本音と建前(浅野浩二の小説)

本音と建前

吉田美津子は、一人っ子である。
美津子には、父親しかいない。
美津子の、母親は、美津子を産んだ直後、産褥熱、で死んでしまった。
そのため、美津子は、もの心が、ついてからは、父親の、吉田修一に、育てられた。
父親は、優しく、美津子を愛して、育てたので、美津子は、父親が大好きだった。
美津子は、ファザコンと言っても、間違いではない。
しかし、幼稚園に入って、皆、父親と母親がいるのに、美津子は、父親しか、いないので、友達が、母親のことを、話すと、美津子は、寂しかった。
それで、美津子も、母親を欲しい、と、思うようになった。
父親と娘だけ、という、関係に、美津子は、不満を感じてはいなかったが、他の子には、皆、父親と母親がいるので、その劣等感で、母親が欲しいと思ったのである。
もちろん、美津子は、テレビは、セーラームーンや、秘密のアッコちゃん、などの、女の子向けの、アニメ番組を見たかった。
美津子の父親の、吉田修一は、ある証券会社、(N証券)、に勤める、エコノミスト(経済評論家)だった。
母親がいる家庭だと、母親は、結構、娘に合わせて、一緒に、アニメ番組を見て、娘と一緒に、楽しむのだが、美津子の父親は、仕事一筋の、固い男だったので、会社から帰ってきたり、また、休日も、テレビは、ニュース番組や、政治討論会の番組しか、見なかった。
母親がいると、母親は、結構、娘のことを、考えて、絵本やマンガを買ってきてくれるのだが、美津子の父親は、仕事一筋の、固い男だったので、大手新聞、各社と、経済雑誌しか、買ってこなかった。
日曜日は、美津子の父親は、政治・経済、の討論会の、番組しか、見なかった。
美津子は、優しい父親が好きだったので、父親と、一緒に、父親の見ている、政治・経済、の討論会の、番組を、父親にじゃれつきながら見た。
美津子が五歳になった、誕生日のことである。
父親が、プレゼントとして、「さあ。美津子。面白い本を買ってきてやったぞ」、と言って、ワクワク嬉しがっている、美津子が、父からの、プレゼントの袋を開けた時、それが、絵本ではなく、カールマルクスの、「資本論」、だったのを、見た時は、美津子は、さすがに、うわべは、「ありがとう。パパ」、と、満面の笑顔で、感謝の言葉を言ったものの、内心では、「ウゲー」、と、げんなりしていた。
美津子の父親は、子供の気持ちを察することの出来ない、鈍い男だったので、娘の美津子に、政治の話をしてやった。
まだ、幼稚園の子供は、政治や経済など、に関心などない。
妻がいたら、妻と、政治の話を交わすことも出来るのだが、修一には、妻がいない。
なので、娘の、美津子が、妻の役にされた、のである。
修一は、娘に、色々と、政治の解説をしてやった。
それが、娘に対する思い遣りだと思っていた。
自分は、興味があって、面白くても、娘は、そんなものには、まだ、興味は無く、娘は、歳、相応の、セーラームーンや、秘密のアッコちゃん、などの、女の子向けの、アニメ番組を見たかったのだが、父親は、自分の興味のあることは、他人も興味を持っているものだと、思っていた。
つまり、父親の修一は、相手の求めているものは、何か、ということを、察する能力に欠けていたのである。
これを、医学的に、アスペルガー症候群という。
しかし、娘は、父親が好きだったので、父親の、話しを、わからないまま、聞いた。
それで、政治のことは、わからないまま、日本や、外国の総理大臣や、大統領の、名前や顔を、自然と、覚えることになった。
ある時、娘が、父親に聞いた。
「ねえ。おとうさん。日本と中国は仲が悪いのに、どうして、安部首相と習近平は、仲良く、手をつないでいるの?」
娘は、父親に、そんな、素朴な質問をした。
父親はそれに対して、こう答えた。
「それは、本音と建て前が違うからさ。お前だって、健太くんが好きなのに、好きって言えないだろう」
そう父親は、説明した。
娘は、幼稚園で、同じ組の、健太が、好きだった。
しかし、恥ずかしくて、健太に、「好きです」、とは、言えなかった。
そのことを、娘は、どうしたら、いいのか、わからず、以前に、食事の時に、父親に話したのである。
