じんじん

 人を眠らせることのできる存在をこそ神と呼ぼう。

 入眠のコツ。しばしば眼は遠覚と言われ、それ故に支配や暴力の代名詞を担ってさえいる。そんなときには決まって聴覚やら触覚やらがより一層内密で繊細な感覚として称揚されるのだ。入眠の問題はもしかしたら、そのような行論に異を唱えるものかもしれない。

 入眠したければ、私は他ならぬ、眼にならなければならない。そもそも入眠するために私がする第一のことは、眼を閉じることではないか。眠る能力は眼によって実行される。さて眼を閉じると、さしあたり――とこう私が一応の留保をつける理由は、「盲目の事例(1)」で述べられている――視覚が失われる。すると次に起こるのは、逃走である。即ち、視覚という居場所を失った私の意識は、他の諸感覚へと逃げていくのである。雨音、家鳴り、汗の匂い、歯磨き粉の後味。そしてとりわけ、じっとりした布団との接地面の触覚だ。視覚を追われた私は、触覚で目覚める。腕が勝手に世界を見始める。肥大化した触覚が飽満した疼きとなって、視覚なき存続を終わらせまいとする。触覚は世界を見張っている(『知覚の現象学』)が、しかし世界とはとりもなおさず私なのだから、触覚は私を見張っているのである。私は眠ることがない。

 だから、入眠するためには、私は絶えず諸感覚へ逃れようとする私を牽引して、努めて眼へと縛り付けなければならない。音(ひいては内言)や匂いや味や厚みが湧いてきたら、それをすぐさま無の視界へと雲散させよ。メロディーを拒絶せよ。全てを閃輝暗点へと分解せよ。やがて体中から感覚が、とりわけ触覚が脱落していくのが分かるだろう。そのまま、眼球の内奥感、眉間への"あてがい"に同一化せよ。無の視界の中で、なおも何かピントが揺れ動くかのように感じられるかもしれない。それは、失われたはずの視覚になおも私が留まっていることに対する動揺の表現なのだ。だが、それもその内わかってくれることだろう。私は今ここで果てようとしているのだという決意を。


 目覚めているとき、我々はさしあたり眼である。しかし眠るときにはそうでなくなるかといえば、むしろ眠るときこそ我々は眼にならなければならないのだ。


君が眠られることを祈っているよ、と念じて、夜鷹がそのことで眠らずに夜を明かしたことは言うまでもない。

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