見出し画像

プレゼントなんて何もいらないから。


こんにちは!
もしくはおはようございますかこんばんはの方もいらっしゃるでしょうか。
初めましての方もいるかもしれません。

まずは以前の記事に思った以上の反応をいただいて、本当にありがとうございました!
まさかこんなに反応をいただけるとは思っていなかったので、心の底から嬉しかったです。

では今回は何を書くかと言うと、私の家族の紹介を前回の記事よりももう少し詳しくしようと思います。
長くなりますし本当に嘘みたいにモラルが欠如した家族ですが、お付き合いして頂けたら嬉しいです。

ここで前提としてお話しておきたいのが、私はいわゆる「中学受験組」です。
小4から受験勉強を始め、第一志望には受からなかったものの、第二志望だった完全中高一貫の女子校(ちなみに幼稚園〜大学までの一貫校で、世間一般的な評価は「中堅レベルのお嬢様校」あたりかと思います)を卒業しています。

そして私の学歴をざっくり書くと、
地元の公立小学校→私立中高一貫女子校→海外留学を夢見て留学に強い大学の英文科を目指すものの、大学受験に見事失敗→語学系の私立短大に進学・元々の第一志望だった大学への編入を目指す→大学受験の失敗+高校卒業により家族の私への監視の目が多少緩んだ(見限られたとも言う)ことでタガが外れる→家族の目を盗んで勉強以外のことに打ち込みすぎてほぼ単位を取れず2年で退学→これまた私立女子大(文系)に1年から再入学
という、字面だけ追えば資産家の家の道楽娘そのものな学歴の持ち主です。そんな私の学歴も相まって、特に親より上の世代の方々からは「家族をそんな風に言うなんて」「何不自由なく大学まで出してもらったのに」というようなご指摘を受けることもこれまで正直多いです。

確かにここまで不自由なく育ててもらって、しかも奨学金制度を利用することなく大学まで出してもらったという点に関しては純粋に感謝はしています。
特に中高時代に関しては私立ということもあり母校でしかできない経験や思い出をたくさん積ませてもらいましたし、それまで本当に狭い世界で生きていた私の視野がグンと広がりました。
なので特に中学以降の学費を全て負担してくれていた(これに関しては後述)母にはそれなりに義理もあります。

けれど、それを盾にすれば私は何をされても言われても耐えなければならなかったんでしょうか。

すっかり前置きが長くなってしまいました。
本題の家族についての紹介をしていきたいと思います。



父について。


まずは私の父について書きたいと思います。
初っ端にして我が家のやばい度No.1です。
まずこの父、前の記事で書いた通りほぼヒモなんです。
私の実家は祖父の代からの自営業だったんですが、祖父が現役だった頃からの顧客、親類や学生時代の同級生等いわゆる「身内」からの依頼以外父がまともに仕事をしているのを見たことがないです。
営業をしなくてもコンスタントに依頼が来るような規模や知名度がある会社ではないので、実質的なニート生活を酷い時には1年以上していました。
しかもアルコールとニコチンとギャンブルの依存症という、まあこの時点で地雷臭がすごい人なんですが、それに加えてうちの父は怒鳴るという行為に対して全く抵抗がないんです。うっかり父の地雷に触れようものなら私が泣くまで怒鳴り続けますし、10回に1回くらいは運良く怒鳴られずに済むものの、それですらいわゆる不機嫌ハラスメント状態です。
そして決まり文句は「こういう時お前は泣けば済むと思ってるから余計腹が立つんだ」。
泣かしてるのは貴方ですが………???
他にもイラついている時なんかは私が生まれつき気管支が弱いことを知っていてわざと顔の近くでタバコの煙を吐いたりする、親としてというより人としてどうかと思うタイプの人種です。
それも外面は本当に良く、私の学校行事等にも積極的に参加するので家族以外からの第一印象は寧ろ好印象になってしまうという、典型的なモラハラ・DV男だったので尚更厄介でした。

父の人として最低エピソードは山ほどあるのですが、これ以上書くと本当に終わらなくなってしまうので割愛します。ちなみに私が家を出てからタガが外れたのか何なのか、普通に不倫してたしあろうことかそれを数年ぶりに実家に顔を出した娘(=私)に自慢していました。
けれど、こんな父でも幼い頃は優しくしてもらった、可愛がってもらった瞬間はそれなりにあったと思うんです。だからこそ心底嫌いにはなりきれなかったし私が我慢すれば済むと思っていました。
けれどそれも、解離性健忘の症状により私は家族の思い出は記憶からほぼ全て抜け落ちてしまっているので、アルバムに残された数少ない写真でしか想像し得ないんですけどね。
ちなみに私は両親が長く別居状態だったと聞かされていた(というか両親は私が今でもそう理解していると思っている)んですが、父が自慢気に自分の不倫話をしていた時点で5年以上も前に母と離婚済だったこと、そして父に至ってはその1年後に不倫相手とさっさと結婚していたことを私と会うチャンスは何回もあったにも関わらず隠していたという、(元)夫婦揃って正気を疑う事実が私が家を離れて優に10年以上経ったつい最近になって発覚しました。
久しぶりに実家に顔出したら父の不倫自慢話を2人きりの車の車内で聞かされ、人生で初めて父親に声を荒らげた挙句駅のトイレの個室でひっそり泣いた純情エピソードを返してくれ。
あの時には既に母親と離婚してたしその自慢の不倫相手と再婚してたとかほんと正気???