「お父さん。本音と建て前が、違うって、いけないことなの?」
娘が父親に聞いた。
「そりゃー。当然、悪いことさ。政治家なんて、全員、本音と建て前が違うんだ。だから、日本の政治は、良くならないんだ」
と、父親は、言った。
「そうだったの。本音と建て前が、違うって、悪いことなのね」
と、娘は、ポツリと、呟いた。
「それは、当然そうさ。日本の政治家たちが、正直になったら、日本は、今より、はるかに、良い国になるんだ」
と、父親は、言った。
それで、娘は、その翌日、幼稚園に行った時、勇気を出して、健太に、「好きです」、と言った。
健太は、喜んで、「僕も、美津子ちゃんが好きさ」、と言った。
娘は嬉しかった。
それ以来、美津子と健太は親友になった。
父親に言われたように、何事でも、正直に、言うことが、大切だと、美津子は思った。
ある時、家に、父親の修一の、会社の同僚の、山本、が来た。
山本は、吉田と、大学時代の友人で、卒業後も、同期で、N証券、に入社した。
彼は、以前にも、来たことがあったので、吉田の娘の美津子は、知っていた。
「やあ。美津子ちゃん。久しぶり」
と、同僚の山本は、挨拶した。
「こんにちは。山本さん。お久しぶりです」
と、美津子は、礼儀正しく挨拶した。
美津子は、山本に、お茶と、お菓子を、盆に乗せて、
「はい。どうぞ」、
と言って出した。
と言っても、お菓子は、おやつ用の、クッキー、で、お茶は、冷蔵庫の中の、麦茶を、コップに注いで出しただけだが。
しかし、山本は、
「いやー。どうも、有難う」
と、礼を言った。
そして、美津子は、居間を出て行った。
山本と、父親の、二人は、色々と話した。
「お前も、男手一人で、娘を育てるのは、たいへんだろう。再婚したら、どうだ?」
と、聞いた。
「まあ、そう思う時もあるけどな。しかし、相手がいないからな」
と、父親は、言った。
「会社の、京子は、お前のことが、好きそうだぞ」
と、友達は、言った。
「ええっ。本当か?」
父親は、驚いて聞いた。
「ああ。以前、会社の帰りに、飲み会で、京子に、お前のことを、どう、思う、と、聞いたら、彼女は、顔を赤らめていたぞ。まず、間違いなく、彼女は、お前が好きなんだ」
と、友達は、言った。
「それは、本当か?」
父親は、聞き返した。
「ああ。本当さ。ところで、お前は、京子のことを、どう思っているんだ?」
と、友達が聞いた。
「ま、まあ。嫌いじゃないよ。でも、オレは、子持ちだし。とても、告白する勇気なんてないよ」
と、父親は、言った。
「京子さん、だって、子持ちじゃないか。お前と、京子さん、が、結婚するのが、一番、いいんじゃないか?」
と、友人は、言った。
京子、は、父親の会社、(N証券)、の同僚で、京子とは、同期入社だった。
京子は、入社して、二年後に、大学時代の友人と、結婚した。
そして、健太、という男の子を生んだ。
しかし、京子の夫は、健太、が、生まれた、一年後に、交通事故で死んでしまったのである。
娘の美津子と、京子の息子の、健太は、同年齢で、同じ、幼稚園の、同じクラスだった。
「ともかく、オレは、子持ちだし、夜、遅くまで、仕事で、忙しいだろう。それに、夜中に、いびき、も、かくし・・・。だから、結婚しても、幸せな家庭を築くことは、できないと思うんだ」
と、父親は、言った。
友達は、ニヤリと笑った。
「それは、建て前だろう。お前は、憶病な性格だ。本音は、お前は、京子さんが、好きだけれど、京子さんに、プロポーズして、断られたら、恥ずかしいから、言い出せない、だけなんだろう」
と、友達は言った。
図星だった。
「ま、まあ。そうだけどな」
と、父親は、照れくさそうに言った。
「京子さんは、お前と、結婚したがっているんだよ」
と、友達が言った。
「どうして、そんなことが、わかるんだ?」
と、父親は、間髪を入れず、聞き返した。
「この前の日曜日、たまたま、妻と、ショッピングモールの中の、ファミリーレストランに入ったら、健太君を連れた、京子さんに、出会ったんだ。それで、京子さんに、お前のことを、どう思っているか、聞いてみたんだ。京子さんは、答えられなかったけれど、顔を赤くしていたぞ」
