奉献のインティチュマ、あるいは推しファンクラブへの月額課金について(「宗教生活の基本形態」一部感想)

 デュルケームの「宗教生活の基本形態」を読んでいる。そのうちの「奉献のインティチュマ」という概念が、最近見た「無職なのに生きてほしいと思った漫画家に月額5000円課金してた」というnoteに似ていると思った話。

 少し前に、贈与ってなんだろうね、という話をわちゃわちゃとしていた結果、様々な個人の体験が引き出され、いろいろな文章が生まれた。
 この「無職が1タイトルに月5000円突っ込んだマンガ」というnoteは、「強く感情を揺さぶられた漫画を見て、作者に生きててほしいという気持ちが高まり、無料で見れるのに月額5000円プランに課金した」という話である。詳しくはぜひリンク先を見てほしい。


 「奉献のインティチュマ」は、「宗教生活の基本形態」の第三部第二章、「積極的祭祀──一、供犠の諸要素」にある概念である。
 「インティチュマ」については詳しく話すと長くなるので、とりあえず「(供儀と訳される)何らかの儀式」という意味だと思ってほしい。奉献のインティチュマは、ざっくり言えば「信仰対象(この本ではトーテム)に貢献するよう身を捧げる儀式」と言う意味だ。

 オーストラリアのトーテミズムをやっている部族(トーテムはすごく雑に言うと「(自分と関係している)信仰対象」くらいの意味、トーテミズムについてはこれも話すと長くなるので各自ググってください)によく見られる儀礼の形態として、「トーテムを象徴するなんかすごい聖なる石にいろいろちょっかい出してみる」というのがある。例えばイモムシトーテムの部族は、イモムシ(食用)を象徴するすごい石を少し削って粉末にし、その粉をばらまくことで「イモムシが増える!」と信じている。
 聖なる石へのちょっかいの出し方の一つとして、人間の力を石に流してみる、というのがある。人間の基本的な活力源として、血液がある。トーテムと人間は同じ原理で動いている(と彼らは信仰している)ので、「血の巡りが良くなると人間は元気になるから、トーテムを象徴する石に血液を流せばトーテムも元気になるはず」と思うのである。こうして、部族長たる老人が若者に「静脈を切れ!」と言い、若者は静脈をスパッと切り、石が血液まみれになるまで血をドバドバ流すという儀礼が行われる。


 「生きててほしい漫画家への月5000円課金」はこれに似ているんじゃないかと思った。「金は天下の周り者」と言うように、金は人間の経済を回す潤滑油として働いている。金は人間の血液にかなり似ている、ということができる。
 「トーテムを象徴する聖なる石への血の奉献」は、「無職がない袖を振ってなんとか工面した月5000円の有料ファンクラブへの課金」に似ていると思う、そう思いませんか?


※例えとして、「一時の投げ銭」ではなく「月額課金」にしたのも意味があるのだが、これも説明が面倒なので詳しくはやらない。儀礼は周期的なのだが、これは季節の変わり目、つまり「自然の神(≒トーテム)が弱る」タイミングで行われる。つまり神への月額課金は、「素晴らしい神、死なれたら困る。生きててほしい!」の気持ちから行われるのである。


以下「宗教生活の基本形態」から引用。

>自然のこれら周期的な衰えが示しているのは、これに対応する期間、動物や植物、雨などが依存している聖なる諸存在も、同じ危機的状況にさらされている、という事実である。したがって聖なる諸存在にも減退期があるのである。しかし人間はこのような光景に対して、冷ややかな傍観者として立ち会うことはできなかった。生きるためには、万物の生命が存続しなければならず、したがって神々が死んではならないのである。それゆえ人間は神々を支えて助けようとする。そのために彼は、自分の意のままになる諸力を、その場に応じて動員して、これらの存在に役立たせる。静脈を流れる血液は豊饒をもたらす効力を有しているので、彼はこれを流す。自分の氏族が所有している聖なる岩のところに、そこに眠っている生命の胚珠を取りに行き、これを空中に撒き散らす。要するに彼は奉献したことになる。
>季節の移り変わりは、自然にとっては危機的な期間であるので、それは集結の、したがって宗教的儀式の、当然の機会となる。




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