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消えた愛のココナッツ(後編)


4.14%

2024年8月、25年ぶりに伊良湖岬を訪れた。

恋路ヶ浜でバスを降りて、まず日出(ひい)の『椰子の実』詩碑に向かう。丘の上に建つリゾートホテルを目指す形で、クラクラするほどの直射日光が降り注ぐサイクリングロードを歩く。この道は25年前も歩いているはずだが、全くその記憶がないことに愕然とする。老化は忍び足で、私の心に近づいている。

途中アップダウンも多く、想像以上にしんどい。かなり歩いたのに、まだ着かないの?…と感じたのは、暑さのせいだけではなさそう。20分ほど歩いて、ようやく見覚えのある小さな広場にたどり着いた。

振り向けば、伊勢の神島が沖に見える。伊良湖岬に続く砂浜は結構白く、海は鮮やかに澄んでいる。与論島や久米島の海の鮮やかさには及ばずとも、ちょっとだけ思い出す。伊豆大島のBlack Sand Beachからそう遠く離れていないことを思うと、どこか不思議な感覚にとらわれる。

愛知県田原市日出海岸 『椰子の実』碑付近から神島を望む(2024年8月)

『椰子の実』詩碑や音楽碑が設置されている広場の奥は、崩落のおそれがあるということで立ち入り禁止の柵が張られていて、前よりもかなり狭く感じられた。1979年の伊勢湾フェリー就航15周年記念椰子の実投流について記した掲示板(前編写真参照)はひび割れていて、歳月を刻んでいた。

島崎藤村の詩碑をはさんで、向かって左側には「愛のココナッツメッセージ漂着記念」として、1999年(第12回)以降の漂着記録を載せた大きなボードが設置されている。

愛のココナッツメッセージ漂着記念ボード(2024年8月)

この事業も回を重ねて、2023年には第36回投流が行われた。偶然にも、私が25年前に道の駅で見かけたボード掲載分以降の漂着が記録されている。

今回はすぐに踵を返し、道の駅に向かった。坂道に息はずませる幾人かのランナーとすれ違い、木陰を抜けると、若き日の柳田(松岡)國男が散策した浜が見えてくる。柳田にとって、終生心の礎をなした海の姿であろう。

伊良湖恋路ヶ浜(2024年8月)

砂漠にてオアシスを求め歩くような足取りで、道の駅伊良湖クリスタルポルトにたどり着く。伊勢湾フェリーが鳥羽に向けて出港する時刻であった。

ジャンボフェリー神戸出港時と同様、半回転して港を後にする(2024年8月)

この写真を撮影した、道の駅1階には「やしの実博物館」という施設があったらしい。実をつけた椰子の木の模型や、クジラの骨、当地で出土した古代の土器や化石、伊良湖にゆかりのある人物パネルなどを展示していたという。「愛のココナッツメッセージ」で漂着したプレートつき椰子の実も、もちろん展示されていた。

が、数年間の休館状態を経て、2023年の施設リニューアル時に閉鎖されたという。「トリップアドバイザー」サイトの報告によれば、以前からメンテナンスがあまり熱心になされていなかった様子。コロナで道の駅の利用者が減った頃にリニューアルの話が進み、そのついでに片づけてしまったのだろう。ココナッツメッセージ板の実物は見てみたかった。

前回の訪問時に見つけた「愛のココナッツメッセージ」紹介ボードは2階ロビーに移されていたが…。

伊勢湾フェリー就航60周年記念写真展の裏面扱いだった(2024年8月)

この仕打ちを受けていた。2024年は伊勢湾フェリー就航60周年にあたるので、ボードを裏返して、フェリーの歴史と写真を紹介する展示スペースにあてていた。

伊勢湾フェリーはかつて名鉄・近鉄が出資する会社だったこと、2010年に一度廃止を決めて国土交通省に届け出たが、地元からの強い存続要請を受けて廃止を撤回したこと、現在は加藤汽船グループに入っている、すなわちジャンボフェリーの”弟分”であることなどの知見が得られた。それはそれで貴重な体験だったが、失礼ながら『椰子の実』に対する地元の情熱が薄れつつあるような印象も受けた。

