お鶴と亀吉(浅野浩二の小説)

それは植木職人の亀吉が、いつものように博打をして、いつものようにスッカラピンになって、長屋に帰って、寝酒をかねた、やけ酒をガブ飲みし、大いびきをかいて、ぐっすり寝て、大あくびをしながら、おきた翌朝のことだった。
台所でトントンと音がして、カタカタと鍋のなる音がする。亀吉がそっと台所をのぞくと、全く見ず知らずの女が襷をかけて、みそ汁の豆腐をきざんでいる。亀吉はおどろいて戸板からそっと、その女をみた。女はまるで幽霊かと思うほどおっとりしずかな様子で、華奢な手つき、体つき、である。女は亀吉に気づいて、ふり返り、あどけない顔つきで笑って、見ず知らずの亀吉に言った。
「待ってて下さい。今もう朝ごはんができますから」
まるで、あたかも、亀吉を知っているかのような口ぶりである。亀吉はおどろいて、再び寝床に入って蒲団をかぶって、いったいあの女はだれだろうと考えた。いつか飲み屋で出会った女だろうか。いやいやあんな女は知らない。それに、あの女はまるで俺の女房みたいな口の聞き方をする。亀吉は思案をめぐらしたが、どうにも合点がゆかない。亀吉がそんな思案をしているところへ、台所から、
「あなた。ごはんができましたよ。いただきましょう」
と女が声をかけた。亀吉が蒲団をおそるおそるあげると、卓の上に朝御飯の用意ができている。みそ汁から、あたたかい湯気がでている。女は座って静かにほほえんでいる。わけもわからないが、グータラな亀吉には、おもわず久しぶりのうまそうな朝ごはんに、おずおずと、食事をすることにした。
「うまい」
亀吉はパクパク食った。女も静かにたべている。亀吉が女をみると、女はだまってしとやかにほほえむ。喰いながら亀吉が、
「おい。お前はいったい何者だ」
と聞くと、女は、
「何いってるんですか。自分の女房をわすれるなんて」
と笑う。
「で、名前は?」
「鶴ですよ」
と女は答えた。食事がおわって、洗いがおわると、
「では、私は料理屋の仲居の仕事に行ってきます。あなたも博打ばかりしていないで、少しは働いて下さいな」
と言って出かけていった。亀吉はしばし思案にくれたが、もともと、何事もテキトーにすます性格の男。
「まっいいか。夢かもしれないな。これは」
と思って再び蒲団に入って大いびきをかいて、寝てしまった。
だが、その日の昼、同じ長屋の庄助が亀吉のところにとびこんできた。この男は生きた瓦版のような男で、何事もいちはやくかぎつけて、長屋にふれまわるような男である。時々、亀吉と博打で会うことがあって亀吉とは馴染みの男である。
「おい。亀公。けさ、お前の家から、えらい別嬪な女が出てくるのを見たって豆腐屋の弥助が言ってたぞ。いったい誰なんだ。何でも、消え入りそうな幽霊みたいな女だってそうじゃないか」
亀吉は起きて、
「知らん」
といってパタンとねてしまった。庄助は腕を組んでもっともらしく独り言のように、
「これは、お前がグータラなもんだから地獄の閻魔大王がおこって、幽霊をとりつかせてバチをあてたんだ。お前、気をつけないと牡丹灯籠の新三郎みたいになっちまうぞ。ともかく気をつけな」
といって帰って行った。鶴という女は、料理屋の仲居の仕事がおわると夕方帰ってくる。まるで幽霊のようだと、うわさは長屋にまたたく間にひろまった。鶴は夕ごはんをつくる。亀吉も、うまいもんだから食う。
そんな生活が何日かたつうちに亀吉も、女に申しわけないような気がおこってきて、酒もやめて、植木屋の仕事をするようになった。鶴も立ち直ってくれた自分の亭主がうれしい様子である。何やら、二人は、夫婦のような生活をはじめた。鶴という女は、足もとが暗く、足音がしないような歩き方をする。歩いているうちにフッと消えてしまうような感じである。長屋の者達は、生きた瓦版の庄助の、
