導火線

 小四の頃にこんなことがあった。
 僕のクラスには青原祐樹というクラスメートがいた。外交的でよく喋り、誰とでもすぐに仲良くなれるタイプの活発な子だ。
 だが一つ欠点があった。彼はよく嘘をつくのだ。例えば皆で増え鬼ごっこをしているとき、彼は鬼に触られてもしばらくすると自分が逃げ側の人間であるように振舞うのだった。僕は何度となく、彼が捕まったのを目撃した後に彼が逃げ集団に紛れているのを見たことがあった。
おそらく他のクラスメートも彼のそのような常習的虚偽に気付いていたと思う。だが、それを差し引いても、彼の明朗さや溌溂とした性格は僕たちを幸せにしてくれたので、誰も彼の嘘を表立って追及したりはしなかった。彼の嘘には目を瞑るという暗黙の了解のようなものが僕らの中にはあったのだ。それに触れてしまえば、彼の朗らかな性質のすべてが失われてしまうかのように。

 事件が起こったのは夏休み明けだった。僕のいた4年3組には、教室の後ろの棚の上に大人がやっと抱えられる大きさの水槽があって、その中でメダカを飼育していた。クラスの生物係が毎日交代で餌をやったり、定期的に水槽を掃除したりして、クラスの皆で可愛がっていた。

ある朝、登校して教室に入ると生物係の一人である咲ちゃんがひどく困惑した様子で水槽の前に立ち尽くしていた。僕の隣の席の子だ。僕は彼女に何かあったのかと聞いた。
「いいひんねん、一匹……メダカ全部で八匹いたのに、七匹しかいいひんの。」
「…ちゃんと数えたん?」
「数えた。あたし毎日数えてるもん。」

 僕も水槽をのぞき込みながら数えてみようと思ったが、数えている最中にメダカが動くのでなかなか数えられない。
「こつがあんねん。」咲ちゃんは得意げにそういって水槽に顔を近づける。「水槽をな、右と左で分けて右は右で、左は左で数えるんよ。」
彼女の助言は効果的だった。
彼女の言う通り七匹しかいない。水草や石の陰に隠れているのかと思ったがやはり最後の一匹が消えていた。
 僕は戦慄した。鉛のような重たい息苦しさが胸を満たした。その犯人が青原祐樹だと知っていたからだ。

 この前日の放課後、おそらく17時頃だったと思う。僕は宿題の漢字ドリルを自分の引き出しの中に忘れたことに気付いて学校に取りに戻った。
生徒用の玄関は閉められていたので教職員用の玄関から入って4年3組に向かった。
誰もいない教室が立ち並ぶ廊下には夕焼けの光が差し込んでどこか幻想的にも見えた。いつもとは違う日常の一面だ。僕のクラスまで教室三個分というところで僕は足を止めた。
 4年3組の向かい側には中庭に繋がる両開きのドアがあるのだが、3組からそのドアめがけて青原祐樹が飛び出して中庭に出ていったのだ。つまり彼が僕の前を素早く横切ったことになるが、彼は僕に気付かなかった。普段ニコニコしている彼の横顔には、張り詰めたような緊張が見てとれた。僕は彼を追いかけてみようかと思って彼が飛び出していったドアに近づいたが、彼の姿はもう中庭には無かった。中庭はグラウンドや校舎裏にも繋がっているので彼はそちらに行ったのだろう。こんな時間に一人で何をしていたんだろう。僕は疑問に感じたが、どうせ明日尋ねればいいかとそれほど気に留めずに教室に入った。
 誰もいない教室。整然と並んだ机の群れを抜けて一番右後ろにある僕の机から忘れ物を回収した。

 そのとき、僕は床がいくらか濡れていることに気付いた。まるで水滴を散らしたように見えた。よく見るとその水滴はある方向に続いている。僕はそちらに目をやった。水槽があった。そして水槽の中の水は微かに波打っていた。さらに観察すると水槽に近いところほど床を濡らす水滴が多くなっていることに気付いた。つまり床を濡らした水はもともと水槽の中にあったことになる。
 祐樹はここで何をしていたんだろう。水槽の掃除でもしていたんだろうか。彼はもしかしたら本当は生物係になりたかったのかな。だとすればさっき見た彼の緊張で引きつった表情に納得がいく。生物係の仕事である水槽の掃除を勝手にしたのだからある程度の危険意識があったのだろう。普通に生物係の人に頼んでやらせてもらったらよかったのに。僕はそう納得して家に帰った。