”チラシ裏”扱いされている「愛のココナッツメッセージ」紹介ボードには、2019年までの漂着実績が付け加えられていた。2001年(第14回)、初めて渥美町(和地海岸)に漂着したという。和地は伊良湖岬から12kmほど東にある。その後2012年(第25回)、さらに岬に近い日出の海岸に漂着した。今のところ、これが最近接記録である。この年は旧赤羽根町の海岸にも2個漂着した。渥美半島への漂着は計4個である。

2020年から3年間はコロナの影響で規模を縮小したこともあり、漂着個体なし。2023年は4年ぶりに漂着報告があったという。

36回も投流を行っているのならば、石垣島からの潮流に関する実験データという見方もできる。私は帰宅後Excelを開き、「愛のココナッツメッセージ」事業における椰子の実漂着数と漂着地のデータベースを作った。

1999年~2023年のデータは日出海岸の詩碑脇ボードに掲載されている。それ以前、1988年~1998年のデータは以前撮った道の駅ボードの写真(前編参照)に記録されているはず…だが、当時はまだフィルムカメラで、改めてデジタルスキャンしても、拡大すると細かい字はぼやけて読めない。今回撮影した上記の写真では1990年から1992年までの3年間が柱に隠されている。かなり悪戦苦闘したが、いろいろ検索をかけて何とか同定できた。観光ビューローのメールフォームで問い合わせてみることも考えたが、おそらく個人の研究は相手にされないだろう。観光ビューローの人たちはやしの実博物館のメンテナンスもままならないほど日々多忙と拝察されるゆえ、貴重なお時間を割いてもらうのは忍びない。できる限り自力で解決を目指すことが礼儀である。

集計結果。
1988年から2023年までの間に、石垣島沖の海域から投流した椰子の実は3,838個。うち159個(※)が鹿児島県以北の海岸に流れ着いている。漂着率は4.14%、すなわちおよそ25個中1個の割合で、”名も知らぬ遠き島”より流れ寄った。

(※)田原市の公式記録とは3個異なる。次項でその事情について述べる。

誤記・記載漏れの可能性

日出海岸詩碑脇ボードの写真と、道の駅ボードの写真を見比べて、後者にのみ記録されている漂着が1件あると気づいた。

2004年の「鹿児島県串木野市野元海岸」である。詩碑脇ボードではこのデータを除いた「18個」をその年の漂着数としている。一方、道の駅ボードでは「19個」と記載されている。

渥美半島観光ビューローの公式記録では前者の「18個」を採用している模様。あくまで私見だが、それでは1個漏らしていることにならないだろうか。

2004年漂着記録 (左)詩碑脇ボード(右)道の駅ボード (2024年8月)

詩碑脇ボードには、明らかな誤記が数ヶ所見られた。

・2006年「宮崎県長岡市長浜海岸」→「延岡市」の誤り。
市町村合併前の「長岡市」は海岸と接していない。合併で長岡市に入った、日本海に面する寺泊町に「長浜海岸」は存在しない。延岡市には長浜海岸が存在する。

・2012年「和歌山県串本市田並」→「串本町」の誤り。
市制は施行していない。

・2023年「静岡県沼津市三保の松原」
三保の松原は「静岡市清水区」で、沼津市にある松原は「千本松原」である。いずれが正しいか判然としないが、本記事では三保の松原という具体的名称を優先して、静岡市清水区への漂着とみなす。

道の駅ボードにも1ヶ所誤記がみられた。

・1997年「長崎県諫早市浮木港」→「有喜(うき)港」の誤り。

渥美半島観光ビューローの人が書いているブログ「渥美半島ぶろぐ」では、2019年9月9日に「やしの実漂着報告」の記事を載せている。

ところが、その記事で紹介されている4個のうち

・鹿児島県大島郡瀬戸内町ホノホシ海岸(奄美大島)
・宮崎県延岡市熊野江町

に漂着した2個は、詩碑脇ボード・道の駅ボードとも2019年の項目に含まれていない。

最近は個人情報保護その他の事情により、漂着連絡はしてもボード掲載を望まなかったという可能性もあり得る。詳しい事情は知るべくもないが、本記事ではこの2個も漂着数に含める。田原市の公式記録156個に、記録漏れの可能性がある1個(2004年)と、観光ビューローブログで漂着が報告された2個(2019年)を加えて、159個を漂着とする。

県別・地域別データ

椰子の実159個の漂着地を都道府県別に分類する。

鹿児島県:61個
宮崎県:8個
熊本県:6個
長崎県:14個
福岡県:1個
山口県:1個
愛媛県:3個
高知県:12個
徳島県:1個
兵庫県:2個
和歌山県:7個
三重県:7個
愛知県:5個
静岡県:9個
神奈川県:1個
東京都:7個
千葉県:9個
茨城県:3個
福島県:1個
山形県:1個

