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ナショナル・シアター・ライブ『夏の夜の夢』2019年、ブリッジ・シアター上演:最高に笑えて、人種やジェンダーの問題も提示する演出のシェイクスピア劇

イギリスのナショナル・シアターが2019年にロンドンにあるブリッジ・シアターという劇場でシェイクスピア戯曲『夏の夜の夢』を上演。その公演映像が期間限定で無料配信された。(英語音声と英語字幕で鑑賞)

配役や演出に危うさもありながらも、俳優たちの演技力が大変高く、涙が出るほど笑ってしまうシーンもあり、華やかなショーのようにまったく飽きさせない。2時間40分が短く感じられるほどだ。

演出:ニコラス・ハイトナー
主演:オリヴァー・クリス、グェンドリン・クリスティー(アメリカドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』出演)、デヴィッド・ムースト

▼ナショナル・シアター・ライブ『夏の夜の夢』公式トレイラー

現代の若者言葉も取り入れたイマーシヴ演劇

ブリッジ・シアターは舞台や座席をいろいろと動かせる劇場らしく、今回の公演では、いくつかの緑色の台(スタッフが人力で台を動かす場面も映っていた)を舞台にし、その周囲を観客たちが立ち見で好きな位置に動き回りながら見ていた。ただ、空間の壁際には座席があり、座って見ている観客もいた。

緑色の台は、半分以上が森の中で繰り広げられるこの劇の舞台にふさわしい。その台の上を俳優が行き来することで、作品全体に動きが生まれる。

観客たちは臆することなく台の周囲を歩き回る。その立つ観客たちを時に俳優がかき分けて進む。俳優が観客に直接語り掛けることもある。いわゆるイマーシヴ・シアター(没入型・体験型・観客参加型の演劇)の要素があり、観客たちは森の「木々」の役割を担っているのかもしれないし、森にひそむ妖精や、結婚式に集まった貴族の一員になっているのかもしれない。

ポップスの歌やヒップホップっぽいダンスを取り入れ、若者が楽しめるようにしているのも大きな特徴。生で歌うシーンもある。また、せりふにも、シェイクスピアの戯曲の言葉の中に絶妙のタイミングで現代英語の若者言葉が差し挟まれる。

そうしたせりふの使い方に加えて、俳優と観客との交流や、「イマーシヴ・シアター」への劇中での言及など、俳優と観客の間に「秘密」のようなものを作り上げることで、連帯感や親近感を演出し、演劇の世界へ入っていきやすくしている。

サーカスなどで見られるエアリアル・シルクやポールダンスも

また、サーカスで見られ、ダンスやヨガにも取り入れられている、エアリアル・シルク(Aerial Silk)も本作で際立っている。これは、天井からつるした布に人がブランコのようにして乗り、そこで回転したり脚や手だけでぶら下がったりとアクロバティックな動きをするもの。いたずら者の妖精パックをはじめ、妖精たちがエアリエル・シルクをすることで、まさに「空中」を飛び回っているように見せる効果がある。

同じく、「ポールダンス」という、これはエアリアルより日本で指名度が高そうだが、棒(ポール)に体を巻き付けるようにして回転したり素早く移動したりするダンスも披露されていた。

戦争で負けた相手の妻になるヒポリタがケースの中に

劇は、アテネの公爵シーシアスがヒポリタに「もうすぐ結婚だね」といった話をするところから始まる。ヒポリタはもともとアマゾン国の女王で、アテネとの戦争でシーシアスと戦って負けたため、シーシアスの妻にされるべくアテネに連れてこられた。この劇の演出では、2人はまだかなり警戒し合っている。

その敵意を視覚的にも表現しているのが、ヒポリタが透明な(ガラス?)ケースに入れられていることだ。これは檻なのか?それとも比喩的な表現なのか?

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ヒポリタも、観客に交ざって立つ俳優の女性たちも、直後に登場する若い女性のハーミアとヘレナも、女性はみんな体を覆う黒いワンピースを着て頭には白いベールを着けている。つまり、修道女のような格好だ。最後の結婚式ではみんな華やかなドレスを着ているので、これは未婚女性の服装なのか、アテネのこのときの暗い雰囲気を表しているのか、それとも戦争の後だから、喪に服しているのだろうか?そういえば男性たちも黒いスーツのような服だった気がする。

女性が頭にかぶって髪を覆い隠している布は「ウィンプル」と呼ばれるそうだ。昔のヨーロッパでは「既婚女性」が身に付け、のちには修道女だけが付けるようになったらしい。西洋美術の肖像画でよく描かれているものだ。