 しかし、その翌日にメダカが一匹消えたことが発覚した。
 昨日の放課後に僕が見た状況証拠から考えると、青原祐樹が水槽のメダカを捕まえてどこかに持ち去ったことになる。彼が僕の前を横切って行ったとき、彼は何も持っていなかった。だから彼はおそらく素手で水槽に手を入れてメダカを一匹捕まえたのだ。そして彼は教室の向かいのドアから中庭に出てどこかに消えていった。これは水槽の中の水が揺れていたこととも、床が濡れていたこととも辻褄が合う。

「先生に言ったほうがいいんかな。」
咲ちゃんは僕にそう尋ねた。僕は平静を装いつつも、あまりに実際的な恐怖を感じていた。青原祐樹の席は左前の方にある。僕の席とは対角に位置しているのだが、僕はそちらに恐る恐る目をやった。彼はまだ来ていなかった。

「なあ、聞いてる?」
咲ちゃんは無視されたことが不服だったらしく、少し乱暴にもう一度僕に尋ねた。
「……とりあえず、先生には言っとこか。」

 その後、チャイムの鳴る五分くらい前に青原祐樹は教室に入ってきた。僕は自分の席から目を細めながら彼を見ていた。いつも通りの青原祐樹だった。闊達で、陽気で、よく喋り、よく聞く、皆が愛する青原祐樹その人だ。昨日、教室から飛び出して僕の前を横切って消えた彼とはまるで別人のように感じられた。彼は周りの席の子たちと笑い合いながら会話をしているが、僕はその天真爛漫で無邪気な笑顔が、どす黒くて邪悪な事象を覆い隠しすための頑丈な蓋のように見えた。そしてその蓋は突如として開かれてしまった。本来誰にも見せないはずのものを、僕は見てしまった。僕は禁忌を犯した背教者のような気分だった。

「でもやっぱりおかしいって。昨日帰る前にも数えたもん。」隣の席で咲ちゃんはずっと僕に考えを訴えていた。「だって死んだんやったら浮いてくるやん。うちでもメダカ飼ってるけど、死んで沈んでるの見たことないで。やから…」
「…やから?」
「誰かが持っていったんちゃう?」
「…なんでよ?」
「知らんよそんなん。欲しかったんちゃう?」
ここで咲ちゃんに話してしまおうかとも考えた。しかし僕が昨日見たことを話してしまえば、僕らの好きな青原祐樹がもう戻ってこないような気がした。彼の罪を暴いてしまえば、彼の良い性質の全ては深淵に放り込まれ、永遠の虚無に吸い込まれるようにして二度と僕らの前に姿を見せない予感があった。だから僕は、彼の秘密を僕の秘密にすることにした。僕が勝手に秘密を守れば、彼はメダカを拉致する青原祐樹ではなく、僕らの好きな青原祐樹のままでいてくれる。

 その後ホームルームで先生はメダカが一匹消えたことをクラス全体に伝え、何か知っていることがあれば知らせてほしいと言った。その知らせで2年3組はどよめいた。全員がメダカ一匹の不在に対して持論を展開させた。
「実はもともと七匹しかいいひんかったんちゃうん?」
「そんなんありえへんって。毎日一匹数え間違えへんやろ。」
「じゃあやっぱり誰かが盗んだんちゃうん?」
「でもメダカなんてどこでもいるで。わざわざ学校から盗むっておかしいやろ。」
「確かに。」
「野良猫が入ってきて食べちゃったとか?」
「やとしたら水槽の周りがめっちゃ水浸しになってそうちゃう?猫が暴れまわって。」
「時間たってるし乾くんちゃうん?」
「もし猫やったら一匹だけじゃなくて全滅させそうやけど。」
「あの水槽けっこう深いから猫は捕まえられへんのちゃうん?」
「猫は水が苦手って言うで?」
「やったらこういうのは?昨日私らが帰ったちょうど後に一匹死んで浮かんでて、そこに野良猫が入ってきてその浮かんでる一匹だけ食べたんちゃうん?」
「ありそう。」
「それはありそう。」
真犯人である青原祐樹も皆と同じように議論の輪に加わっていた。まるで本当にメダカが消えた理由を知らないかのように、無辜の顔をしていた。
 結局最終的には死後野良猫侵入説が最有力説となり他の追随を許さなかった。その説に対して先生も「それはありそうね。」とその整合性を称賛した。そうして僕以外の誰も真実を知らないままに事件は幕引きとなった。

