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あまりにも変化の激しい時代の生存戦略

 自分が小学生だとして、毎年全然文化が違う国に転校しなくちゃいけないような感覚が最近ある。YouTubeやXを見ていると、昨日は誰かが「黒だ」と言っていたものが、今日は誰かが「いや白だ」という。あるひとは「黒でも白でもない、実は赤なのだ」とか言いやがる。みんながみんな、未来を予測して自分の見解を述べていて、私たちは時代に置いていかれないように必死にそういう不安定な情報を吸収して、未来を正しく見定め、最適化された道を歩もうとする。

 でもどこかで、「いつまでこんなことを(精神的・身体的に)続けられるんだろう?」という不安が立ち上がってくる。移り変わる情報に振り回されたり、環境や自分の考えを無理に変えたりする負担にどこまで絶えられるのか、という不安。

 これから変化のスピードも威力も加速していくことが確定している世界で、私(たち)が健全に生きていくために取れる選択肢は二つしかない。
①超空っぽになる
②高濃度になる

 ①超空っぽになる、は世界の急激な変化にメタモンのように、カメレオンのように環境に合わせて自分の形を変え続けるタイプの人間になるという選択肢。昨日は侍をしていましたが、今日は商人なります。でも商人もAIに仕事を奪われるので明日は百姓になって畑を耕します、みたいな柔軟性をもって徹底的に外部世界に適応する。
 ただ実際、95%くらいの人間はこれをやると自分が誰なのかわからなくなって精神病になる。昨日は「これでしばらく大丈夫だ」と信じていたことを全て捨て去り(自分を裏切り)、今日また1から「これなら大丈夫だろう」と信じるという心的負担が高すぎる行為を繰り返すから。今やっている物事にこだわりがあったり、個人的な思い入れや思想があればあるほど心的な負担が上昇していくので、ただの空っぽではなく(それこそAIのように)「超空っぽ」にならないと続けていくのは不可能に思う。

 ②は①とは逆に、平たくいうと個人的・主体的に生きていくという選択。自分自身の内的信仰(個人的なこだわり、美学、信念)をもって、さらにそれらの個人的な想い(願い・祈り)が善いものなのかどうかを絶えず監視し、絶えず問い直す。答えを安易に出すことなく、常に疑いつづけ、仮説を立てては修正するを繰り返す。そういう地道で我慢強い建設を経て少しずつ立ち上がってくる「私」を軸として、その「私」ができることを通して誰かに価値を贈与する。他人の主張や社会の変化を拒絶するのではなく、その他者を自分と同じように建設した主体として、同じ苦労を経てできた存在として素直に愛でる。そして必要があれば交渉したり、対話しながら互いの主体を交流させ、新しい視点を発見し、持ち帰って独り自分自身の主体を再度見つめ直す。

 個人的で主体的な人は、一見クセが強くて扱いづらくて面倒臭いと思われがちだけど、実際は全く反対で、さっぱりとしていて、風通しがよくて気持ちのいい人が多い。常に自分の内面と向き合い格闘している身にとっては、他者は他者で個別の格闘をしていると素直に思えるので、無理に自分を世界に押し付けることをしない。チームの一員になる場合でも、他者の主体をリスペクトしながら、目的・目標を見据えて冷静に話し合うことができる。野球のように、バッターボックスでは個人競技だけれど、その個人競技の集合体が勝敗を決定することを知っている。むしろ自分自身の建設が弱い人ほど、キョロキョロと中途半端に動いたり、自分の意見がないからこそ上司に怒られないようにとか自分の面子を守るために必要以上に立場の弱い他者を攻撃してしまったり、身体を張るべきところで脹れず誰かを失望させたりする。また、すぐに一般化したりカテゴライズする傾向もある。中国人に会ったことがないのに中国人と聞くと怪訝な表情をしたり、芸術は「わかりづらい」とレッテルを貼って遠ざけたり、体調不良で休職する人を「弱い人」と言ってみたりしてしまう。自分自身の空洞をよくわかっているからこそ、自分が知らないこと・わからないことに直面したときに、手段を選ばすに自分を肯定しようとして世界を自分の知っている形に当てはめてしまう。自己嫌悪や満たされていないことの反動として、マイナスからゼロへの神経症的な埋め合わせようとして、やってはいけないことをしてしまったり極端で偏った判断をしてしまう。

 経済が右肩上がりで発展していて、情報も少なくシンプルな生活だった時代では没主体的でも楽しく暮らしていけた。でもこの情報過多の変化の激しい複雑な時代では、②の高濃度な主体を作り上げていく努力なしでは、情報の海に呑み込まれて本人も何をすればいいのかわからず苦しくなってしまう。迷わないために、ある程度の確かさを感じながら自信をもって選択するために、必要以上に世界に踊らされないために、自分を好きになるために、自分と他人を傷つけないために、自分自身の空洞と向き合い、答えのない問いの中での煩悶を通して主体を建設していく。生きていくために、まずは自分が誰になりたいのか、そして今現在の自分は誰なのかを勇敢に考え尽くす。



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