女性が権威ある男性に反抗

シーシアスのもとにやって来たのは貴族のイジーアスで、娘ハーミアが父である自分が決めた結婚相手ディミートリアスを拒絶し、ライサンダーと恋仲であることを訴えに来る。ハーミアは別の若者ライサンダーと愛し合っているのだ(そしてディミートリアスはハーミアと幼なじみの女性ヘレナに好かれている)。アテネの法では娘に対して父親が言うことは絶対で、反抗は死に値する。

にもかかわらずハーミアは反発を口にするのだが、そのせりふの前にハーミアがケースの中のヒポリタと目を合わせ、その瞬間、「シャリーン」というような効果音が流れ、一瞬ぼおっとしたハーミアがわれに返り、はっきりと反抗し始める。

これは、おそらくヒポリタがハーミアに魔法をかけたという演出なのではないか。ハーミアがヒポリタに「言わされている」ということではなく、正直な思いを表明する勇気を得たといったところか。

ヒポリタは女性が男性に黙って従うという主義には反対で、原作の戯曲でもともとそうなのだが妖精の女王ティターニアと呼応する存在だ。また、アマゾン国はアマゾネスとも呼ばれる女性だけで生活する伝説的な狩猟民族だ。そのため、ヒポリタが魔法(男性からしたら「魔術」ということになるかもしれない)を使えてもおかしくはない気がしてくる。

配役における人種的マジョリティーとマイノリティー

ヒポリタは中年くらいの白人女性、シーシアスはそれより若く見える白人男性で(と思ったら、2人とも1978年生まれで、当時40歳くらいだったようだ)、ハーミアとヘレナはそれぞれに美しく若い白人女性、ライサンダーとディミートリアスも若い男性で、ディミートリアスは見たところ黒人、ライサンダーもいわゆる「有色人種」だがもしかしたら黒人とは少し違うかもしれない。いずれにせよ2人ともハンサムに見える。(ちなみにハーミアの父イジーアスは年配の男性だ)

実はこの場面までは特に俳優の人種に留意することなく見られていたのだが、なぜわざわざこんなことを書いたかと言えば、この後登場する庶民である職人たちのうち、メインの道化的な立ち回りを受け持つボトム役を演じる俳優が(大柄な)黒人男性だったからだ。

また、劇中劇で女性を演じる男性の職人役は細身で背が高い黒人男性の俳優だ。そして、職人役の中には「太った」女性もいて、黒人男性らの職人たちに「それでも女性」(元のせりふをもじっていると思う)などとからかわれるシーンもある。

ボトムはさらに徹底的に笑い者にされる役だ(職人たちに好かれている「愛すべきキャラ」としても描かれてはいるが)。

つまり、「黒人」や「太った人」が「美しい」「白人」たちにばかにされ、「黒人」と「太った人」の間でもばかにし合う(からかいからかわれ、とお互いさまに近い状況とはいえ)という構図が成り立ってしまうわけだ。

「属性」として、強い立場の「マジョリティー」に分類される俳優が強い立場(優遇されている立場、強者、勝ち組)を演じ、弱い立場の「マイノリティー」とされる俳優が「弱者」を演じ、マジョリティーに属する俳優にばかにされる、という配役や演出は危険になり得る。

例えばロンドンのグローブ座はシェイクルピア劇をメインに上演する劇場・劇団だが、異なる人種の俳優や、またデフ(耳の聞こえない手話使用者)の俳優が1つの演目に入っているようにしている。そのとき、主役を黒人や女性など「マイノリティー」の俳優が演じたりすることも多い。もちろん、その俳優に力量があり適役であるからだが、舞台の上で「逆転」現象を作り出すためもあるだろう。ここで、「黒人俳優は全員召使や身分の低い役」などとしてしまえば、「それは黒人だからそういう配役にしたのか?」という批判を呼ぶことになる。

しかし本作では、いちばんの笑われ役を黒人が演じ、「太った女性」もそのことでからかわれている。

ただ、では黒人の俳優は(例えばほぼすべて黒人の俳優による劇や「支配者」役に白人も黒人もいる劇などでないと)道化役を演じてはいけないのか、というとそんなことはないはずだし、見間違いかもしれないが「太った女性」はワンシーンでドレスを着て歌って喝さいを浴びていたのと同じ人かもしれず、そうすると豊かな声量を出すための身体なのかもしれず、歌うことでそのことを示し、単にさげすまれる存在ではないことが表現されているのかもしれない。

