知能についての雑文

チューリング ・テストの優れた点は身体的能力と知能の間に明確な線を引くことができることだそうである。

身体的能力について、動物と比べてしまえば人間はそれほど優れてはいない。たとえば人間は毛並みの美しさについて猫にかなわないし、足の速さについてシカにかなわないし、視力ではトンボに敵わない。
また知能については、ここではチューリング ・テストで言うところの知能について考える。知能とはテストで測るものと思っている人が多いようだがそれはちがう。というかここでいう知能は違う。一般に言われる知能については知らない。ここでは、身体的能力ではない能力をすべて知能とする。猫から身体能力を奪ったらなにが残るか?毛のふわふわさも肉球のぷにぷにさも華麗なジャンプ力も考慮しない猫とはどんなものか?クワガタムシから身体的能力、たとえば頑丈さや力の強さを奪ったらなにが残るかということを想像していただきたい。それが動物の知能である(チューリングの意図したものとは違う解釈かもしれない。あくまで僕がそう仮定したことである)。


人間の持つ知能を特別なものだと信じる仕掛けがテストなのかもしれない。なぜなら人間以外の動物にテストは解けないからである。テストを解いていると、さも人間だけが突出して賢いかのような錯覚を体験することができる。テスト、というかゲームの面白さの本質はここにあるのではないだろうか。つまり、人間にはどうやら「人間は特別だ」と信じたい心があるということだ。競争がどうとか勝負がどうとか損得がどうとかいうのは、「人間は特別だ」と信じたい心がある、という事実の上に成り立つ。

「人間は人間を特別だと思いたい」...というのは実は面白い。こう書くとバカみたいだが、人間を特別だと思うというのは実は崇高さにつながったりする。テスト勉強をする悪くはない動機くらいになる。

ところが多くの局面で自然は人間よりも賢い。たとえば、ものは地面に向かって落ちる。雨が続くと晴れが来る。冬の次は春である。こと知能において、この世に「時間」というものが存在する限り人間は敵わない。最初に言った通り身体的能力ではないものすべて知能とするので、時間は自然の持つ知能である。空間も知能である。雨も太陽も知能である。人間が戦って勝てるものではない。
知能には永久の広がりがある。だが測れるものではない。

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