熊本県の6個はいずれも天草諸島、東京都の7個はいずれも伊豆諸島への漂着である。椰子の実が漂着した都道府県は1998年時点(前編参照)の12から20に増えている。太平洋側の最北は福島県双葉郡楢葉町(1993年)、日本海側の最北は山形県鶴岡市(1994年)である。

次に、地域別分類。陸上の地方分けではなく、海上の潮の流れを軸とした分け方を試みた。

奄美地方(奄美群島・トカラ列島):13個

九州西部地方(鹿児島県本土旧薩摩国・熊本・長崎・佐賀・福岡):54個
山陰・近畿北部地方(山口県北部・島根・鳥取・兵庫県北部・京都):0個
北陸越後地方(福井・石川・富山・新潟):0個
東北地方日本海側(山形):1個

大隅諸島(種子島・屋久島):13個
九州東部地方(鹿児島県本土旧大隅国・宮崎・大分):10個
瀬戸内海地方(山口県南部・広島・岡山・愛媛・香川):4個
四国地方太平洋側(高知・徳島):13個
近畿南部地方(兵庫県南部・大阪・和歌山):9個
東海地方(三重・愛知・静岡):21個
伊豆諸島(東京都島嶼部):7個
関東地方(神奈川・東京・千葉・茨城):13個
東北地方太平洋側(福島):1個

159個のうち13個が奄美地方に流れ着いている。種子島・屋久島(大隅諸島)以北まで達した146個のうち4割近い55個が対馬海流に乗り、九州西部の東シナ海・有明海方向に流れている。五島列島沖や対馬の南を通過して、玄界灘や日本海まで達した実は福岡県と山形県の2個である。

黒潮に乗り、太平洋沿岸に流れていった実は91個。大隅諸島から九州・中国四国・近畿・東海・伊豆諸島・関東・東北の各地に流れ着いている。その中で、山口県吉敷郡秋穂町(あいおちょう・2010年)、兵庫県明石市屛風ヶ浦(1999年)、神戸市ポートアイランド(2012年)に漂着した3個は、かなり特殊な経路をたどったとみられる。屛風ヶ浦へは、淡路島の東回り(洲本→舞子)と西回り(鳴門→高砂)いずれのコースを取ったのだろうか。和歌山市雑賀崎への漂着(2023年)が報告されていることを鑑みると、東回りで明石海峡大橋をくぐった可能性が高そうではあるが。椰子の実を取って胸にあてて、その流離の過程を聞いてみたい。

このデータは、瀬戸内海が基本的に穏やかであることも示している。多数の島がバリアとなるため、広島県や香川県の海岸にはたどり着きづらいだろう。愛媛県の3個は太平洋に近い南予地方である。

”かくれ漂着”を見積もる

さて、漂着しなかった3,679個の「愛のココナッツ」はどこに消えたのだろうか。

その多くは、海上で朽ち果てたと考えるのが妥当だろう。黒潮の本流は房総半島沖で日本の沿岸から離れて、太平洋を東へ進む。東北地方南部までの海岸に着けなかった実は、時間の経過とともに崩れていったのだろう。柳田國男が拾得した実も、ひとつは割れていた。東シナ海→玄界灘コースも、日本海を漂ううちに同じ運命をたどったと考えられる。大型魚介類に飲み込まれた実も少なくないだろう。

一方、海岸に流れ着いたものの、渥美町・田原市へ報告されなかったために数値に含まれていない、”かくれ漂着”の実が存在していた可能性もある。「愛のココナッツメッセージ」では拾得者がプレートに記載されている連絡先に報告することで”漂着”と認定される仕組みになっている。

”かくれ漂着”には、どんな事由が考えられ得るだろうか。

(1)拾得者が連絡しない
これが最も多いと思われる。固定電話だけの時代は「愛知県までの市外電話料金がかさむ」、携帯電話やネットが普及すると「怪しいところではないか、危険なものではないか」という考えが働いて、そのまま捨て置かれたケースである。地元の子供の遊び道具に使われた実もあるかもしれない。