また、これも間違っているかもしれないが、妖精パックを演じた俳優は若い白人男性で、コックニー(cockney、東ロンドンの方言)のアクセントで話していた?なら、それはもともと労働者階級のアクセントであり、パックは妖精の中でも有名な妖精で、妖精王オーベロンにかわいがられる存在ではあるが王に仕える立場なので、虐げられる役でもある。(同じ俳優が人間界のシーシアスに仕える役を演じるときはおそらくもっと「上品」は発音で話していた。この役とパックもシンクロするような演出になっている)

というわけで、「特に黒人が・・・」という事態になるのは避けている、というのが演出家や制作側の考えなのかもしれない。

なお、「妖精パックは妖精王オーベロンに仕えている」と書いたが、確かに戯曲ではそうなのだが、本作では少なくとも私はあまり見たことがない「逆」設定が施されている。

しかし、ストーリー、劇の流れに戻ろう。

職人たちの喜劇性は危うさもありつつ初登場から大人気

ライサンダーはハーミアと2人きりになると、彼女のウィンプルを取り、キスをする。彼の提案で、2人は駆け落ちすることを決め、夜に森で会う約束をする。2人からそう聞いたヘレナは、ディミートリアスにばらして、現場に駆け付けた彼を一目見ようと計画する。

貴族たちから一転、職人たちの世界へ。シーシアスとヒポリタの結婚式の余興として、自分たちの芝居を見てもらおうとする6人たちが集まっている。シェイクスピアの戯曲では全員男性だが、本作では女性が3人。台本を書き、配役を決めるクインス(Quince)も女性で、それに合わせて(イギリスのシェイクスピア劇上演でよくあることだが)、「Mr Quince」ではなく「Mistress Quince」と呼ばれている。

前述の太めの女性が「ライオン役」なのだが、男性たちはわざと彼女を怖がる。せりふには(もちろん元の戯曲にはない)「Simba」(シンバ)という言葉が登場。ミュージカルやアニメの『ライオン・キング』というわけだ。「ライオンはroar(ほえる)役ね」と言われるのだが、そこでボトムたちが「♪Roar♪」と歌っぽく言ってからかうのは、『ライオン・キング』の歌と関係あるのだろうか?

アメリカのシンガーソングライター、Katy Perry(ケイティ・ペリー)の「Roar」という曲があるようだが、サビの「♪Roar♪」の節回しだったかも。そして、この歌は本作で流れていたかも(記憶がやや曖昧)。このせりふでも観客は受けていた。

人間界から妖精界へ

貴族たちと職人たちは身分は違えど人間界にいるが、舞台は次に妖精界へと移る。

夜、若者たち4人は寮のようなベッドで寝ている。カジュアルなTシャツとかショートパンツとかジャージみたいな寝るときの服装。ライサンダーがハーミアを起こしに来て、出発。ライサンダーはギターを抱えている。ヘレナもベッドにいるディミートリアスに付きまとい、4人は森へ。

普通の演出では、寝室シーンというのはなく、いきなり森の場面になると思う。

さらに、シーシアスとヒポリタも眠りにつき、夢の世界へ。そこで2人は妖精界のオーベロンとティターニアになっているのではないかという暗示がされていると思う。

ジェンダーロール(性役割)が入れ替わる

森で、妖精パックともう1人(1体?)の妖精が会話する場面。ロンドンのワーキングクラスの若者といった風情(それもあり、パックの英語はコックニーなのではないかと思ったのだ)。

ここでの会話を聞いていて、「あれ?」と思う。何かがおかしい。「え、もしかして?」と思い、状況を見守ると、やはり、パックの前に「ご主人」として現れたのは、王オーベロンではなく、女王ティターニアだった。

ティターニアを男性の俳優が演じるといった演出もあるが、本作では、ティターニアは女性役で演じるのも女性、オーベロンも男性役で男性俳優が演じている(シェイクスピア当時は女性役も男性が演じたそうだが)。ただ、「役割」が交代しているのだ。「ジェンダーロール」という言葉が浮かぶ。

当然、本作でジェンダーは重要な鍵だ。人間界でシーシアスはヒポリタに戦争で勝ったものの、ヒポリタは「魔術」を使えるのか、彼は彼女に少しおびえているように見える。妖精界でも、女王のティターニアがパックを使い、魔法を行使することになり、オーベロンはそれに翻弄される。

パックが仕えているのがティターニアなら、「インドの男の子」を自分の小姓にしているのはオーベロンで、その子をよこせと要求しているのはティターニアだ。原作に慣れているといろいろと混乱するが、観客の意識をかく乱するのがもちろんこの演出の目的の一つでもあるのだろう。

インドの子は、その亡き母親と親しかったことから引き取った、という設定なので、本作では、オーベロンが妻以外の女性と親しくしていたということになる。ティターニアがそれにも嫉妬しているような演出か?

