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究極の預言と礼拝への招き~黙示録についての投稿、再び

黙示録をとおしてのメッセージを、改めて投稿! 
昨年投稿した内容と重複になるでしょうが、
ひとまず、昨年分も残しつつ投稿を進めます。

何故私が黙示録にこだわるのか。
神さまが強く思いを与えられるから
というのが、私の第一のこたえ。

何故黙示録なのでしょう? 

私にとって、かつて、黙示録は、聖書の巻末に加えられた”ややこしい”書との位置づけでした。終わりの新天新地のイメージがあまりにも麗しく、希望に満ち、大切で消すに消せない。でも、福音書や他の”有名どころ”の書簡があるし、まぁ読まなくてもよいかな… くらい。

でも、折々に読みかえし、思い巡らすにつけて、
そこに記されるシンプルな預言のメッセージ、

ただ神と小羊なる主を礼拝せよ! 

との語りかけに、鼓舞され、感動を覚えます。
その礼拝へと招かれているようであり、
また、招くよう励まされているよう。

このメッセージは何ら新しいものではありません。まさに、旧新約聖書をとおして一貫して語られることで、世々の聖徒ら、神の民が、語り継ぎ、受け継いできたこと。黙示録は、まさにこのメッセージを凝縮し、”新しく”提示しているようです。

では、何故、この今、改めてでしょう? 

終わりが近づいているから、
来たるべき主の日がやって来るから、

に他なりません。

私自身が齢を重ね、この世でのいのちを終える時が近づいている、だから、切迫感を抱いているのかもしれません。けれど、世界のあちこちで起こっている様々なニュースを見聞きするにつけ、身の回りでの出来事、風潮を思うにつけ、その日の到来は、単に私個人の余命の問題ではなく、世全体として、そう遠くないように思うのです。(そうは言っても、私自身は”余生”をまっとうした上で、先の皆さんとともにお待ちすることになるかもしれませんが… たとえそうであっても、主にあってメッセージが引き継がれれば言うことなし。到来が先であっても、ついには‼ に変わりなく… すべてがその到来に臨むことになるのですから。)

そのような時にあって、すでに述べたように、
黙示録の中心メッセージは、

ただ神と小羊なる主を礼拝せよ!
 

その一事に尽きます。

様々な苦難がやって来る。
(実際、これまでも起こってきたことですが。)
何故こんなことが起こるのか、
何故ゆるされるのか。
神さまは何をしているのか!?  
と言いたくなるような現象が、
哀しいかな、繰り広げられるでしょう。
(そうじゃなかったら良いなと願うのですが。)

その展開において、人々の心は、残念ながら、
悔い改めではなく、神さまへの恨み辛み、
ともすれば呪いへと傾いていくようです。
(そうじゃなかったら良いなと願うのですが。
いずれも黙示的の預言にも記され、実際、世の流れより、そうなんだろうなと痛感する昨今です。)

そんな中で、様々な力が蔓延り、
まやかしの勝利をうたい、色んな方法で、
私たちを従わせようとしたり、
とり込もうとしたりする。
でも、それらに屈することなく、
惑わされることなく、
まことの神さま、主を仰ぎ、
その備えのうちに歩むよう、
キリスト・イエスの勝利のもとに戦い
(勝利のイメージの大転換ありですが)、
その勝利を得、約束の賜物を受けるように、
まことの主を迎え、
新天新地において主とともに住まうように、
励まされている。

その鍵が礼拝!
 (そして、そこから派生する福音の証し)

黙示録はまさにそのことを繰り返し訴え、
私たちを鼓舞する預言の書! 

この招き、召しに応えて歩むことができますように… との願いを込めて、続く投稿を再開します。

といっても、黙示録がどのような書物か、一考察の紹介です。色んな読みが提唱される黙示録ですが、どうぞご自身でも触れられ、読まれ、”参加”され、願わくば、いずこであっても、礼拝をともにし、ともに主をお迎えできれば幸いです。


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