母の話。


母はいわゆるTHE!バリキャリな人で、ビジネス系の専門学校を出てから現在に至るまで外資系企業で社長秘書をしています。学力的な面で頭がいいというよりも頭の回転が速いタイプなので、今の仕事は性に合っているんだろうなと思います。
そして外資系企業の社長秘書ということもあり、ご想像通り年収もかなりの額です。定年までは余裕で1000万円プレイヤーでしたし、その後再雇用(建前上1年毎更新の契約社員扱い)での勤務をしている現在も同世代の平均収入よりはかなり多い額をいただいているかと思います。
なので小さい頃の我が家は国内外問わず年に数回旅行に行ったりしていて、言葉を選ばず言えば富裕層と呼ばれる家庭がかなり少ない地域ということもあり、地元の中では比較的裕福な家庭と言って良かったんじゃないかと思います。ちなみに父は見栄っ張りなので無駄に旅行に行きたがりました。ご想像通りもちろん旅費は全て母持ち。改めてどこまでも最低だな我が父。

なので私が中学〜大学まで私立なのも世間一般より割と長めのモラトリアムを許してもらえたのも母の意向と経済力のおかげです。まあこれが後々教育虐待的な側面も持つことになるんですが、それはまた別の記事で追い追い書きますね。

しかし母と私は父とはまた違う意味でなかなかすごい人です。
それと言うのも、母は良くも悪くもとてもまっとうに、学校と親(私から見れば母方の祖父母)の目の届く範囲、そして職場以外の世間から切り離されて生きてきた温室育ちで、精神衛生的な意味で「持てる者は持たざる者の気持ちがわからない」タイプです。
しかもかなり激情家なので、最初は冷静に話をしていても最終的にはヒステリー状態で手がつけられなくなります。
自分が幼い頃貧しい生活をしていたことも相まって、都合が悪くなると私に関する金銭的な面倒を一切担ってきたことを盾にして「私はあんたのためを思ってこんなに苦労して働いてきたし、ろくに働かないくせに贅沢ばかりしたがるお父さんともあんたのためを思って離婚しなかった。それなのにあんたはどうして私の言うことを聞いてくれないの」とヒステリーを起こして号泣するんですよね。
実の親が、子どもに対して、衣食住の提供や経済面、その他自分の努力ではどうしようもできないことを盾に責めたり泣いたりするのはやり口が卑怯すぎると、子どもと接する仕事をしている今だからこそ思います。

まあ母に関しては母なりに私のことを大事に育てようとしていたということは分かります。文字通り大黒柱として朝から夜まで働いて家族のことを養ってくれて、人よりかなり嵩んだ私の医療費と学費も捻出してくれて、心から恩義も感じています。
なので家族の中で唯一母とは毎年年始に1度だけ会うようにはしていますが、それ以上に一生消えない恨みつらみもありますし、母との関係で未だに私の頭を悩ませてる問題は少なからず存在するので、世間一般的な「仲のいい母娘」になれる日は一生来ないと思っています。

あと父と揃って元気にW不倫してたんですよね!
本人は未だに私にバレてないと思ってるけど普通にバレてるしドン引き。母が急性胃腸炎で1泊の緊急入院をした時、母の居場所まさかの不倫相手の自宅。
しかも緊急連絡先を私にしたもんだから私は薄暗い日曜夕方の病院で2時間近く母の不倫相手と2人きりになったし駅まで送ってもらうという事態になったんですよね。しかも相手は自分達の関係を私が知ってると思っているらしく、妙に馴れ馴れしくてそれがまた地獄でした。