と、友達は言った。
「それは、本当か?」
と、父親は目を輝かせて言った。
「ああ。本当さ」
と、友達は言った。
それから、色々と雑談して、友達は、帰っていった。
「京子さんに、好きです、結婚して下さい、と、ちゃんと言うんだぞ」
と、友達は、ふざけ半分に言い残して。
「ああ。わかったよ」
と、父親は、相手の冗談に、冗談で、答えた。
それを、美津子は、こっそりと聞いていた。
翌日、会社で、京子が、異様に嬉しそうな顔で、吉田に挨拶した。
「おはようございます。吉田さん。お昼に、お話して頂けませんか?」
と、聞いてきた。
修一には、何の用だか、さっぱり、わからなかった。
昼になって、二人は、会社から出て、近くのファミリーレストランに入った。
そして、昼食も兼ねて、カレーライスを、注文した。
「あ、あの。京子さん。ご用は何でしようか?」
修一が聞いた。
京子は、ニッコリ、微笑んだ。そして、
「あ、あの。メール、ありがとうございました。嬉しいです」
と、修一に言ってきた。
修一は、びっくりした。
「あ、あの。何のことでしょうか?」
修一は、聞き返した。
「あ、あの。昨日、送って下さったメールのことです」
と、京子は、顔を赤くして、言った。
それでも、修一には、何のことだか、わからない。
「とぼけないで下さい。修一さんは、昨日、私に、メールを送って下さったじゃないですか」
そう言って、京子は、自分の携帯電話の、受信メールボックスを開けた。
「ちょっと、見せて下さい」
そう言って、修一は、京子の、携帯電話のメールを見た。
そこには、修一から、京子への、メールがあった。
修一も、京子も、同じ職場なので、仕事の打ち合わせ上、携帯番号と、メールアドレスは、登録してあった。
修一から、京子への、メールには、こう書かれてあった。
「好きです。京子さん。結婚して下さい」
修一は、吃驚した。
そして、急いで、自分の、ポケットから、自分の、携帯電話を取り出して、開けてみた。
そして、送信メールボックスを開けてみた。
そこには、修一から、京子への、送信メールがあった。
そして、それには、こう書かれてあった。
「好きです。京子さん。結婚して下さい」
と。
修一は、顔が真っ赤になった。
(誰がこんなイタズラを・・・・)
と、思ったが、すぐに、その容疑者が、頭に浮かんだ。
「あ、あの。修一さん。結婚式は、いつに、なさいますか?」
京子は、モジモジしながら、小娘のように、頬を上気させて、聞いた。
「えっ。いえ。それは・・・」
と、修一は、曖昧な返答をした。
その日、修一は、頭が混乱して、仕事が手につかなかった。
(メールを送ったのは、美津子だ。それ以外にいない)
と、修一は、確信していた。
修一は、今日、家に帰ったら、愛してはいるが、とんでもない悪戯をした、娘の、美津子を、うんと、叱ろうと思った。
仕事が終わって、修一は、家に帰った。
「お帰りなさい。お父さん」
娘は、無邪気に、言った。
父親は、娘をじっと見た。
「美津子。おまえ。パパのメールをいじらなかったか?」
そう父親は聞いた。
「うん。いじったよ。京子さんの、アドレスに、好きです、って書いて送ったよ」
と、娘は、無邪気な顔で言った。
「どうして、勝手に、そんなことをしたんだ。パパの携帯を勝手に、いじるなんて、悪いことだと、そんなことも、わからないのか?パパは、恥ずかしくて仕方がなかったぞ」
と、父親は、言った。
「だって。お父さんは、京子さんが好きなんでしょう。人間は、本音と建て前を使い分けないで、自分の気持ちを、正直に、言うことが大切なんでしょう?」
娘は、キョトンとした、顔で言った。
「ま、まいったなあ」
父親は何も言い返せなかった。
しかし。娘のおかけで、父親は、京子と再婚した。
こうして、修一と京子は、結婚して、京子は、住んでいたアパートを、出て、修一の家に、息子の健太と、移り住んだ。



平成30年11月11日(日)擱筆


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