玩具様形態変性症/急性形態変性症候群(マーメイドシンドローム)・7
海沿いを走る快速列車のロングシートに座って、膝の上に置いたぬいぐるみを抱えなおす。昨日まで恋人だった人のなれのはてがこれだ。三年ぶりに会い、一晩かかって愛し合い、重なったまま眠った。そして目が覚めたらぬいぐるみになっていた。
はじめは自分を置いていなくなってしまったのだと思った。会う回数も減っていたし、他の誰かといても不思議ではない。返事がない、あっても遅いのはいつものことだが、自分ももういい歳だし、いつか飽きられてしまってもしかたないだろう。そう思っていたのだ。だが、服や靴、財布にケータイ、荷物も全部残されていた。さすがに裸で外に出るほど馬鹿じゃないだろう。そして代わりにここにあるぬいぐるみ。あまり考えたくはなかったが、恋人は人の形でなくなってしまったのだ。明け方、意識が途切れる寸前の「ヤバいかも」という言葉が聞こえた気がしたが、あれは空耳ではなかった。最後になにか残す余裕もなかったのだろう、無理やり自分を納得させるためにもそう考えるしかない。
チェックアウトの時間も迫ってきたので、慌てて身支度をして二人分の荷物とぬいぐるみ……になってしまった恋人……を抱え、外に出てきた。行くあてはないが、いつまでもここにいるわけにもいかなかった。フロントの人は来たときの倍以上の荷物を抱える自分を見てなにを思っただろう。
路線図も時刻表も見ずに来た列車に乗った。海が見えたり見えなくなったりしながら走る列車はやがて山の中の県境の辺りまで来て、終点だからと降ろされた。列車に乗っているあいだも乗り換えの列車を待つ間も、どうしてこんなことになってしまったのかを考えた。
ある日突然、人の身体が別の物質になるという現象が見られるようになってずいぶん経つ。自分の身の回りでは(幸いにしてなのか、たまたまそうだったのかはわからないが)遭遇することはなかった。テレビで喧しく報道されていた頃は怖いと思ったが、どこか他人事のような気がしていた。まさか自分たちの身に起こるとは思っていなかったのだ。よりによって今、それもぬいぐるみになるなんて。冗談が過ぎる。
乗り換えのホームに立ち、しばらくしてやってきた列車に乗った。ロングシートはその前に乗っていた誰の気配もなく、間を置かずしてそのほとんどが埋まった。見てくれと荷物が異様だったからか、自分の隣には誰も座ろうとはしなかった。
県を跨ぎ、山地を抜け平野に入る頃、住宅街が見えてくる。無意識のうちに恋人の家に向かっていることに気がついた。少なくともこの荷物は返さなくてはならない。住んでいる場所は知っていても家族構成までは知らない。しかし、他に誰かが住んでいたとして、どう説明したら納得してくれるだろう。自分たちは恋人同士と呼ぶには状況が特殊すぎる。家族から人殺し、と言われてもしかたがないとさえ思う。
何度かずり落ちそうになるぬいぐるみを抱え直し、手を握る。その熱が自分のものなのか、ぬいぐるみになってしまった恋人の熱なのかわからなくなっていた。形が変わったとして、もともとの体温はどうなってしまうのだろう。
マンションの前まで来た。オートロックが邪魔をして入れない。そういえば前に来た時も部屋にいるのかどうなのかわからず、そのまま帰ってきたのだった。あの時は寝ていたと後から連絡が来たが、それが本当のことかどうかは確かめなかった。
管理人に入らせてもらえないか聞いてみた。やはり部外者は入れてはもらえないようだった。当然、ここに誰と暮らしているのかなどということは教えてもらえるわけもなかった。仮に一人だったとして、もう主の戻ってくることのない部屋をどうするのか、それは自分にもわからない。家族がいたとしたら、突然いなくなってしまったことを知れば半狂乱になってしまうかもしれなかった。
まるで犯罪者だ。自分はこういう時にはなんの役にも立たないことを確認するしかなかった。これ以上誰にも気づかれないうちにマンションを後にし、再び列車に乗る。ぬいぐるみは目立ちすぎる気がして、カバンの中に押し込んでしまった。窮屈だろうが許してほしい。何度も声をかけた。最寄駅に停めてある車に乗ったら出せばいい。それまでの我慢だ。
うとうととしそうになると、膝の上が騒がしくなる。そこを見ても何もない。またしばらくすると荷物がゆすられるような、暴れるような、ペットが落ち着きをなくしてケージを揺らすようなそんな感覚があった。荷物を見ると、少しジッパーが開いて、そこからぬいぐるみの姿が見えるようだった。やはり窮屈か。人目は気になるが、不審な動きに気づかれても困るので、仕方なく出してしまうことにした。こちらを見るぬいぐるみの顔はいくぶん怒っているようにも見えた。
「家に着くまで我慢していてほしかった」
つい声に出た。隣に座っていた、まだ小学校に上がっていないくらいの子どもがぬいぐるみをじっと見ていた。
「おじさん、このくまさん、どうしたの?」
なんの疑いもなく、聞いてきた。
「これはね、おじさんのとても大事なモノなんだよ」
しばらく考えて出た答えがこれだった。とても大切なもの。もっと話をしたかった、もっと自分を知ってほしかった。知りたかった。たが、それは二度と叶うことはないだろう。こんな姿になってしまって。
「くまさん、おじさんのことがだいすきって言ってるよ」
「それはうれしいなあ。君はくまさんが言っていることがわかるんだね」
「うん、だってさっきから何回もおじさんに話しかけてたよ。おじさんとずっと一緒にいたいって」
ね、と子どもはぬいぐるみを撫でた。ぬいぐるみはやっと伝わったという顔をしているように見えた。
私は人目を憚らずに泣いた。
(ヘッダ画像はぱくたそより。)