ティターニアがパックをがっしりハグする場面も、なんだか「怪しい」関係に見えてしまうのは、見る側の固定観念の問題だろうか。そうした無意識の部分も揺さぶられる効果があるのかもしれない。

ティターニアとオーベロンは緑色の衣装で、ティターニア役の俳優はヒポリタ役のときとは正反対に腕などを露出している。ティターニアとヒポリタを演じたグェンドリン・クリスティー(Gwendoline Christie)はかなりの長身に見えたが、やはり身長が190 cm以上あるらしい。

現代のちょっとワルそうな若者っぽい俳優たちが劇と観客を橋渡し

先ほどパックと話していた妖精(つまり原作とは逆にオーベロンに仕えている妖精)は、シェイクスピアのせりふの合間に「LOL」などと、現代の若者言葉を言っていた。これは「laughing out loud」(声を出して笑う)などの略で、SNSやメール、メッセージなどで書かれる。日本語の「(笑)」「w」のようなものだ。俳優はこうした言葉を、たっぷり間を取ったり、ゆっくりはっきり大きく発音したりして強調するので、観客はばっちり「大笑い」していた。

パック役は、ダンスかサーカスもする人なのだろうか、体が非常に柔らかく、骸骨みたいというか、逆に骨がなさそうにも見えるというか、なかなかあり得ない格好に体を折り曲げたりして、人間離れした「異世界」の雰囲気がよく出ている。すべての出演者がそうなのだが、この俳優もとても演技力が高い。

パックはもともと観客に語り掛けるせりふもあり、観客と劇の世界をつなげる、いわば「仲介役」も担っている。本作では、観客への直接的な働き掛けもなされ(後述)、この俳優はうまく笑いを誘っていた。また、パックは妖精と人間の両方に、魔法の花の露を掛けて、2つの世界を自在に行き来する存在でもある。

俳優と観客との即興の掛け合い漫才?!

さて、オーベロンは眠りにつき、妖精たちが歌い、ポールダンスやエアリアル・シルクで舞い踊る。パックがこっそり現れ、オーベロンの目に媚薬を垂らす。ティターニアいわく、目が覚めたときに最初に見たもの、人であれ動物であれ化け物であれ、にぞっこん恋をしてしまう魔法の液体だ。

森で迷ったライサンダーは、ハーミアにギターで弾き語りをする。

さっさと仕事に取り掛かれとティターニアに言われた、「足が速い」ことで有名なパックは、移動しようとして、観客たちに「Move.」(どけ)と命じる。笑いながらよける観客たちをかき分けて進むパック。

やっと緑の台に上がり、「Londoners.」(まったくロンドンの連中ときたら)と、もちろん原作にはないせりふで観客に悪態をつく。上演中の劇場はロンドンにあるわけで、観客は大喜びだ。だが、そこに1人の客が「I'm Irish.」(僕はアイルランド人だ)と声を上げる。それに対しパックは間を取って驚きを見せ、「I like that.」と応じる。観客たちは大爆笑(私も)。

これはもし仕込みでないとしたら相当面白いが、「素人」の観客がそういうことをするものだろうか?演劇を見るのが「プロ級」なら、あり得るのかもしれない。見ているときは、完全に偶然の「即興」として鑑賞した。

観客からある物を借りたお礼は・・・

場面は、夜の森で芝居の稽古をするために集まった6人の職人たちへ。

芝居では「月」が照らすシーンがあり、「どうする?当日、屋外で晴れていれば、月明かりがあるから、それでいいでしょ」みたいな話にたぶんなる。

「でも、当日の月はどんな感じかな?カレンダーある?カレンダーは?」みたいな感じでみんな騒ぎ始め、しまいに観客たちに問い掛ける。「カレンダー持ってる?iPhoneでもアンドロイドでも、なんでも」と。

すると、親切な(?)観客が自分のスマホを渡す。俳優が受け取り、いじろうとしてロックされているのに気付き、「Unlock your calendar.」(カレンダーのロックを外せ)と言って、その観客に突き返す。いや、カレンダーじゃなくてスマホだし(笑)。

ロックを解除してもらったスマホを再び受け取り、カレンダーをみんなで確認しているふり。カレンダーを見る前に何かよろしくないものをスマホの画面で見つけたかのようにして笑い、観客をからかう。

カレンダーを確認して、「その日は月が出るよ。よかったね、大丈夫だ!」という話になるが、まだスマホをいじる俳優がいる。勝手にいろいろと見ているように見せ掛けて(本当に見ていた?!)、渡した当人はじめ観客たちを焦らせる。

とうとうスマホを返そうとするが、なんと返す前に6人みんなでそのスマホで記念撮影。この粋なお礼に観客がさらに湧く。この演出はおそらく毎回しているだろうから、公演の2日目以降、この話が広まっていたのであれば、積極的にスマホを貸す観客がいてもおかしくない。

▼「観客のスマホでカレンダー確認」の場面の動画

「同性愛は間違い」というメッセージになってしまっていないか?