(2)官公庁や企業敷地海岸、漁港への漂着
官公庁や企業、漁協などが管理している海岸にたどり着いた場合は、その職務に関係しないため、連絡されず「海洋浮遊物」として処理されるだろう。民間の漁船が停泊する漁港の場合は、そこの管理者に理解があって連絡が行ったケースがあるかもしれない。

(3)沖縄県内海岸への漂着
「愛のココナッツメッセージ」では「鹿児島県以北の海岸」での発見を”漂着”と認定しているが、投流場所が石垣島沖ならば、沖縄本島や久米島・伊江島・伊是名島など周辺島嶼への漂着は十分に考えられる。現に、与論島に3個漂着しているのだから、36回・3,838個も流して沖縄本島地方にひとつも流れ着いていないはずはない。かなりの数にのぼる可能性もある。沖縄本島や久米島の人が海岸で椰子の実を見つけて田原市まで電話をしても、「あー、沖縄県は対象じゃないんですよ、悪いけれど。」と、あっさりあしらわれているのだろうか。沖縄県からの報告も受け付けておけば”実験データ”としての信頼性が上がっただろうに、残念である。

(4)外国の海岸への漂着
可能性は少ないものの、外国の海岸まで流れていった実があったかもしれない。その場合、ほぼ大韓民国の南部か済州島に限られるだろう。2011年の震災では、津波で流された自転車やサッカーボールがアラスカの海岸で拾得されたという話題がニュースになっていたが、それは津波が高速で流れる上に、朽ち果てにくい人工物だから漂着できたのであり、通常の潮流速度下で流れる天然物の椰子の実は、ハワイや北米大陸にたどり着く前に朽ちてしまうだろう。

”かくれ漂着”した実の総数は検証不可能だし、想像も及ばない。さすがに2倍まではいかないだろうが、沖縄県内と本土を合わせて50個程度ならば、十分にあり得る。渥美町・田原市で公式認定された156個および本記事で言及した3個とあわせて仮に合計210個とすれば、漂着率は5.47%まで上がる。大雑把に見積もって5%、すなわち20個に1個の割合で、名も知らぬ遠き島より椰子の実が日本の海岸に流れ着いてくると結論づけたい。

潮目が読めないからこそ

漂着地データをひとつひとつ見ていくと、愛媛県南予地方など、特定の年に限って椰子の実が複数個漂着した地域があることに気づく。渥美半島への漂着も2012年に集中している。想像するに、実が集団をなして黒潮なり対馬海流なりに乗って進んでいるうちに、低気圧による強風など何らかの事情により数個が本流から離れて、付近の海岸に向かって行ったのではないか。

渥美半島観光ビューローでは、あくまでも柳田國男の体験の再現を狙い、伊良湖恋路ヶ浜に椰子の実が漂着することを目標としている。だからと言って、文字通り潮目を読んで、伊良湖に着きやすくなるように投流日を決めた上で石垣島に出向くことは無理だろう。投流から漂着までは1ヶ月から3ヶ月かかる。(2ヶ月以上かかった個体は、海岸に漂着してから発見されて田原市に報告が行くまで、しばらく時間を要したとも考えられる。)スーパーコンピューターを用いた気象解析と予想技術がいくら進歩しても、1ヶ月以上先までの天候や風向き、潮流を正確に予想することは不可能である。

しかし、潮目が科学的に読めないからこそ、漂着率が5%程度で、参加者に買ってもらった椰子の実100個中95個は消えて戻ってこないからこそ、「愛のココナッツメッセージ」事業には人をひきつけるものがある。往年の文学作品に想いを馳せつつ、人智が及ばない領域にあえて身を委ね、そこにロマンを見い出すことが、この事業最大の意義だろう。

ちなみに、柳田國男が拾い上げた椰子の実の来歴は以下のように想像できる。

(1)1898年9月6日の夜のはじめ頃、南から紀伊半島に近づく台風が海上に南東風をもたらし、熊野沖を北東方向に流れていた椰子の実が黒潮本流から外れて、伊勢湾内に入る。

(2)6日夜遅くから7日未明にかけて、台風は遠州灘付近に上陸、北東方向に進む。伊勢湾では強烈な北風が吹き、一旦四日市・桑名付近まで流れていた実が湾口まで押し戻される。

(3)7日朝、台風は東海地方から遠ざかり、西からの風に変わり、次第に弱まる。椰子の実は湾口から抜けようとした時に適度な強さの西風を受けて、伊良湖恋路ヶ浜に打ち上げられる。