「あれはきっと幽霊にちちがいない」
というふれこみから、皆、女をおそるおそるの目つきで見た。たまに視線があうと、鶴は微笑を返す。たしかに生気がない。生きている人間のような活気がない。それで長屋の衆は気味悪がって、女をさけるようになった。亀吉は、賭博でかった金で食ってきたような男だったが、怠け者でもキモがすわっている。又、自分に一心につくしているお鶴に、ほだされて、お鶴に情をもつようになっていった。亀吉の、弱々しいお鶴に対する思いは日に日に募っていった。
ある日の晩、ただでさえ生気のないお鶴が、いつも以上に憔悴している。理由を聞くと、村の子供達がいつも自分を幽霊だ、幽霊だ、といって、石をなげつける。それくらいならいいが、街中を歩いている時、城の大目付に目をつけられて、かこってやる。言う事を聞かなければ、お前は幽霊なのだから町奉行にひきわたす、と言われた、という。
「お前さん。わたし、どうしたらいいんだろう」
といってお鶴は涙をポロポロこぼすのであった。亀吉は肩をおとしてシクシク泣くお鶴を抱いて、
「心配するな。もう、仕事はやめろ。俺が働く」
といってなぐさめた。お鶴は嬉しそうに涙をふいて、か弱い表情にかすかな笑みをうかべ、うなずいた。
翌日、亀吉が仕事から帰るとガランとしずまり返っている。お鶴がいない。
「お鶴。お鶴」
といって、亀吉はあたりを探したが、みつからない。長屋のとなりの家の者に聞くと何でも今日、一人でいるお鶴を岡っ引きが町奉行に連れ去っていったという。それ以上は知らないといって戸を閉じた。亀吉は庄助のところへ行って、その様子をきいた。庄助が言うには、身元のしれぬあやしい女、くの一の疑いがあるというのが理由らしい。亀吉はとっさに、これはきっと大目付がお鶴が妾になることを断ったため自分の矜持を傷つけられて、おこったからだと直覚した。庄助は亀吉とお鶴のむつまじい仲をみているうちに、自分が以前、彼女を幽霊だなどといいふらしてすまなかったとわび、今では二人のためなら、どんな協力もおしまない、と言った。亀吉は何とかお鶴を救いださねば、と考えた。庄助は牢番をしている非人とは、わけあって知った仲だから、頼んで、連れ出そうか、と言った。だがそれでは非人にとがめが必ずかかる。夜もおそくなったので亀吉は庄助の家から帰った。燭台に火をともした亀吉は腰を抜かして、へたりおののいた。何とお鶴がしずかに端座してだまってうつむいていたからである。まさしくそのまわりには幽気がただよっている。
「お、お前。いったい、どうやって牢の中から出てきたんだ」
と問うと、お鶴はうつむいたまま、
「私にもわかりませんが、あなたのもとに帰りたいと心のうちに強く思っていましたら、気づくとここにきておりました」
と言う。亀吉はこの時、この女が幽霊にちがいないと確信した。しかし、亀吉にとっては、そんなことはもう、どうでもよかった。
翌日、必ず町奉行から役人が来るにちがいないし、こうなっては幽霊のことは、お寺の和尚に聞くしかないと思い、その夜のうちに二人は村はずれの寺に行った。和尚は、なぜお鶴が成仏できないのか、それは自分ではわからぬ。と言って、お鶴の方に顔を向けた。和尚はお鶴が、なぜ成仏できないか、もしかすると自分でも知っているのではないかと鶴に聞いた。和尚のあたたかい目に、お鶴はとうとう耐えられなくなり、わっと泣きして、身の上を語りだした。それによるとお鶴の身の上とはこのようなことである。彼女は子供の頃から体が弱く、村のお医者の言うところによると、体の関節が、そして、腎の臓器が、年とともにおかされていく、不治の病で、二十までに死ぬ病だという。日光にあたるとよくないので、ほとんど家の中ですごしてきたという。そして十七で死んだという。しかし、自分は人並みの幸せ、を、経験したかった。このままでは死んでも死にきれない。それが成仏できなかった理由だと思う、と語った。幽霊がとりつく、と、とりつかれた人の命はだんだん減っていって、最後には死んでしまう。といって、お鶴は申し訳なさそうに亀吉をみた。