盛り上がっていた職人たちだが、ここにもパックが現れ、ボトムの頭をロバの頭に変えてしまう(本作でも大概の演出と同じようにボトム役はロバの頭のかぶり物をする)。

その姿を見て化け物だと思ってしまったほかの職人たちは逃げ出す。ボトムはわけがわからず、みんなはふざけているのだと思う。

オーベロンは目を覚まし、最初に目にしたのはロバ頭のボトムだった!原作ではティターニアがボトムに恋するのだが、本作ではオーベロンなので、つまりボトムとはゲイ(男性同性愛者)カップルになる。

オーベロンが踊り、オーベロンは下着姿を披露し、オーベロンはボトムにムラムラ、ボトムも最初は戸惑っていたのにすぐにオーベロンにメロメロ、となり、観客はノリノリ、拍手喝さい、大盛り上がり。

確かについ吹き出してしまうシーンなのだが、この「ゲイカップル」の設定や演出も、黒人俳優が演じるボトムが道化役で笑い者となるのと同じく、危ういというかきわどい。「同性愛者」であることを、観客がいわば「気持ち悪がり」、笑っているようにも見えるからだ。そこに現れる構図は、同性愛者への揶揄、また、魔法による「いっときの」「間違った」「のちに正しく修正される」関係、ではないだろうか。そういうふうにも読み取れてしまう、というよりは、そうとしか見えない気もする。しかし、そう思ってしまうこと自体が、むしろこちら側の「偏見」の問題なのか?ここでも、笑いながら心中穏やかではいられない。

オーベロンとボトムがイケイケ(←古い)で去るところで前半が終わり、休憩に入った(映像ではごく短い休憩)。ここまでで、開始からおよそ1時間12分が経過していた。

いたずら者の妖精パックの失敗

後半が始まるときは、幕間の余興という趣で、妖精役たちが音楽に乗ってエアリアル・シルクを披露。セクシーなダンスだ。

ティターニアもシルク(天井からつるされたブランコ状の布)に座っていて、劇が再開する。

パックはティターニアに、言いつけどおり媚薬をまいてきたと得意げに報告する。パックが口を閉じたのでティターニアが発言しようとすると、パックが「Not finished.」(まだ話し終わっていない/まだ続きがある)と言ってさえぎり、再び話し始める、というのを数回繰り返し、観客から笑いを取る。

ところが、ティターニアはパックに、ディミートリアスに魔法の露をかけてヘレナを愛するよう仕向け、2組の幸せなカップルを誕生させるようにと命じていたのに、パックが媚薬を垂らしたのはライサンダーだったのだ。

そして、寝ていたライサンダーを見つけたヘレナが、まさか死んでいるのか?と思って彼を起こしたので、目覚めた彼が最初に目にしたのはヘレナで、彼女に恋をしてしまった。ヘレナはからかわれていると思って激昂するが、ライサンダーはハーミアを置いて彼女を追い掛ける。

パックが間違えたのには2つ要因があり、1つは、ティターニアに「アテネの服装をした若者(男性)」に魔法をかけろと命じられたこと、つまり顔は知らなかった。2つ目は、ライサンダーとハーミアが離れて眠っていたこと。パックは、危険な夜の森にいるにもかかわらず、男(ディミートリアス)が女(ヘレナ)を嫌って遠ざけていたのだと勘違いしたのだ。しかし実はハーミアが、婚前だからとライサンダーに離れて眠るよう頼んだのだった。

「アテネの服を着た若者って言ったじゃないですか」とパックに言い返されたティターニアは、とにかく夜が明ける前に素早く行動して、こじれてしまった状況を直さないといけないと言う。

恋がこじれて激しく敵対するする若者たち

まずはディミートリアスに魔法の露を垂らしてヘレナに恋させたのはいいが、急な展開に、ヘレナはディミートリアスも自分をからかっているのだと思い込む。

そこへハーミアが現れ、2人の男が自分ではなくヘレナを愛していると言うのを聞いて、ヘレナをののしり始める。男性2人はヘレナをかばい、守ろうとする。

魔法にかけられたとはいえ、ライサンダーがハーミアを拒絶するさまはかなりひどく、喜劇であるはずの作品全体に影を落とす一つの要素となる。ライサンダーは人が変わったように(実際変わったのだが)、大切にしていてハーミアに演奏を聞かせていたギターまで壊してしまうのだ。

