先生に褒められる読書感想文みたいな人生じゃなくていい
2,300文字 少し長い文章です。よろしければ、お付き合いください😊
どんなことを書いたら、大人が喜ぶか、
ということは知っていたと思う。
小学生や中学生の頃は、読書感想文とか、少年の主張とか、自由研究とか、英語の弁論大会とか、
ほんとうに田舎の出身で、目立つことも好きなタイプではなかったのに、
なんか色々やらされた。
小学校の時の自由研究は、半分は親の作品だったのではないかと思う。
雲の研究。家系図とかやったかな。
学校ではいじめに遭ったという記憶はないのだけれど(小中高大)、
あんまり馴染んでもいなかったと思う。
昔から集団行動は苦手だったし、女子同士でつるむ、というのも苦手だった。
いちおうその組織なり部活なりに所属はしていて、いちおう活動はまじめにやっていたのだけれど、
なんかどこかいつも満たされないというか、
わたしの居場所はここじゃないな、
という感覚があったと思う。
読書感想文や、少年の主張ではたぶん、こんなことを書いたら大人は喜ぶだろう、とか、
このラインがギリだな、みたいなことは子ども心になんとなくわかっていたと思う。
中学校の時のALTの先生は、アメリカのテネシー州の出身のいわゆる"黒人"の先生だった。
わたしの、世界に対する興味の窓を開いてくれた先生だったと思う。
中学校では勉強と部活(新体操)とピアノの練習に明け暮れていたけれど、
あんまり、居場所らしい居場所を実感することはできなかったような氣がする。
その違和感を言葉にすることは、当時の私には難しかったのだと思う。
それが感情となってあらわれたことがあって、
放課後、涙があふれてきたことがあった。
それをたまたま目にしたジェミソン先生。
私に、英語で手紙をくれた。(英語の先生の日本語訳付きだった💦)
その手紙には、こう書いてあった。
「君みたいな頭のいい生徒が泣いているのを見たくないよ。
学校生活では、いろんなことがあるものさ」
その優しい言葉に、私は涙し、そして励まされた。
当時、ジェミソン先生は、大学を出たばかりだった。
当時の私は、"仕事として"生徒に関わっている日本人の先生の多くとは違うものを、ジェミソン先生に感じていたと思う。
それはたぶん、立場は先生と生徒なのだけれど、
私のことを、ひとりの人間として、認めてくれている、
その目線を合わせてくれた視線というか、愛情のようなものだったのではないかと思う。
私はその手紙を大学生で一人暮らしをした部屋にも持っていき、押入れのダンボールのなかにずっと大切にしまっていた。
私が生まれ育った環境はものすごい田舎で、
なにもないところだったので、
(また当時は学歴信仰が今よりもずっと強い時代だったと思う)
この環境を抜け出すには、勉強を頑張って、大学に入るしかないと思い込んでいたと思う。
地元は田舎すぎるからか周りの人達にもあまり馴染めなかったので、高校も県外の進学校を選んだ。
中学は、人をいじめるような子もいたけれど(教室で、1人の子のカバンをひっくり返して複数人で笑ったり)
その高校では、みんな勉強と部活で必死で、
少なくとも私の知るかぎり、
誰かをいじめて喜んでいる人なんて、1人もいなかった。
私の中学の時の卒業文集の言葉は、「女はこわい」だった笑
かわいい顔をした子や、体格のいい男子がそんなことをしていた。
でも、都会の学校や、今の小学生とかの方が、
いじめはもっと陰湿なのかもしれない。
(今日、道すがら女の子をいじめて泣かせながら歩く女の子がいて(部屋から聞こえた)、心が痛んだ)
でも、なんだかんだいって、学生時代を通して私が一番得意だったのは、文章を書くことだったのかもしれない。
だから、自分には何もない、と思ったドイツのNGO活動帰り、
大学院に進学することにしてしまったのかもしれないとも思う。
修士論文もおそらく、たいして当たり障りのないものだったのだと思う。
だから褒められもしたと思うし、評価もしていただいたと思う。
でも、私の本音は、行動で示されていた。
言葉の体系は、やはりどうしても権力構造からの縛りから自由ではない。
それを覆す言葉や、違う種類の言語もあるとはいうけれど(文学の言葉)
どうなのかな、本当の本音の本音やその人らしさは、言葉よりも行動とか、身体を介した表現(ヨガもたぶんそう)の方にあらわれるのだと思う。
だから、私の場合は、性的なことを文学などでも表現することには氣が引けるし、
男性でも女性でも、そういうことをあけすけに書いている文章には、
正直嫌悪感すら、感じる。
そんなことは、他者に表現する必要、あるのだろうかとも思う。
大切な人のことは、大切に胸にしまっておけばよいと思う。
人の性の在り方というのが垣間見えることもあるけれど、
ほとんど興味がない。
だから、人に関心を持ち過ぎる人の気持ちはあまりわからないかもしれない。
その人はその人、私は私。
それでよいではないか?
人に説明する必要もないけれど、自分(たち)のなかでは筋は通っていること、というのもあると思う。
なんの話をしていたのか?笑
まぁいいや。
とりあえず、人間の世界はいじめだらけであるらしい。
でもこんな私も、やられたらやり返す、ということも覚えてしまった。
こちらから仕掛けることは、ない。
(と思っているけれど、相手はこちらになにかしらの脅威を感じるからマウントを取ろうとして複数人でくる、あるいは自分の"下"に組み伏せて利用したがるのかもしれないが)
私の場合、かなりの人数で来られることもあるみたい笑(人間でないものを扱う人も含む)
でも負けない。
やりたいだけやらせたら、
こっちが仕返しをする"正当な"根拠ができる。
周りの人もそれをずーっと観察している。
人間の世界は、法の体現やら、倫理ばかりでは成り立っていないようだ。
(そもそもの、支配の仕組み自体が、そうだ)
とはいえ、暴力ばかりがまかり通るわけでもない。
さぁ、わたしたちはこれから、どうやって生きていこうか?
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