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格好いい、の二重性について

『あしたのジョー』について

今日で、一月も終わりか。
何かこういう文章を書きたくて書いているんだけど、いざ書こうとすると何も思い付かなかったりするんだよな。

そう言えば、一つ書きたい事があったな。
『あしたのジョー』についてだった。

『あしたのジョー』って、言ってみればただの古い(五〇年ぐらい前の)漫画なんだけど、ある意味では自分の一番好きな漫画かもしれない。

他に好きな漫画って『北斗の拳』とか『YAWARA!』とか『うる星やつら』とかもあるけど、『あしたのジョー』の場合、単純に面白いだけじゃなくて自分の人生に影響を与えているところはあるんだよね。

自分は『あしたのジョー』って普通に一回しか読んだ事がないから、詳しい解説とかはできないんだけど(自分より上の世代の人は何度か熟読している人もいるかもしれないけど)、結局自分が言いたい事はその漫画の内容的な事よりも、ただ自分の人生への影響についてとかそういう事になるのかな。

ウルトラマンとか仮面ライダーとか

だから、これはあくまでも個人的な思いにはなるんだけど。

つまりとりあえずまとめると、自分が書いているのは一般的に『あしたのジョー』がどう読まれているかではなくて、ただ自分がそれをどう読んでどう記憶しているかという話なんだよね。

で、結局自分には、ジョーは格好よかった。
ただ、その格好いいはそのままの意味で読んではいけないと思うんだよね。

それは、忍者が格好いいとか侍が格好いいとか、そういう格好いいに近いものがある。

古い漫画の格好よさって、そういう格好よさだよね。
それは或いは、ウルトラマンとか仮面ライダーの格好よさとか、そういう格好よさに近いものがあるという話なんだけどね。

信じているのではなく憧れている

自分は、『あしたのジョー』を読んでそれを信じている訳ではなく、どちらかと言えばただ憧れているんだよね。

憧れって、やっぱり引いて見ているところがあるでしょ。
結論としては、手が届かないと言うか。

信じているのならば、多分自分ももっとがむしゃらに矢吹丈になろうと思った筈なんだよね。
ところが、自分は特に『あしたのジョー』を信じてはいない。

例えば、スポーツなんかで根性論というものがあって、それで言えば『あしたのジョー』はまず根性論だよね。

『巨人の星』とかもそうなんだけど。
或いは、『AKIRA』なんかも結局根性論だった記憶がある。

寧ろ、根性論で生きて行きたかった

で、根性論とか今信じている人なんかいるのかなっていう話なんだけど。
自分よりも年配の人の中にはいるのかもしれないかな、ぐらいだとは思うんだよね。

それでも自分は、特に根性論とかを否定する気もないんだよね。
寧ろ、憧れる。
正直、もっと根性論で生きて行きたかった。

じゃあ、何で自分は根性論で生きて行かないのか。
つまり、この文章の読者は既に気付いているかとは思うんだけど、憧れてはいるけど信じてはいないからなんだよね。

だから、『あしたのジョー』のような格好よさ(根性論とか)を語る時に、その二重性が付きまとうっていう話になるんだけど。
格好いい、という言葉の意味の二重性が。

だから格好いいって言っても、例えば尾崎豊とかブルース・リーとか長嶋茂雄とか、そういうのって憧れているだけであって特に信じてはいないという事にはなるんだよね。

それでも、自分は憧れる

今時、本気でそういうものを信じているって小学生でもあり得ないよね。
ところが、相変わらずそういうものってある程度人気がある訳で、結局小学生だけじゃなくて寧ろ大人からも人気があるとは思うんだよね。

で、自分は相変わらず矢吹丈に憧れているという事なんだけど。
違う意味でね。

ある意味、現実には矢吹丈みたいな人がいないという事は皆既に知っているし根本的に漫画だし、っていう話にはなる。

それでも結局、自分はその人生において矢吹丈に憧れてしまう。

わかるかな、わかんねえだろうな。
とか、そういうレベルの話になってしまうんだけど。

要するにそれは、そういう人生とかそれについての哲学とかの話になるのかな。

そういう話です。

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