ヘレナは今度はハーミアもからかいに加担しているのだと思い、女同士、男同士で争いを始める。

▼「4人の若者が激しく言い争う」場面の動画(ハーミアもヘレナも同じくらい美しいが、ハーミアは背が低く、ヘレナは背が高いので、背が低いことをばかにされたとハーミアが怒る)

あとは、ライサンダーに花の露を使い、再びハーミアに恋させなければならない。

ティターニアにさっさと行けと命じられたパックは、(もうその夜は十分働いたので)疲れてだるそうに「Look how I go.」(僕が行くのを見ていてよ)と言うものの、動く気配がないが、その瞬間、立っていたベッドのシーツの裂け目から下に消える。次の瞬間には別のところから現れる。このせりふは、普通に元気いっぱいに行ってさっさと動く、という演出の方が多いのではないかと思う。

▼「ティターニアにしかられてだるそうだが突如消えたパック」の場面の動画

魔法によるアイデンティティーの危機

4人の若者たちが争っている間に、パックが花の露でいたずらして、ライサンダーとディミートリアスが一瞬引かれ合いキス。さらにティターニアも同じようにいたずらして、ハーミアとヘレナもキス。観客から笑いが起こる。これは本作独自の演出だろう。一瞬、とろんと相手に色気を感じてしまう演技がうまい。しかしこれも、「同性愛は一瞬の気の迷い、間違いである」というメッセージになってしまわないだろうか?

ライサンダーがさらしている上半身の肉体美は結構見事だ。

ライサンダーに拒絶されたハーミアは、「Am not I Hermia? Are not you Lysander?」(私はハーミアではないというの?あなたはライサンダーではないの?)と言う。アイデンティティーの揺らぎが表れているせりふだ。と、ここでハーミアが現代の言葉、いわゆるFワード(ここでは「f●●●ing」)で悪態をつく。これも観客から笑いを誘う。

暗い森の中で、パックが若者たちを思いどおりの場所で眠らせるため、ライサンダーやディミートリアスの声をまねておびき寄せるのだが、その場面は2人の若者役の録音した声を使っていたのだろうか?

このあたりの映像で、一部の観客が劇に合わせた髪飾りを着けたりしている?と思ったのだが、それともあの人たちは俳優だったのだろうか。

若者たちが眠りについた後、ドレスを着た歌手が現れて歌う。前述したように、職人の「太めの女性」、劇中劇でライオンを演じる人だろうか?観客は盛り上がる。

歌とダンスと下品なジョークで大盛り上がり

再び、魔法にかかったオーベロンと、ロバ頭にされたボトムのシーン。2人で一緒に泡風呂に入り、ボトムが歌う。バスタブから出て、キモノ風のローブを羽織る。

オーベロンがボトムに「And kiss thy fair large ... ears」(キスをする、君のすてきで大きい・・・耳に)と、あえて間を入れて言ったり、ボトムがオーベロンに「I had rather have a handful or two of dried peas.」と、最後の方の言葉を強調して言ったりするところで、笑いが起こっていた。おそらく性的な意味合い。後者は、オーベロンに何が食べたいかと尋ねられたボトムの答えで、「それよりも乾燥豆をちょっと食べたいな」というのがもともとの意味だと思われる。それがたぶんこういう(←書くのははばかられる)意味ということがこの演出では暗示されている?と妄想が膨らんだが、どうなのだろう。

この場面でも観客はかなり湧き、歌「I Can See Clearly Now」が流れるとさらに盛り上がった。オーベロンとボトムが歌って踊る。Jimmy Cliffのバージョンだったのかな?オリジナルはJohnny Nash(ジョニー・ナッシュ)。

いつの間にかかなり大きな布が観客の頭上に乗せられていて、観客たちが手でその布を移動させていく。なんとなく日本の学校の運動会を連想した。でも運動会も心地よい一体感が漂っていることが、画面越しに見ているだけでも伝わってくるようだ。エアリアル・シルクが披露され、カラフルな照明が美しい。

朝になり、人間が支配する世界に戻る

ここで透明ケースにはもう入っていないヒポリタが現れ、ヒポリタがこの場を操っているかのような動作。シーシアスに、オーベロンとロバの頭のボトムとの間に起こったことを思い出させた(?)ような演出。

シーシアスやヒポリタは、夜が明けた盛で、ボロボロの状態でカップル同士で寄り添って眠っている4人の若者たちを見つける。シーシアスは、夢の中(=妖精界、異世界)のオーベロンとしての体験=ロバの頭の人間に一瞬恋をした体験を通して、恋に夢中になり惑う若者たちを許す気になったようだ。