 僕はこの日、青原祐樹に対して「ばちが当たるぞ」と思っていた。常日頃から悪いことをすればバチが当たって報いを受けるのだと教えられていた。僕が嘘をつくと父さんはよく「嘘つく子にはバチが当たるで」と言って戒めた。
 「バチ」が具体的にどういったものであるかの説明はなされなかったが、子供ながらにバチを恐れ、その恐れから悪事を控えるように心がけた。また神様が一体どんな容姿をしているのかも教えてはもらえなかったが、本や絵の中で出てくるように、白い衣をまとった神秘的な老人が白いふさふさした髭をたくわえて、後光の差す天から降臨する光景を想像した。きっと神とはそんな姿をして善を行うものを助け、悪を行うものを挫く。

 だからこそ今回のことで青原祐樹はバチが当たってしかるべきで、神様はきっとこの悪事を無視しないはずだ。きっと僕が暴露しようがしまいが、彼はその代償を払うんだろう。彼にはバチが当たるんだ…
 そうしてその一日は終わった。家に帰ってから母さんにそのことを話そうかと思ったが、僕が悪事を知りながら黙っていることを知られたくなかったし、母さんから情報が洩れてしまうことを懸念した。
 僕はリビングでテレビを見ながら、それにしても動機はなんなんだろうかと考えていた。もしメダカが欲しいのならやはりどこかの川や池で捕まえてきた方が圧倒的に楽だし安全だ。わざわざ誰かに見つかる危険性があるのにクラスのメダカを盗んだとは考えづらい。なら一体どうして………

 その時だった。

 テレビが突然切り替わって速報に入った。僕は一瞬思考が停止して何が何だか分からなくなった。ニュース速報のために画面がスタジオのキャスターに切り替わるという特殊イベントは僕にとってこれが初めてだった。
 画面の中の女性キャスターは手元にある急遽こしらえた資料にせわしなく目を配りながら、これから自分が言わなければならないことを懸命に頭の中で整理しているようだった。
 まだ小四だった僕にでも、キャスターの緊張した面持ちと彼女の背後で右往左往しながら忙しく動き回っているスタッフたちの様子から、何かとんでもない緊急事態が起こったことが理解できた。
「ええー番組の途中ですが報道センターから緊急ニュースをお伝えします。ニューヨークの超高層ビル、ワールドトレードセンタービルのツインタワーに二機の航空機が突っ込み、ビルは現在も炎上しています。死傷者などの詳しい情報は入っていません。」
画面が切り替った。高く並び立つ二つの超高層ビル、その両方の上部に真っ黒で巨大な穴が顔を見せていた。その穴からは空を埋め尽くしてしまうかのような黒煙が際限なく吐き出されていた。僕には状況が掴めなかった。突然映画が始まったのかと思った。
「アメリカのCNNテレビは、相次いで二機の航空機が突っ込んだことから自爆テロの可能性が高いと伝えています。」

 ジバクテロ?僕にはまだその言葉の意味はよく分からなかった。僕はリビングで一人、テレビの中で起こっているジバクテロの映像に釘付けになっていた。炎上しながら黒煙に巻かれている一対のビル。キャスターは淡々と情報を伝え続けていた。
遠いアメリカで何が起こっているんだろう?
 母さんがリビングに入ってきた。
「あ、お母さん。」僕はテレビを顎でしゃくった。「見てやこれ。速報やって。なあなあ、ジバクテロって何なん?」
母さんは驚いたようにテレビを凝視して何か考えている様子だった。僕は母さんがこの時ほど険しい表情になったのを他に知らない。
「…本当にここまでするんだ、この人たち。…よく見ておきなさい。」

母さんはほとんど独り言みたいに言ったが、その声には母親的な厳かさと厭世的な響きが共存していた。
 その後に母さんは教えてくれた。テロリズムというのは言論における抗議が無駄だと判断した場合に行う暴力を用いた抗議、主張のことを指すのだと。なかには最初から暴力に頼る怠け者もいるらしい。

