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『聖なるズー』濱野ちひろ著:ドイツの動物性愛者団体に迫った開高健ノンフィクション賞受賞作

動物性愛(zoophilia)は、「精神疾患」とされることも「性的指向」とされることもある。小児性愛と同じように捉えられ、忌み嫌われることの方がおそらく多い。ヨーロッパ諸国を含む国々で、人間が動物と性的関係を持つことは、動物保護の観点から動物虐待と見なされ、違法だという。

しかし、ドイツでは、世界唯一の動物性愛者団体「ZETA(ゼータ)」が活動している。メンバーたちは、実名と顔をカミングアウトしている人はわずかではあるが、動物とパートナーとして対等に愛をはぐくみ、時にセックスや性的接触をする(常にセックスを伴う関係であるとは限らない)のだそうだ。

本書『聖なるズー』は、大学院生としてのセクシュアリティ研究で動物性愛をテーマに選んだ著者が、ゼータへの取材を基に執筆したノンフィクションだ。2019年、第17回 開高健ノンフィクション賞受賞作。

日本では、セクシュアルマイノリティとして同性愛や両性愛は今や誰もが知っているが、動物性愛について大っぴらに語られることは少なく、動物性愛はセクシュアルマイノリティとは見なせない、根本的に異なる、という意見もある。

その中で、動物性愛を研究者が真正面から取り上げ、一般の読者向けに執筆した本書の意義は大きい。

しかし、もう一つの意義は、著者がこのテーマを、自身が性暴力(と殴る蹴るの暴力など)を受けた過去の経験も通して考察し、トラウマと向き合う過程も見せている点だ。

トラウマやスティグマを語ることは、語った相手からの偏見や暴言などにさらされることがあり、苦しいが、誰にも語らずに自分の内に抱え込んで生きていくことの方が、きっともっと苦しい。語れるようになるには年月を経ることが必要だろうし、語ったからといって傷が癒えるわけではない。だが、前を向いて生きていくきっかけ、自分がもう過去には支配されない強さを持つきっかけにはなるのかもしれない。

著者自身がエピローグで認めているように、本書で動物性愛についてすっきりとした回答が書かれているわけではなく、いくつかの側面について考察が述べられてはいるが、一貫した考えが提示されるには至っていない。でも、戸惑いや迷いがごまかされることなく率直につづられているところにこそ、本書の魅力がある。

動物性愛に限らず、セクシュアリティは、もっと堂々と語られたりできる社会にした方がいいのではないかと思う。抑圧されると、ゆがんでしまうだろうから。

動物とは言葉が交わせるわけではないから、動物が性的欲望を感じているかは、言葉以外から、身体からのあらゆる気配から探ることになる。著者は、言葉が通じる人間同士であっても、言葉で「イエス」だからといって、必ずしも合意とはならないと、自身の体験から語る。

この、言葉を介さずに身体でコミュニケーションするという話で、ダンスの映像インスタレーション「ON VIEW: Japan『Portraits of Dance Artists』– Video Installation 」を思い出した。この作品には、5人のダンサーがそれぞれ異なる動物と「デュオ」で踊る場面がある。動物を無理に踊らせるわけではなく、ただその動物と同じ空間にいて、観察し合い、反応し合うというものだ。それを見たとき、コンテンポラリーダンスでは、自分の体の声を聞いたり、他のダンサーと無言で体同士で交流したりすることがあるが、それができるなら、動物を相手にしても同じようにできるのかも、と思った。

著者は最後に、ゼータのズーたちが、動物との愛では、人間との愛とは違って、何らかの役割を背負って相手と対することから解放され、社会的な意味合いなどを取っ払って関係を築くことができるし、動物は人間と違って、うそをつかないし裏切らない、と言っていたことに注目している。

他者を判断する権利は誰にもなく、もちろん私にもないが、私としては、「動物はうそをつかないし裏切らない」と捉えるのは、動物性愛者の批判者の一部が「動物に(人間への)性的欲望はない」と見なすのと本質は似ているようにも感じた。それぞれ、自分にとって都合の良い解釈をしているように思える。

確かに「パートナー」までになった動物は「うそをつかないし裏切らない」かもしれないが、それは「言葉」を持たないゆえではないか?また、動物のそういう性質を人間が利用していることにはならないのか?動物のパートナーがそうだから、人間の自分もそれに応えられるよう同じようにしているから、利用しているわけではない、のかもしれないが。

だが私は、かつて動物好きの人から「人間との関係は煩わしいけど、動物は人間みたいな嫌なところがないから、動物が好き」と初めて聞かされたときに違和感があり、そのときの感覚が、本書のこれらの記述を読んだときによみがえった。動物を、面倒から逃れるための手段にしているのではないのか?

批判みたいになってしまったので、私には、動物への、そして動物と関係を結ぶ人間(動物性愛者だけでなく、動物をかわいがる人も含めて)への、偏見があるのかもしれない。

著者は、ズーたちが言うところの動物の「パーソナリティ」について、単に性質や性格を指しているのではなく、関係性の中で出てくるものであり、関係性も変質していって、それに伴い相手も自分も変質し続け、その過程が好きで受け入れていくのが愛なのかもしれない、というようなことを述べていると思う。

その愛の捉え方は、動物性愛だけでなく人間同士にも当てはまり、納得のいく説明のように聞こえる。しかし、その「移り変わっていく感じ」は、先の「動物は裏切らない」といったことに安心感を得ようとする姿勢とは矛盾するようにも感じる。

私の印象は全くの見当違いで、動物性愛者への偏見や差別にまみれているのかもしれない。それでも、自分には思いも寄らなかった価値観に、言葉だけの、本を通しただけの「体験」ではあっても、せめて出合いたいと思ったので、本書を読んだ。読んでよかったと思う。


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