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d.10 子供たちの子供たちの子供たちへ

いくつになっても学ぶことはたくさんあります。近所のお年寄りや街の人たち、牧場の牛やノラ猫、ツバメやミツバチ、周りは先生でいっぱいです。そういえば今日は子どもたちが、秋の虫が鳴きはじめたよと教えてくれました ──。

今回は、フィンランドで最初に設立されたデザインメーカー「イリス・ファクトリー」と、フィンランドの陶芸界を支えたアーティストたちをご紹介したいと思います。

イリス工場

1897年、ルイ・スパッレ伯爵により、家具やインテリア、食器などを製造する工場がポルヴォーに建設されました。フィンランドでアーツ&クラフツ運動を推進していたスパッレは、ベルギーからアルフレッド・ウィリアム=フィンチを招聘し、アールヌーヴォー・スタイルの陶磁器を製造します。

イリス工場の家具や照明はロシアやスウェーデンへ輸出され、1900年のパリ万博に出品された製品も大きな注目を集めました。しかし1902年に経営破綻し、設立からわずか5年で閉鎖されてしまいました。

アーツ&クラフツ運動
アーツ&クラフツ運動は、大量工業生産に異議を唱え、手仕事などにみられた生活における芸術性を取り戻すこと、またエリートだけに向けられたアートやデザインを批判し、芸術は社会的であるべきことを提唱しました。この思想はアールヌーヴォーやユーゲントシュティール、民藝運動などにも影響を与えています。

アルフレッド・ウィリアム・フィンチ

アルフレッド・ウィリアム・フィンチは、イギリス人の両親を持つベルギー生まれの陶芸家です。フィンランドにアーツ&クラフツ運動を広め、のちに中央美術工芸学校の教師となった彼は、フィンランド陶芸の父と呼ばれています。

Alfred William Finch, 1854-1930
1854年 ブリュッセル生まれ。
1878年 ブリュッセル王立美術学校で学ぶ。
1883年 ベルギーの美術家グループ「Les XX」の創設に加わる。
1890年 生計を立てるため、陶芸家に転向。
1897年 ルイス・スパレに招かれ、フィンランドへ。
1909年 再び画家へ。マグナス・エンケルらと「9月グループ」を結成。

陶芸家に転向したフィンチは、絵画で培った色彩感覚や理論を応用し、伝統と新しさを組み合わせた独自のデザインを生み出していきます。しかし彼のモダンすぎたデザインは当時の人々にはまだ理解されず、アーツ&クラフツが提唱する「社会的デザイン」という基本的な考え方を実現することはできませんでした。

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A Vase / Mug (via Bukowskis)

工場の閉鎖後、教師となったフィンチの目標は、生徒たちを独立して活動できる陶芸家に育てることでした(当時の生徒にはトイニ・ムオナも)。フィンランドでは陶芸家の労働条件が低く、20世紀初頭には独立して活動している陶芸家は数人しかいなかったのです。

Les XX(20人展グループ)
1883年にベルギーの画家、デザイナー、彫刻家の20人を会員として発足したグループ。10年間にわたり毎年展覧会を開催し、モネやゴーギャン、セザンヌやゴッホなど、国内外から多くの画家たちも招待されました。

キュリッキ・サルメンハーラ

キュリッキ・サルメンハーラは、1943年に工芸学校を卒業すると、エスポーのカウクラハティ・ガラス工場へ入社します。1946年にはデンマークの著名な陶芸家ナタリー・クレブスのスタジオSaxboで学び、その翌年からはサカリ・ヴァパーヴオリの陶芸工房でアシスタントを務める傍ら、アラビア製陶所でも働き始めました。

Kerttu Kyllikki Salmenhaara, 1915-1981
1915年 オウル近郊ティルナヴァ生まれ。
1938年 中央美術工芸学校の陶芸学科で学ぶ。
1943年 エスポーのカウクラハティ・ガラス工場で働く。
1950年 アラビア美術部門のデザイナーに採用。
1951年 ミラノ・トリエンナーレ受賞(1957年にはグランプリ)。
1956年 奨学金で、米国へ留学。

彼女はろくろの技術にも優れ、様々な土や釉薬を開発するなど、とても研究熱心で、デンマークやアメリカだけでなく、カナダ、ポルトガル、スペインでも陶芸の研究を続けました。そして1960年初頭、手の怪我によりアラビアを離れると、教育者の道へと進みます。

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Vase / Bottle / Jug (via Bukowskis)

サルメンハーラは、自身の陶芸学校を設立して後進を育て、陶芸業界の顧問としても活躍しました。また1970年から1973年まで中央美術工芸学校の教師を務めるなど、フィンランドの陶芸教育に改革をもたらした人物として知られています。

ヘルヤ・リウッコ=スンドストローム

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Bunny figurines (via Bukowskis)

ヘルヤ・リウッコ=スンドストロームは、アラビアで最も長い間活躍した陶芸家で、1962年から2016年に工場が閉鎖されるまでアラビア製陶所で働きました。80歳を超えた現在も、旧工場内とヌータヤルヴィ近郊フンピラにあるふたつのアトリエを往復しながら、制作を続けています。

Heljä Tuulia Mirjam Liukko-Sundström, 1938-
1938年 ヴェフマー生まれ。
1958年 フリーアートスクールに入学。
1962年 芸術デザイン学校を卒業し、アラビアに入社。
1982年 児童書「うさぎの少年」で児童文化賞を受賞。

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Onnellisten saari (via helja.fi)

また彼女は彫刻作品など、いくつかのパブリックアートも手がけており、ペイジャス病院のロビーには『しあわせの島』という大きなタイル製のレリーフがあります。さらに11冊の児童書も執筆し、1982年には子どもの文化を促進した功績として「児童文化賞」が送られました。

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Jäniksenpoika, 1981

参考:uusimaa.fi, kyllikkisalmenhaara.com helja.fi
カバー写真:Iris Factory (©︎ Porvoo Museum)

🇸🇪 Tack själv!
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フィンランドを知るには、まずフィンランド語かも。というわけで、古い参考書を紐解きながら、フィンランド語の辞典を書くことにしました。トントゥ検定3級です。 http://moicafe.com

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コメント (5)
はい、ピチカートの曲名からです(自分も大好きです!さらにその曲名の元はムーディ・ブルースというバンドのアルバム名からだと思うのですが、そんなふうに継承していくという意味も込めてたりします、笑。)
ヘルヤさんのブログも微笑ましいのでぜひ!いまは庭に蕎麦の花が咲いているそうです。
http://www.helja.fi/heljaumln-kirjeet
ヘルヤさんのブログ、みました。フィンランドで蕎麦畑があるだなんて!気になる長野県と共通していて、うれしい驚きです。tattariが蕎麦、ということを覚えました。
曲名はすでにあったアルバム名からかも?!なんですね。ピチカート、やはりお洒落。
驚きですよね。フィンランドでも蕎麦粉を使ったりするのでしょうか? 気になります。
私も気になっています😊
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