「これで戦争が始まるよ。報復戦争が。」

戦争。

僕はそれまでにも何度もこの言葉を聞いたことがあった。僕の住むこの日本もかつては戦争をしていたのだと学校で教えられた。当時は世界中が戦争をしていて、たくさんの人が死んだ。
 そして今でも日本から遠く離れた異国の地では民族や宗教、資源を巡っての戦争で人が死んでいる。先生は神妙な顔をして僕らにそう教えた。でも僕からしてみればそんなことはどうでもよかった。僕の周りはどこを見ても平和で、爆弾が落ちてくることも無いし、銃弾がとんでくることも塹壕を掘る必要もなかった。あまりにも恒常的な平和を享受していた僕らにとって戦争というものは僕らの住む世界の外側にあった。だから戦争という言葉自体、何の現実感も持たずに僕の辞書の中に刻まれていた。
 だがこのとき母さんが発した戦争という言葉は、あまりにも現実的で重苦しい響きをまとっていた。明日から僕の住む世界にも戦争の成分が含まれるようになると予感した。僕が呼吸をすれば僕の肺に入り込んで体に宿り、血液にも肉にも骨にも、戦争によって吹かれた風を感じるようになる。立体的な戦争が僕の日常に浸透してくると思った。

 その後、ベッドに入ってから青原祐樹のことを考えていた。
 僕にはまるで昨日の放課後に彼が実行した悪と、さっきの自爆テロが何らかの関係を持っているように感じられた。
 飛行機がビルに突っ込んで人がたくさん死んだ。犠牲者の一人ひとりに家族がいて、恋人がいて、友達がいる。この事件で傷を負うのは実際の死者数の何倍なんだろうか。これほどまでに強烈で巨大な悪がまるで、青原祐樹の行った微弱で矮小な悪に呼応して起こったことのように思えた。

 あの炎上しながら黒煙を上げ続けるビルと、僕の前を横切って消えた青原祐樹の横顔には共通項が隠れていて、彼がメダカを連れ去ったことでその隠されていたものが初めて表面化したのではないか。彼がメダカを連れ去ったのは、その悪の呼応、もしくは共鳴のためだったのではないか。だとすればそれは成功し、二機の航空機はハイジャックされてビルに突っ込んだ。
 今、彼はテレビの前でどんな顔をしているんだろう。炎上する一対のビルを前に、彼はほくそ笑んでいるのかもしれない。自分が発した小さな火の粉が引火し、遠い国で大火となって多くの命を焼き払うのを、彼は輝かしい戦果のように見ているのかもしれない。それでも彼はまた、今日と同じように無垢な顔で人の群れに紛れて馴染んでいく。純白な笑みを顔に張り付けて、内なる悪の漏洩に蓋をして生きていく………

今考えてみても、どうして僕がこのような結論に、つまり隔絶された二つの悪が共鳴したなどという考えに至ったのかは分からない。
 しかし僕にはそれが現実感を伴って感じられたし、そこには何か有無を言わせぬ切迫した戦慄があった。彼の見せる笑顔の延長線上に、あの炎上する悲劇と悪意が存在するのだと僕は疑わなかった。

そして翌月、二匹目のメダカが消えた。
同じ週にアメリカがアフガニスタンを空爆した。

僕は青原祐樹を告発した。
彼は不登校になり、数えきれないほどの兵士や市民が爆撃で死んだ。

 あれから11年が経った。
 大学生になった今でもたまに彼のことを考える。これから寝入ろうと暗い天井を見上げるとき、夕暮れの家路につくとき、こうした瞬間にふと、彼があの後どんな人生を送っているのかを考えてしまう。その度にそれが、まるで考えてはいけないタブーのように感じられるのだ。
 それはきっと罪悪感のせいかもしれない。彼が不登校になったのが彼自身のはたらいた悪事が招いた帰結であることは間違いない。しかしそのトリガーを引いたのは紛れもないこの僕だ。僕は彼を失脚させる思惑で、一度目の犯行の証言を先生に話した。決してそこに悪意はなかった。ただ純粋な、悪に対する恐怖と幼い使命感に突き動かされたのだった。彼が学校に来なくなった後も、僕は彼に微塵も同情を感じなかった。

 しかし今は違う。僕はあのまま黙っているべきだったとはっきり意識するようにさえなった。たかがメダカのために、たかが生物係の悲哀のために、彼の輝き続けたであろう人生の線路の枕木を破壊した僕はきっと悪なんだろう。もし彼が今後、何か大きな悪に手を染めることになれば、その悪の導火線に点火したのはきっと僕なんだろう。

サワタリ


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