父方の祖母の話。


彼女も父とはまたちょっと違う方向にまあやばかったです。
まず祖母は未だに女に教育は必要ない、嫁に行って子どもを産み育てることが女の1番の幸せだと思っている節が多分にあります。
まあ祖母は御歳93歳なので世代的に仕方ないとは思うのですが、祖母の場合ちょっと度を越しているんですね。
私が中学受験に受かった頃から永遠に「女の子なのにそんなに無駄に学歴なんかつけて。まああんたは小さい頃から不器用でボタンの1つも満足につけられなかったからね。無駄に背ばっかり大きいし、手に職をつける位でちょうどいいのかもしれないけど。それにしても私が生きてる間にひ孫を見せてくれって何回言わせるの」って言ってくる。普通に地獄。
挙句の果てには私の今の仕事を「可哀想な子の面倒を見る仕事」だと思っている上に「わざわざ大学に行き直してまでそんなことやってるなんて。たった1人の内孫なのに穀潰しも良いとこで私はご先祖様に顔向けができない」と私に面と向かって言い出す人です。
その上で自分の親戚中には「大学を行き直してまで可哀想な子を面倒見る仕事につくような優しい子を育てた私」と自画自賛してるらしく、それを知った時にはキツすぎて吐きそうでした。

我が家は(一応)両親が共働きだったから私は父方の祖父母に育てられたようなものなのですが、未だに私の根っこの部分に自己肯定感の低さが見え隠れするのはこの祖母のせい。この祖母にしてあの父あり。
あと人の悪口を言うのが好きで、昔から我が家に遊びに来た私の友達の悪口を私がいない所で私の両親に言ってたりしてました。なので中学に上がってからは私は家に友達を呼ばなくなったんですが、今度はそれを「○○(私)は根暗だから中学に上がってから友達ができてないのよ。可哀想に」とか言い出したので普通に性格が悪い。

父方の祖父について


最後に、父方の祖父に関しては、田舎から上京してきて1人で小さな会社を立ち上げた人ということもあり、多少倹約家すぎたり頑固な所はありましたが性格や考え方は至極真っ当な人だったんです。それに自営業で比較的時間に融通が効くので幼い頃私が病院通いをしなければいけない時はいつも車で送り迎えをしてくれていたりしたので、マイナス感情は全く持っていません。
(ろくに働いてない父はどうしてたかって?父はろくに仕事もせず麻雀やパチンコに行っていたので早朝深夜の緊急時以外の病院の送り迎えはしてもらったことないです。最低エピソードに事欠かなさすぎるな我が父)
ただ私が小学校の高学年になる頃には元々の持病が悪化して身体が不自由だったことに加えて、中学生になる頃にはアルツハイマーも発症していたので常時要介護状態になっていました。結局私が高校に上がる前には亡くなったのですが、晩年はまさかの私が家庭内の介護のメイン要員でした。今で言うヤングケアラーですね。
日中はヘルパーさんが入っていましたが、学校から帰宅する夕方〜夜と予定のない土日の介護はほとんど私がしていたと記憶しています。
しかも狙ったのか何なのか私の部屋が祖父の部屋の真ん前で嫌でもせざるを得ないんですよね。
その間父と祖母は何をしてるかって?文句言うか私のやり方にケチつけるかやる人がいなくて渋々介護してるかの3択です。
祖母に至っては挙句の果てに祖父の介護が嫌で祖父と寝室を分けてわざわざ客間に布団敷いて寝てました。本当に親子揃ってどういうことなの。

あの頃の記憶


そんな家で育って、しかも生まれつき虚弱体質で体力もなく運動神経や芸術的センスも壊滅的、ホルモン関係の持病があることもあり中途半端に高い身長(169cm)と洒落にならないレベルの多毛症。しかも多少の吃音もあるという、コンプレックスの塊だった私の18歳までの人生はまあ悲惨の一言でした。
これまでにも少し書きましたが、私は家庭環境が影響して解離性健忘という症状があり、幼少期〜小学校卒業くらいまでの家族の思い出や記憶がほとんどありません。小学校でも典型的ないじめられっ子だったため、小学校の記憶もほぼありません。
確かなのは中学受験期から高校卒業まで通っていた個別指導塾と中学高校以降の記憶だけです。

いつ地雷を踏んで怒鳴られるかといつも怯え暮らしていた私に素面で「お前、生まれて来なかった方が幸せだったなあ」と言い放った父の顔。
仕事を盾に父と祖母に私のことを生贄として差し出し、私がどんなに泣こうが喚こうが助けてくれなかった母の背中。
大学で児童虐待についてのレポートを作っていた時、内容を聞かれて「それってあんたのことじゃない」と笑った時の祖母の声音。

これが、私が今でも思い出すと少しだけ手が震える家族の記憶。
クリスマスプレゼントも、誕生日のプレゼントもケーキも何も要らないから。だから、何にも怯えなくて良い家族をください。
七夕が来る度にそう願っていたあの頃の私に大丈夫だと言ってあげられるように、ここで上手く昇華できたらと思うので、もう少しだけお付き合いください。

ではまた次の記事で!