シーシアス=オーベロンがヒポリタ=ティターニアに手を差し伸べ、彼女はその手を取り、和解の雰囲気になる。

若い4人の恋人たちは、それまでのことは夢だったのだろうか、それとも現実だろうかとおしゃべりする。

上からベッドが現れ、ボトムが目を覚ます。めでたくほかの職人たちに合流し、職人たちはボトムが人間の頭に戻り、「生還」したことを喜ぶ。ボトムもロバの頭をかぶっていた間は、半分「異世界の存在」になっていたのだ。

最高潮に達する劇中劇の始まり

パックを演じた俳優がシーシアスの従者として現れ、3組の結婚式の余興として用意された演目のリストを読み上げる。1つ読み上げるごとに、その演目のイメージを、妖精を演じていた俳優たちが一発芸のようにして具現化する。

シーシアスたちの気に入る演目がなかなかないが、ついにボトムたちの「悲(喜)劇」が面白そうだと選ばれ、上演されることになる。チーム名は「Rude Mechanicals」(無礼な職工たち)で、その文字がプリントされたおそろいの服を着ている。演目は『ピラマスとシスビーの悲劇』。元の戯曲にはない「rude」を足しているのかと思ってしまったが、戯曲にもともとこの言葉が入っているのか。シェイクスピア劇は本当に面白い。

彼らの演目が選ばれると、たぶん、テレビのタレントショーで「合格です!」「1位です!」のときに鳴らされるであろうチャイム音みたいなのが流れる。どこまでも楽しい演出だ。

妖精界と人間界をつなぐ演出

この劇中劇は、プロローグで始まる。粗筋を口上付きで短く見せるのだが、本作ではさらに音楽が付いていた。

プロローグを見て・聞いている間、シーシアスが「I wonder if the lion be to speak.」(ライオンは話すのかな)と言ったのに対し、「No wonder, my lord. One lion may, when many asses do.」(それもあり得ますよ。ライオンだって話すでしょう、この愚か者たちが話すのですから)と返されて、「asses」のところでシーシアスが怒る。

おそらく、ボトムたちが「asses」(愚か者)と言われたことに、自分が妖精界でオーベロンとしてボトムに恋していたので、怒っている、という演出か。assには「ロバ」の意味もあり、ロバの頭にされたボトムは何度もこう呼ばれていた。

ピラマス役のボトムが言うせりふ「I see a voice. Now will I to the chink,
To spy an I can hear my Thisbe’s face.」(声が「見える」。よし穴に近づくぞ、シスビーの顔が「聞こえる」かどうか確認しよう)では、動詞があべこべになっている。ピラマスの「Oh, kiss me through the hole of this vile wall!」(ああ、この憎らしい壁の穴から僕にキスしてくれ!)というせりふは下品なジョークかな、観客が受けていた。(元の戯曲どおり)

メタフィクション的な「イマーシヴ」と「インプロ」への言及

劇中劇の「月光」は、月役が手にした懐中電灯。その光を急に向けられたヒポリタが驚いて叫び声を上げる。すかさず隣のシーシアスが彼女に「It's immersive.」と声を掛けて、観客の笑いを誘う。

これはもちろんシェイクスピアの戯曲にはないはずで、本作がイマーシヴ・シアターであることに言及するものだろう。劇中劇を見ているヒポリタが劇中劇に引き込まれ、その彼女をさらに外側で観客が見ているという構図だ。

ライオン役が劇を見ている貴族に「何してるんだ?」と言われて、「I'm improvising.」(インプロ=即興してるんだよ)と答えるのも、演劇への言及になっている。これも本作オリジナルのせりふのはず。本作には即興演劇の要素も取り込まれているようだから、観客がここでもどっと笑う。

ボトムの「熱演」は涙が出るほど笑える

劇中劇のヒロイン、シスビーがライオンに攻撃され、破れた服に血が付いて彼女が倒れてしまうシーンでは、月役が懐中電灯の光の前に赤いシートをかざして、血を表現していたようだ。もう何から何まで面白過ぎる。

ピラマスは恋人の後を追うのだが、死んだと思ったら立ち上がり、おもちゃの剣を手にし、その剣が、スイッチを入れると音を出して光る。スイッチに間違えて手が触れてしまったというように何度も音が出て光り、その合間にピラマスを演じるボトムが何度も大声で「die」(死ぬ)と死にそうな(いやむしろ元気そうな?)声を上げ、でもなかなか死なない(笑)。

