羅生門(浅野浩二の小説)

ある日の暮方の事である。
一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。下人は、永年、使われていた主人から、解雇されて、行くあてが無く途方に暮れていたのである。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。何故かと云うと、この二三年、京都では、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災いがつづいて起こり、洛中はさびれ、羅生門もボロボロにさびれてしまっていた。するとその荒れ果てたのをよい事にして、羅生門には、狐狸が棲すみ、盗人が棲み、とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来てしまった。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪がって、この羅生門には近づかなくなってしまったのである。

下人は、特別に善人でもなければ悪人でもない普通の性格の人間である。だが今までに悪い事をしたことはない。しかし、主人から、解雇された今、生きていくには、盗人になるしかない。そうしなければ飢死してしまうのである。それで、生きていくためには盗人になってもいいものだろうかと、悩んでいたのである。そう悩むくらいだから、下人は、知性的で良心を持った、いい人間といっていいだろう。

下人は、大きなくしゃみをして大儀そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。
下人は、そこでともかくも、今日は羅生門の上の楼で夜を明かそうと思った。幸い門の上の楼へ上る、幅の広い梯子がある。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた太刀が鞘走らないように気をつけながら、その梯子段を登っていった。そうして頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。
見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててある。下人は、それらの死骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩おおった
さらに驚いたことに、その死骸の中に一人の老婆が蹲まっていた。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。
老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、死骸の頭の長い髪の毛を一本ずつ抜いていた。
下人には、何故老婆が死人の髪の毛を抜くのかわからなかった。
そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。
老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾はじかれたように、飛び上った。
「おのれ、どこへ行く」
下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵しった。
「何をしていた。云え。云わぬと、殺すぞ」
下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀を老婆の眼の前へつきつけた。老婆は、恐怖に震えながら、か細い声で、こう言った。
「この髪を抜いてな、カツラにしようと思うたのじゃ」
老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。
「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろう。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろう。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろう」
老婆は、大体こんな意味の事を云った。
下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。しかし、これを聞いている中に、もはや下人は、盗人になるか、どうか、迷う気持ちは全くなくなっていた。
「そうか」
老婆の話が完おわると、下人は嘲けるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、己おれが引剥ぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする身なのだ」
そう言って下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとろうとした。

   二

その時である。
「待った」
と老婆は下人を制した。
「うぬの理屈はわかっとる。わしは生きるために、死体から髪の毛を抜いて、それで、糊口を凌いでいる。つまり、自分が生きるために悪いことをしている。だから、うぬも、その理屈で、生きるためには、悪いことをしても、いい、と言うんじゃな」
老婆はそう言った。
「そうじゃ。その通りじゃ」
下人は、老婆に詰め寄るように怒鳴りつけた。
「しかし、ちょっと考えてみんしゃれ。確かに、わしは自分が生きるために、悪いことをしている。しかし、わしのしている悪い事とは、死人から髪の毛を抜くことじゃ。わしは、自分を正当化するつもりはないが、すでに死んでいる人間から髪を抜くことが、はたして、そんなに悪いことじゃろうか?一方、わしの着物は一張羅じゃ。これなしには着る物が無い。餓死するかもしれん。うぬは、若く体力もある。うぬは、ちゃんと着物を着ている。わしから着物を奪わんでも、生きていけるはずじゃ。それより、うぬは、わしの自己正当化が気に食わんから、わしから着物を奪おうと、思っとるのじゃろ」
こう老婆は居丈高に言った。
「そうじゃ。その通りじゃ」
下人は自信に満ちた口調で、こう罵った。
しかし老婆は淡々と話し続けた。
「わしは自己正当化するつもりはない。しかし、罪には、軽重というものがあるんじゃなかいかの?強盗殺人でも、立ちションベンでも、確かに罪には、かわりない。しかし、その二つの罪を同等に、扱っていいものかな?」
下人は、うぐっと咽喉を詰まらせた。
「強盗殺人は重い罪じゃ。しかし立ちションベンは軽犯罪じゃ。同じ罪という言葉で、ひっくくって、二つを同等に扱ってしまっては、世の中の法体系が、ひいては、世の秩序が、全くおかしくなってしまうんじゃなかろうかな?」
下人は口惜しそうな表情をしながらも言い返せなかった。
老婆は嵩にかかったように、さらに続けて言った。
「うぬは・・・。生きるためには悪い事をしてもいい。うぬは、悪い事をしなくては生きていけない。それゆえ、うぬは、わしの着物を剥いでもいい。という三段論法で、見事に論理的に詰めたように思うとるのじゃろう。しかし詰めが甘いわ」
老婆は自信に満ちた口調で言った。
「どう、詰めが甘いんじゃ」
下人は老婆に詰め寄った。
「よう考えてみんしゃれ。人から物を奪うというても、死人から盗るのと、生き人から盗るのとでは大違いじゃ。死人から成長ホルモンを取り出すため脳下垂体を盗ることは、医療の世界では常識じゃ。親族の了解など得ておらんわ。臓器移植にしても、脳死と確実にわかった時じゃ。死人から、臓器を盗って、その臓器を難病の患者に移植して、その患者の命が助かったなら、これほどの功徳は、ないではないか。ぬしは、そうは思わんか?わしも、死んだら自分の髪の毛をカツラとして誰かに、抜いて貰いたいと思うとる。髪の毛どころか、わしは臓移植提供者のドナーに登録しておるがな。死んだ後なら、何を盗られようと、何も困ることはないからの。わしは構わんと思うとる。ぬしは、わしの言うことをどう思う」
老婆に論破されて、下人は、すごすごと羅生門の梯子を降りていった。もう雨は小降りになっていて雨宿りする必要は、ないほどになっていた。下人は無言で羅生門から離れていった。下人のゆくえは誰も知らない。


平成25年5月14日(火)擱筆

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