて疑問が浮かぶけど、たいして深く考えずに流す」「疑問について何か考えて、上っ面な答えを出してさっさと次に進む」「気にはなるけどまぁいいか、と次へ進む」とき。

そもそも、本を買ったのに読まないとき。

これは、買った時点で自分を偽っている。

だって、買う瞬間、自分はわかっているんだもの。買っても読まないって。

でも、表層の自分がそれを隠す。

「その本を買った自分ってかっこいいよね」
「今のあなたのキャラなら、そんな本を買うよね」
「誰かから聞かれたときに、『その本持っている』『こんなこと書いてあったね』って言えないとかっこわるいよね」

こんな感じ。

本質的な私は、その本が本当に今の自分に必要かどうかわかっている。

答えは簡単だ。

不要。

例えば2018年の春から秋にかけて、私はビジネス書を多く購入した。

人材育成や自己啓発、自己の高め方、社内コミュニケーションの改善などに関する本だ。

だが、それらのほとんどは読まれることはなかった。

今の自分がわかるのは、そのころは自分のストレスのはけ口と、自分は間違っていないということを証明したくて買っていたということだ。

買っただけでほぼ読んでもいないし、読んだ内容について上司に伝えるわけでもない。

自分の正当性を誰かに訴えるわけでもない。

そんな勇気すらない。

そんなちっちゃいちっちゃい自分の、小さな小さな自尊心を、グラスハートを、なんとかして守るためだけに買ったのだ。

それらの本を見ると、わくわくする感情もあるので、本当にいっさいがっさいが無駄ということではないとは思う。

ただ、その購入の際の意図のほとんどが間違っているものだからこそ、その本をいまだ読んでもいないし、書かれている内容を本質的に受け取ることもできないのであろう。

なんてもったいないんだろう、とまた表層の自分は思うが、奥の自分はそんなことすら思わない。

奥の、本質的な自分は、なんというか、あまり微動だにせずに大局をみている気がするから。

果たして私は一体どういう人間だろうか。

すぐに思いつくのは、「弱い」ということだ。

とにかく弱い。

小さいころから目立つことは嫌いだったし、人見知りだったし、確実なことでない限りは、取り繕ってでもうそをついてでも自分を守ってしまう。

そんなんじゃ人生に困ると判断した母は、私に学級委員をさせた。

おかげで素晴らしき機会をいただいた。

ただ、一方でそれを足かせに感じている自分もいたようだ。

人前に立つことをそこまで嫌に感じなくなった自分もいたが、どうやら何かをひきずっている自分もいるようだ。

人前ではこうあらねばならない、という自分だ。

人前に立つのだから、輝かしい成績を持たねばならないし、わからないことなどあってはならないし、いつでも正しくあらねばならない。

常識から外れるなんてもってのほかだし、人の模範となるようにあらねばならない。

こんな制約が、幼き日々の私の心を、どうやら少しずつ歪めていたらしい。

テストとなるとびくびくおびえ、高得点が取れないとものすごく自己嫌悪した。

なんて自分は使えないんだ。

努力もできない、使えない人間。

小テストのとき、合格点が取れないと鉛筆で書き直してでも合格点にした。

どんどん自分にうそをつき続けた。

そうしたら、なんと、自分で自分がわからなくなっていた。

自分が本心で何を思い、何を考え、本当は何に喜びを感じるのかがわからなくなっていた。

世間や周囲のために生きるようになり、周囲が何を求めているかに合わせて自分をカメレオンのように変えていった。

その結果、自分の意見や考え方、努力が求められる社会に出て道を失った。

ああしろ、こうしろ、と言ってくれるいわゆるブラックな感じの場所でしか生きられなくなっていた。

しかし、そんな場所ではそもそも心は耐久出来ない。

あっさりと私は休職に入り、そのまま退職した。

自分探しの旅が始まった。

生きていくために仕事はしなければならない。

しかし、生きていくことはとてもつらい。

自分が何に喜び、何に幸せを感じるのかがわからなかったから余計だ。

今まで自分が喜んでいたものは虚であるとわかってからは、本当に死にたくなった。

当時付き合っていた彼がいたが、彼のことが好きなのかどうか、彼と一緒にいて幸せなのかどうかわからなくなっていた。

今にして思えば、すべてが「依存」だった。

仕事も、プライベートも、すべて周囲に依存して生きていた。

あまり体重をかけすぎると相手ごと倒れてしまうので、いい塩梅でころころその対象を変えながらずっと何かに依存していた。

だから、夜寝る前の、自分の本質がひょっこり顔を出すあの時間帯が本当に毎晩毎晩恐ろしくて仕方がなかった。

朝、目を開けるのが怖かった。

ずっと寝ていたかった。

眠りの先の世界でなら、自由で、解放されて、安心して存在していられたから。

否。

存在せずにいられた気がしたから。

自分と向き合うとはなんだろう。

今までの私は、問いを発しても、奥まで出し切らずに逃げてきた。

もっと奥に本当の答えがある。

でもそれを見るのが怖いから、それっぽい答えを準備して出して終わり。

答えを焦るから、何か少しでも先にさっさと進みたいから、という理由で、あまり深く答えを考えずにどんどん先にすすんだ。

でも、結局それは近道でもなんでもなくて、遠回りオブ遠回りでしかないとだんだんわかってきた。

ずっと答えが欲しかった。

私はどうしたら幸せになれるのか。

どうしたら、日々追いかけてくるこの不安とサヨナラできるのか。

どうしたら、私は本当の意味で解放されるのか。

でも、その答えはどうやら、自分の中心に向かっていくほかないようだ。

今まではずっと、その答えがある泉の周囲でぐるぐる回っているだけだったようだ。

答えが欲しくて、さっさとほしくて、すごい勢いで全速力で泉の周りをずーっと走り続ける。

走り続ける中での周囲の景色が変わっていないことなど、とうに気付いていたはずなのに、知らないふりまでする徹底ぶり。

毎日出てくる言葉は、「やっとわかった」「やっときづいた」。

そんな言葉で泉の中心に近づいたように見せかけて。

でも、そんなのただの言い訳、あるいは文句、あるいは逃げ口上。

本当に気づいたときは、きっと、何も言わずにどんどん先へ進みたくなるのではないかな。

きっと、楽しくて仕方がないだろうから。

今の私はまだ、「あぁ自分は今こんな感じなんだな」というのがわかってきた、くらいの状態。

泉の中心部へと足を踏み入れていくのはこれから。

ちょっと想像しただけで手が震えてくる。

そんなに怖いんだなぁ。

一体何が出てくるというのか。死ぬわけでもないのに、死よりも怖いものがあるのか。

今書けるのはこれくらいか。

もっと先まで進めた時、改めて胸中を語ろうと思う。

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