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雑感記録(327)

【さあ、お前の罪を数えろ!】


という決め台詞は『仮面ライダーW』で見られる。最近、何だか原点回帰をしているのか知らないが、この間書店に行って『仮面ライダークウガ』のコミックが出ているのには驚いたものである。クウガは僕のドンピシャ世代…というよりも恐らくドンピシャ自体はアギトとか龍騎あたりなんだが。兄の影響でクウガはよく見ていたということを記憶している。

仮面ライダーW(2009年)

加えて、最近Netflixにて『風都探偵』が配信開始になった訳である。これも『仮面ライダーW』のアフターストーリー的な形で、1年後の世界が描かれる作品である。やはりアニメだと実写では限界のあったことも描写出来てしまうのだから凄い訳だが、逆を返せば、そのちゃちさの中で工夫を凝らした映像が見られないというのもまた僕からすると少し寂しい気持ちがある。

仮面ライダーは石ノ森章太郎の漫画が原作な訳だが、しかし凄いなと思う訳だ。それは単純に石ノ森章太郎の死後もこうして新しいシリーズ、言ってしまえばオリジナルシリーズが連綿と受け継がれているのだ。これはウルトラマンも同様である。ウルトラマンも円谷英二によって製作された訳だが、それが今もなお新しいシリーズが製作されている。僕は素直に作品の善し悪しなどは全く以て関係なしに、凄いことだなと手放しに思える。

仮面ライダーガッチャード(2023年)

実際僕は仮面ライダーにドップリ浸かってきた人間ではない。最近の『仮面ライダーガッチャード』は名前だけ知っているが、見たことはない。どうやって変身するのかもよく分かっていない。だが、ある共通の認識、仮面ライダーを通底しているものとしては「変身ベルト」がある。各ライダーによって特殊なベルトで変身する訳だが、これが魅力である。


変身過程にあるこだわり?とでも言えば良いのだろうか。

ウルトラマンは思い返してみると、単純に地球人がウルトラマンになるだけで、変身するのに細かいギミックなどは必要ない訳だ。

ウルトラセブンはモロボシ・ダンが眼鏡を掛けるだけで変身できる。

だが、これは僕からするとどうもおかしい。ウルトラマンに変身する際、ギミックが無い。それは単純に宇宙人が襲ってきていて、すぐに変身することで迅速に救うという実用的な面があるのではないだろうか。つまり、ウルトラマンは実用的な存在なのではないかと思うのだ。ところが、仮面ライダーともなると変身にギミックがある分、その時間性もどこかで考慮しなければならないはずなのだ。

先に書いた『仮面ライダーW』だと、フィリップと左正太郎の2人がまず必要である。加えて、最初にガイアメモリ(USBみたいなやつ)をベルトに差し込んだ方が意識を失う。大抵はフィリップがその役を担う訳だが、ファングジョーカーになる時は逆転する。また、エクストリームになる時は…と細かいことを書いても分からないだろうからここまでにしておこう。興味がある人は見て欲しい。そして2人のガイアメモリが入って、ベルトを「W」の形にして「変身!」と叫ぶと変身できる。

どう考えても手数が多い気がする。一番最初の仮面ライダーも律儀に「へん…しんッ!」と叫びながらポージングを決め、空中を回転し変身する。その間にショッカーが来てもおかしくはない筈で、恐らく何度も邪魔されるのではないのだろうか。脅威は僕等を待ってくれる訳ではない。いつ何時も、自分が図り知らぬところからやって来るものである。そういうことを考えると、仮面ライダーは実用的というよりどこかファッション性が高いのかもしれない。


「これはフィクションだから」と片づけられるのだろうか。

僕はあまりこういう短絡的な考えがあまり好きではない。勿論、フィクションと言えばフィクションなんだけれども、もし「フィクション」という名前が与えられていなかったならばどうなっていただろう。僕は以前にベケットの小説をもじって「名づけえぬもの」について書いたことがある。

何かをカテゴリ化するのは僕は危険だと思っていて、それに寄りかかりすぎるとそこに無意識的に当てはめようと振舞ってしまうものである。これは日常生活のレヴェルに於いても発生することである。例えば「上司/部下」という関係性や「彼氏/彼女」という関係性、「旦那/奥さん」という関係性など。名前を与えられるとそれに当てはまるように動く。言ってしまえば、その人自身として向き合おうと思っても潜在的にそういう関係性で無意識のうちに思考が働くものである。

