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曲がれ!音楽くん!

連日酔っ払っては遠回り、お気に入りかもしれない曲を聴きながら、曲がったことのない道で曲がり、欲しくないジュースを買い、しんにょうに米を乗せている。(今、「しんにょう」って漢字変換できるのかなと思ってスペースキーを打った際、「新尿」「真尿」「深尿」「心尿」「信尿」と並び、Apple社の並々ならぬ尿への文脈が窺い知れたこと、親に言いなや)

(ほんまに)

飲酒した際にどの程度五感が大人しくなるのかを思い知った2022年1月。ヤバい生牡蠣は匂いで吐く習性も、あくまで五感の喧しさ由来だったか、とギタギタに痛めつけられた身体を横にし、全身でニュートンを食らいながら思う。皮肉にもヤラれている最中、当の五感はこれでもかと冴えている。この最高のタイミングで親知らずも少し成長し、内頬を同じくギタギタに痛めつけている感覚が睡魔に蓋をする。「令和のウロボロス」年を跨ごうと健在である。防音室よりベッドにいる時間の方が長いのは初めてのことだった。

幼い頃、床に臥す日は枕元に大量の漫画や本、ゲームを積むのが唯一の救いだった。どうせベッドで過ごすなら、と本棚の前にフラフラで立ち尽くすも束の間、何の収穫も無くベッドに戻る。そういえば何度も読み直す漫画は課金してスマホに入れてるのだった。ページを捲る労力もない。ええやんフィーフィー。ゲームもSwitchの充電は満タン。痛みを忘れて眠気を迎える時間くらいは保ってくれる…と企てている間に気絶。しっかり「人間」をサボらないと回復効率が悪くなってきてしまった。頭が回らないというのに、頭が回らないことに気を取られて臥せているだけで削がれる。

「曖昧さに耐える能力」は決して目立つものでも数値化できるものでもないが、教育で学べない大切な能力の一つだと、いたずらに削られた体力をして思い知る。ネガティブケイパビリティというやつだ。多分。多分よ?

イエスとソクラテスの共通点として「自ら書かなかったこと」というのがある。余白を作る狡さ。ただ余白から生まれる拡がりが、なかなか無視できないこと。親しい人には「意図を汲ませる話し方」をしてしまう私はびっしり知っている。誰の頭の中にも言葉にならない神様や宗教はあり、それはすっかりお気に入りになった曲を聴きながらnoteを自ら書き続ける私には関係のない話。

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