このあたり、シェイクスピアの十八番と言うか、ハムレットも、『ロミオとジュリエット』のマキューシオもなかなか死なないんだよね。それにしてもこれはかなりの熱演で、この観客の持っていき方は本当に神業。涙が出るほど笑ってしまった。

やっとピラマスが死んで、実は死んでおらず気を失っていただけのシスビーが立ち上がり、ピラマスが死んだと知って後を追う(『ロミオとジュリエット』のラストのプロットと同じ)。このときも大変で、シスビーが助っ人を求め、ヘレナとハーミアとヒポリタを真ん中に引っ張り出してきて、最終的にヒポリタが剣の柄を持っているときに刃先がシスビーに当たり、シスビーが死んでヒポリタが悲鳴を上げるという(笑)。

シスビーが最後に「Adieu, adieu, adieu.」(さよなら×3)と言って、『ハムレット』と同じと思ったら、もともと『夏の夜の夢』のせりふがそうなっていたのだった。

魔法は消えていないのか?夢なのか現実なのか?

劇中劇のエピローグで職人たちが曲に合わせてストリート系のダンスを踊り、貴族たちも踊りに加わる。

その中で一瞬、シーシアス(=オーベロン)とボトムが見つめ合うという演出があった。ハーミアとヘレナも一瞬再び魔法にかかったかのようにキス。ライサンダーとディミートリアスも接近し、キス寸前に。さらに、ライサンダーがヘレナに思わせぶりな目配せをする。その様子をパックが見守っている。人間たちはいなくなる。

この演出は、夜の夢の残像のようだけども、実は魔法は消え去っていなくて、それどころか魔法ではなく現実に存在する感情だとしたら?そもそも恋や人の気持ちはそんなに確固としたものではなく、移り変わるものだから、ということを暗示しているように思う。

もしかしたらこの演出で、「同性愛はいっときの気の迷いとはまったく異なる」ことが提示されているのかもしれない。決して簡単に消し去れるものではない、と。

芝居はつまらなくない!

妖精界のオーベロンとティターニアも姿を現す。歌い、仲睦まじく手を取り合う。観客たちが緑の台のステージの周囲を何十かの輪になって回っている(盆踊りのように)。

2人もいなくなり、パックが最後の口上を述べ(「この劇がつまらなかったのなら許してください。これはただの夢ですから」)、天井から下がるシルク(布)に腰でぶら下がり、両手で観客の手を取る。終わり。

拍手喝さい。シルクから降りたパックは、何人かの観客とタッチ。

俳優たちもみんな出てきて、ステージの周囲で働いていたスタッフたちもステージに上がり、大盛り上がり。

ビヨンセの歌「Love on Top」がかかり、俳優も観客も一緒になって踊る。ダンスフロア状態。とても楽しそう。私も画面の前で一緒に踊った。ポールダンスも行われる。

最後にパックが「Play is boring.」(芝居はつまらない)と言って本当に終わる。

質が高く問題提起も興味深い、見るべき演劇作品

この配信とほぼ同時期に配信された英国グローブ座の『夏の夜の夢』もそうだったが、本作でも、せりふが弱強五歩格や脚韻に注意深く言われていて、耳に心地よく響いた。

前述したように人種的マイノリティーや性的マイノリティーに関して気に掛かるところもあるが、シェイクスピアの戯曲のせりふやテーマを大事にしながらここまで現代人の心に訴え掛けエンターテインメント性の高い楽しめる作品に仕上げているのはすごい。

俳優たち全員の演技力も卓越している。

2020年7月、日本の映画館で上映

本作は、2020年7月10日(金)から日本の映画館で上映される。

もう一度見たいし、大きなスクリーンで見られるし、何より日本語字幕付きで内容を確認したいので、できればぜひ見に行きたいところだ。

▼映画館での上映情報

作品情報

A Midsummer Night's Dream | Bridge Theatre | National Theatre at Home Full Performance

Gwendoline Christie, Oliver Chris, David Moorst and Hammed Animashaun lead the cast as Titania, Oberon, Puck and Bottom, in Shakespeare’s most famous romantic comedy.

The full list of cast and creatives is available here.

A feuding fairy King and Queen cross paths with four runaway lovers and a troupe of actors trying to rehearse a play. As their dispute grows, the magical royal couple meddle with mortal lives in the forest, to hilarious, but dark, consequences.

The Bridge Theatre’s A Midsummer Night’s Dream is streaming from 7pm UK time on Thursday 25 June, until 7pm UK time on Thursday 2 July 2020.

The running time is 2 hours 40 minutes with a very short interval. The BBFC rating is 12A with infrequent strong language.


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