「名前のない関係性を愉しみたい」

僕はこの言葉を読んだ時に思わず感動してしまった。僕もそういうことについて丁度考えていた時期であったということが大きい。そして何より、そういう関係性も当然含まれるだろうが、人として見ようとしてくれているその姿勢に優しさを感じる訳だ。これも僕の過去の記録で恐縮だが、「何者かでありたい」というのは弱さであると書いたことがある。そして「何者かでありたい」ということから距離を置くことで結ばれる関係性があるというニュアンスのことを書いた。

言ってしまえば、この記録は誰かと誰かの関係性を強くしたいという意図を以てして書いた訳だ。つまりは、名付けられた関係性を超越した部分、そこを超えた部分で様々なコミュニケーションを図ることで濃密な関係性を築きたいという一種の僕の願望であった訳だ。勿論、僕にも名付けられた関係性というものを欲している部分は十分にある訳だが、それでもその関係性を越えた部分で向き合っていきたいというのは常に考えていることである。

だから、僕は名前の在る関係性を否定するつもりは全く以てない訳である。それはある種1つの定点であるからだ。その名付けられた関係性から更にお互いの諸力を交錯させ、シミュラークルを創出していく。その過程は言ってしまえば、その名付けられた関係性の中での宙吊り状態である。それを一緒に創出する中で、その領域が広がり、納まりが付かなくなった際に数段階も上がった、名付けられた関係性を得る。というよりも、与えなければ僕等の精神が持たない。そして再びシミュラークルを創出していく。僕等はこういうサイクルの中で深みを増した関係性が生み出されるはずだ。

僕は最近そういうことを考えている。


しばしば、アニメ作品の悪役に惹かれることがあるということがある。実際、僕も『幽☆遊☆白書』の戸愚呂弟は結構好きである。彼のスタイルというか、敵ながら幽介の先々を考えて悪役に徹したその姿には、僕以外の読者も惹かれたのではないだろうか。

暗黒武道会編、愉しかったな…

冷静にどういう部分に惹かれるかを考えた時に、戸愚呂弟も仙水もいずれにしろ「あそび」そのものだからである。「善/悪」の中で、体裁的にはどちらか一方の立場を取る訳だが、結局双方の為に成るように動く。つまりは、それぞれの中間を行き来することの出来る存在な訳だ。これも言ってしまえば、宙吊りの状態である。至極当たり前な考えだが、彼らはそもそも、というか登場人物全ては「善」にでも「悪」にでも簡単になり得るのである。どこの視点からそれを語るかという部分によるのではないか、と何を当たり前のことを…。

そう考えると『HUNTER×HUNTER』のヒソカは本当に理想的な人物であると言っても過言ではないだろうか。ああいう流動性があるからこそ強いのではないかと邪推して見たりする。彼は僕にとってはだが、正しく「何者でもない」からこそ強いのではないだろうかと思えるのである。念能力にも反映されるバンジーガムは正しくそれを体現しているのではないかとふと思ってみたりする。

グリードアイランドのヒソカが僕は1番好きなんだな…

誰かの何かでありたい。勿論それは強さの1つである。仮面ライダーもウルトラマンも助けを求める人のヒーローでありたい。だが、そういう形ではなくてもヒソカのように自分自身が流動的に、そして広い視座を以て受け入れる姿勢、過度に干渉せずかと言って適切なタイミングで助けられる存在でありたいとも思う。それは宙吊り状態でなければ獲得できない姿勢なのではないかとくだらぬことを考え始めている。

勿論、誰かの何かで在りたいという気持ちは大切である。それは僕も常々感じていることだし、そうありたいと思う。それでも、どこか宙吊り状態な自分の存在も大切にしたいと考えている。それは大切にしたい人に対して柔軟に、そして伝家の宝刀であるところの優しさを育み、いざという時に発揮できるように宙吊り状態の自分も持ちたいと思う。

僕には仮面ライダーやウルトラマンにはなれそうもない。


とこれまで散々書きはしたものの、果たして僕は本当にこういう態度で接しているのだろうか。

自分自身に問おうか。

さあ、お前の罪を数えろ!

よしなに。

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