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IV. 黙示録の7シリーズに秘められた預言② 第6・第7のラッパの間(1):教会の召し/働き(10章)

第6・第7の封印の間の幻では、教会こそがキリストにある神の民だという、教会の救済史的位置づけが明らかにされました。キリストの贖いによって、神の僕たち、つまり、御父なる神のもと、イエス様を長兄とする兄弟姉妹たちとなるべく人々が、すべての国民、部族、民族、言葉から招き出されている――その数が満ちるのを待っているのが今なのだと。(その拡大は、ちょうど5章の最後で、巻物が開かれて、神と子羊への礼拝がクレッシェンド的に広がっていく様に呼応するようです。)

その教会に、キリストに与えられた巻物が開かれ、御使いが幻を見せていくこととなる(ラッパ・鉢の一連の幻)のですが、第6・第7の封印の間に幻が挿入されたように、第6・第7のラッパの間にも幻が挿入されています。さて、ここでは何が記されているのでしょうか? 

ヨハネに託された預言

第6のラッパの後、いよいよ最終第7のラッパが吹かれるかと思いきや――第5のラッパに即して宣告され3つの災い(8:13)のうち、第1が過ぎ去り、来るべき残り2つ(9:12)はどうなるんだろうと思う中――突如、強い御使いが天から下ってきます(10:1)。黙示録には、すでに見てきたように、様々な御使いが登場します。けれども、「強い御使い」となると、そうではありません。強い御使いが先に登場したのはどこだったでしょう? 一連の幻の最初の天における現実(4-5章)の後半、天での完璧な礼拝描写に続く大問題、封印された巻物(と小羊による授受)のくだりです(5:2)。この繋がりを見逃すことがないように! とのことなのかなと思わされます。第7のラッパが吹かれ、最後の災い到来する前に、この御使いは、何を知らせるのでしょうか? 

ここでは、強い御使いは、小さな巻物を自らの手に持って登場します(10:1-3)。そして、7つの雷の封印(10:3-4; 下記、補足※メモ参照)、第7のラッパでの神様の秘儀(=預言者たちへの良き知らせ)の成就を宣言/予告(10:5-7)した後に、その巻物をヨハネに渡しました(10:8-10)。とうとう終末の預言が、御使いからヨハネに渡るのです! 

その内容の前に… 5章の巻物(ビブリオン)と10章の小さな巻物(ビブラリディオン)の違いについては、前者が全世界にまつわるものとすれば、後者はそれぞれの時代、状況で適用されるもの、つまり、ヨハネ(またヨハネと同じ僕、兄弟であるキリスト者、教会)が自らの分として受け、自分のものとする分になるでしょうか。黙示録が、神からキリスト、御使い、そしてヨハネ、さらに宛てられた教会に共有するようにと明らかにされたもの(1:1)とすると、核心はいよいよここからとも言えるでしょう。第7のラッパが吹かれ、神の奥義、つまり預言者たちに告げられた良い知らせ(10:7)が成就する前に、神と子羊の日が到来する前に、ヨハネ、また教会が、知らされ、語るべき預言の内容がここから描かれます。その預言をもって、教会は、最後の災いを前に、子羊とともに戦い、ともに勝利を治めるよう招かれているのです。

ヨハネ、巻物を食べる!(10:9-11) 

 ヨハネが巻物を受け取って食べるという行為は、預言者エゼキエルにも命じられたことでした(エゼキエル2:8-3:3)。ただし、エゼキエルが遣わされ預言したのはイスラエルの家のみで、エゼキエルが受けた迫害はイスラエルの家の者たちにのみでした。しかし、ヨハネ(と教会)は、イスラエルを超えて、多くの民族、国民、言葉の違う民、また王たちについて預言することが求められるのです(10:11)。しかも、先取りすると、敵対するのは、単に人ではありません。その奥に潜む獣(サタン)なのです。エゼキエルの受けた迫害にも増して、主キリストに倣い殉教することも心すべきこととなるのでしょう。もう一度(新たに)と言われる所以であり、その重荷の故に、口に蜜のように甘いだけでなく、腹には苦いものとなるのです(10:9-10)

さて、ヨハネが食べた巻物には、一体どのような預言が記されているのでしょうか? 先んじて提示すると、11:1-13で、預言の概要(意義、効果)を示唆する2つの象徴的な幻が提示されます。そして、第7のラッパ(11:15-19)を経て、大きなしるし(12:1, 3; 15:1)をもって、預言の内容が明らかにされます。まず、12-14章では、預言にまつわる救済史の総括――底なしの淵から這い上がる獣(11:7)の実体、何故戦いが繰り広げられているのか――が示され(12章)、続いて獣の戦いの手法(13章)、そして天からの助け(14章)が描かれます。そして、15章以降では、その戦いの結果、待ち望まれていた主の日の到来(第7のラッパ/第3であり最後の災い=7つの鉢とその後)に至るのです。

12-14章については、次々回の投稿として、次回は第7のラッパの前、11:1-13に描かれる預言の概要を見てみましょう。

【補足】以下、思い立った時に、ポチポチ補足しています。脈絡を気にせずご参照ください。

  • ※ 7つの雷について:10:3-4に描かれる7つの雷は、忽然と描かれ、その後、再び描かれることはありません。一見、謎です。ただし、7シリーズの幻を通して、提示される被害の拡大を追った方には、あれ!?と思われたのではないでしょうか? 封印では4分の1(6:8)、ラッパでは3分の1(8:7-12; 9:15, 18; cf, 12:4)、続くは2分の1かと思いきや、鉢ではそうではなくすべてに及ぶ――このラッパと鉢の間に描かれるのが7つの雷です。(黙示録を通して注意深く数字が使われていることから、ここでは敢えて2分の1という数字が飛ばされていることには注意が促され、読み手にその理解が任されていると考えられるでしょう。)雷は神の顕現に伴う現象の一つで、神の声としても描かれますが、概して神の裁きを示唆します(詩篇18:14; 29:3-9)。黙示録では、この7つの雷によって、世界/人類の半分、2分の1に被害が及んだ(及ぶべきだった)ものと想定されます。しかし、それは秘められ、その展開は記されてはいません。そのような災いは、実際には起こらないのか、あるいは、起こるとしても、ヨハネや教会が関知すべきことではない――キリストにある終末の預言としては、もはや不問、不要なのでしょう。(この雷が、獅子の叫びであったこともポイントかもしれません。今や、獅子ではなく子羊による終末の時!なのですから。)雷によって示唆される災禍や被害よりも、もっと大切な預言が10-11章には記されているのです! というのは、先の投稿でも示唆したように(黙示録によると)、災いによっては、人々は神にも悔い改めにも導かれない、それどころか、かえって心を頑なにさせるばかりだからです――ちょうど、エジプトのファラオがそうであったように。この人々の頑なな心を神に向ける希望こそが、ここから明らかにされる預言です。それは11章に象徴的に記される行為であり、内容は大きなしるし(12:1, 3; 15:1)として明らかにされるのです。

  • 掲載した画像について:典拠は以下のとおりです。(念のため申し添えると、画像のもととなるサイトの記事にはちゃんとあたっておらず、その内容に同意するものでは必ずしもありません。)

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