「亀吉さん。ごめんなさい」
といってお鶴は涙を流した。
「それで良い人にとりついては申し訳ないので亀吉さんを選びました。はじめは少し、亀吉さんとすごして、おどろかせて、怠けぐせを直してから成仏しようと思っていました。それが亀吉さんのためにもなると不遜にも思いました。でも、亀吉さんは思った以上にいい人で、私を守り、大事にして下さいました。又、私も亀吉さんが、だんだん、そして今ではかけがえのない人になっていって、亀吉さんとの生活が楽しく、なかなか成仏できなくなっていってしまいました」
お鶴は亀吉に力ない視線を向けた。
「亀吉さん。ゆるして下さい。私とすごした日々の分、あなたの寿命が失われてしまっていたのです。私はあなたに好意を寄せるような振りをして、あなたの命を少しづつ、うばっていたのです」
亀吉は一笑した。
「そうだったのか。よく言ってくれた。ありがとう。なあに。気にすることなど全くない。オレのような怠け者が生きていたところで何にもならん。それより、お前が、きてくれたおかげで、どんなに生活にはりがでたか。生きがいがもてたか。今となっては、お前はオレにとってかけがえのない大切な女房だ。そうだったのか。お前が、だんだん、なぜ元気がなくなっていったのか、そのわけがわかった。お前は悪い心の持ち主じゃない。もし本当に悪い心だったら、オレをだましつづけただろう。今、すべて正直に語ってくれたことで、もう帳消しだ。オレは命がなくなるまでお前と生きる」
というと、お鶴は目に涙をうかべ、亀吉に泣きついた。二人はその晩、寺にとまった。
翌日の朝、二人が、この村を出て、旅にでようということになり、寺を出た時だった。いきなり、しげみにひそんでいいた侍があらわれ、お鶴に、
「おのれ。人身にとりつく悪霊め。成敗してくれる」
というや、お鶴に斬りかろうとした。この男、名を清十郎という浪人で、金とひきかえに何でもやる評判の悪い浪人である。大目付の命令で、お鶴を殺すことをひきうけたのだろう。お鶴は目をつぶってすくんでしまった。
「お鶴」
亀吉はとっさにお鶴の名をさけんで、お鶴をかばおうとした。清十郎は、悪霊をかばいだてするやつもゆるさん、といって、亀吉をメッタ斬りにした。亀吉の背から血がふきだした。亀吉がたおれると、お鶴は、
「あんた」
といって泣いて断末魔の亀吉に抱きついた。清十郎は、一息ついたあと、
「おのれ。人身にとりつく悪霊め。成敗してくれる」
と叫んで、お鶴に斬りかかった。だが、もともと幽霊のお鶴に実体はない。刀は空を切るだけである。二度、三度きりかかってもダメだとわかると、清十郎はとうとうあきらめて、急ぎ足に去っていった。断末魔の亀吉が、
「お鶴」
と一声いって息をひきとった時、お鶴は水蒸気のようにパッと消えてなくなった。亀吉のいなくなった世にはもう未練がなくなり、成仏できたのであろう。和尚は二人の葬式をして、「亀吉、鶴の墓」として寺の墓地に墓をたてた。清十郎はそののち、やくざと賭博でもめごとをして、ケンカとなり、殺されたということである。



平成22年11月8日擱筆

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