割れていた実は(1)~(3)のどこかで、何かの物体に衝突したのだろう。黒潮上で割れていたら断面が摩耗するだろうし、片方しか漂着しない可能性が高くなる。

これに似た気象条件が発生すれば、恋路ヶ浜漂着の確率は上がるだろうが、台風の力を借りて漂着を願うことは渥美半島観光ビューローの本意ではないだろう。

今後の個人的希望

地元の願いとは別に、個人的に「椰子の実が漂着したら面白そうな地域」を挙げたい。

(1)佐渡
対馬海流に乗り、玄界灘や日本海に進んだ実はまだ2つしか報告されていない。もうそろそろ、日本海に行く実がまた現れてもよい頃である。その場合、山陰や北近畿、北陸の海岸よりも、日本海の離島のほうが漂着しやすいのではないかと思う。とりわけ佐渡に着けば、結構な話題を呼びそうである。日本が”島国”であることを、改めて実感させるニュースになるだろう。

(2)鎌倉
2016年に、神奈川県横須賀市秋谷海岸(三浦半島西岸)への漂着が報告された。すなわち、湘南地域に届く可能性も十分にある。今後、鎌倉市の稲村ケ崎や藤沢市の江ノ島などで発見されたら、大きな注目を浴びるだろう。そのあかつきには「首都圏ネットワーク」で、ぜひ取材してほしい。

三浦半島の東側、横須賀市久里浜や千葉県富津市沖を越えて東京湾まで入り込むことは、台風などでよほど強い南風が吹かない限りは難しそうである。

(3)勿来
太平洋側の北限が福島県双葉郡楢葉町というのは、やや驚きであった。黒潮本流を離れてから、かなり長く漂っていたことになる。宮城県以北は黒潮と親潮の合流があるため、漂着は難しそうである。福島県浜通りならば、いわき市の南端、勿来(なこそ)海岸に期待したい。古来より「な来そ」(来るな)との掛詞として歌枕に使われ、数々の伝説が残る地である。漂着すれば「これ以上北に来るな」の象徴にもなる。東に向いた海岸なので、「あゆの風」(東風)が吹けば、黒潮本流から外れて到着することも可能だろう。

(4)小豆島
前述した通り、瀬戸内海地方には漂着しづらいと考えられるが、香川県小豆島あたりならば、もしかしたらチャンスがあるかもしれない。南側の土庄港や坂手港より、東側の福田港付近のほうが有利と思える。淡路島や泉州、須磨・舞子などのトラップをかいくぐるには、よほど風向きに恵まれる必要があり、難易度はここで挙げた中で最も高いかもしれない。

歴史は繰り返されていた

1991年の第4回投流では、愛媛県北宇和郡津島町の嵐海岸に漂着したと記録されている。初めて見る地名なので検索をかけたら、地元の人が書いているブログを見つけて、思わず笑ってしまった。2012年に地元路線バスを運営している宇和島自動車が「嵐停留所」バス停の携帯ストラップを作ったら、1,500個も売れたという。

愛媛県では1970年代半ば、野口五郎さんの人気が沸騰していた頃、折からの縁起きっぷブームに乗って国鉄予讃線「五郎駅」の入場券が大いに売れたという。まさしく、歴史は繰り返されていた。が、五郎駅入場券については全国ニュースになった一方、嵐停留所のストラップは当時その話題を耳にした覚えがない。やはり鉄道駅、それも国鉄→JRのほうがはるかに訴求力が高いと、改めて感じた。

消えた愛、残った愛

最後に。
今回の記事のタイトルを「消えた愛のココナッツ」としたのは、石垣島で投流した後、海に消えてしまった大多数の椰子の実はどうなったのだろうと、ふと思いを馳せたことに由来する。

調べてみたら、たくさんの愛が消えていた。
柳田國男と島崎藤村の友情破綻に始まり、伊良湖道の駅のやしの実博物館閉鎖、漂着したのに登録から漏れた椰子の実、伊勢湾フェリー展示のために愛のココナッツメッセージボードを平気で裏返しにするほど薄れた、渥美半島観光ビューローの『椰子の実』に対する情熱…。

その一方で、大中寅二の作曲や伊勢湾フェリーの廃止撤回など、愛を残そうとした動きもいくつかあった。そんな浮世を遠く眺めるように、椰子の実は今この時も海上を漂っているのだろう。




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