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革のおはなし-3

書店で初心者向けの本を買ってみた。

キーホルダーやコインケースなんかの革小物の作り方は載っていたけど鞄の作り方は掲載されていない。革鞄の作り方が載っている本を見つけても、ごくごく簡単な鞄ばかり。専門店で売っているような鞄の作り方が載っている本はほとんどない。

次は鞄工場に問い合わせてみた。

住んでいた場所の近くに鞄工場らしき建物があった。「らしき」というのはそこに「鞄工場」と看板が出ているわけではなく「◯◯工芸」という名前の看板が出ていた。でもいつも横を通り過ぎる時に窓際にいくつもの色々なハンドバッグやショルダーバッグが置かれているのが見えた。

その看板の名前で検索してみると、やはり思った通り「鞄工場」であることがわかった。

勇気を出して電話をした。とりあえず「見学がしたい」という電話だった。

「では履歴書を持って◯◯時に来てください」とあっけなく返事が返ってきた。

いきなり面接になった。若い二代目社長が出てきてくれた。

懇切丁寧に仕事の内容が分業化されていて単調なこと。

例えば裁断をする職人は一日中裁断を、糊付けする職人は一日中糊付けを、縫製する職人は一日中縫製をするので、いろんな工程を覚えるのはなかなか難しいことなどを教えてもらえた。

「ところで、この工場でずっと働いてもらえるんですか?」

と聞かれて、心の中で少し躊躇した。革業界のことは知らないけれど、やりたかったのは工場で同じことを繰り返すことなんだろうか?

前職のデザイナーという職業は毎回別の仕事を受けて、それに合わせてデザインをするから、毎回変化があって楽しかった。もちろんデザインの仕事に中にもルーティンワークはあって、同じような単調な仕事をこなす事もある。それに、慣れてくるとそれはそれで楽しい。

うつ病になって「作業」で無心になれることが必要だと自分では思っていたけれど、それをこれからの人生ずっと続けますか?と問われてなんだか違和感を覚えた。

新しいものを考え続けることが自分のアイデンティティの中に確かにあると自覚し始めた。

うつ病はとても厄介である意味怖い病気なのだけれど、それまで心の中に沈んでいたことや、感覚が鈍っていたことなどが浮き彫りになってゆく。

そんなこと気にしていない、と思っていたことが実はとても気になっていたということを自覚したり、それまであまり感じていると自覚していなかったことが本当は敏感に感じ取っていることを自覚したりする。

工場で勤めることは諦めて、革の縫い方を教えてくれる人を探すことにした。

ネットで検索するとそれらしい教室などが引っかかってくるけれど、やはり小物中心で簡易なものしか教えていないし、ほとんどワークショップや体験教室の告知。

ちょっと気になったのは四国で作られている作家さんと鎌倉で教室をされている人物。四国の作家さんはとても研究熱心で鞄本体だけでなく各パーツを様々な方法で自作して、その製法を掲載されている。鎌倉で教えている方は本場イタリアで修行されて手縫いでかなり大きな鞄まで教えておられた。

でも四国も鎌倉も遠いな、と思いながら考えあぐねてしまった。

革材料を販売している卸屋さんなら革教室なんかを知っているかもしれないと思って、卸問屋が並ぶ界隈を散策することにした。

革関係のお店というのは集まって存在する地域がある。これは「革」が「狩猟」の副産物であった平安時代やそれ以後の時代の歴史に由来している。

革業界は「狩猟」を生業にしていたかつての猟師たちはいわゆる「部落」での産業の担い手で、忌み嫌われる「肉」や「血」を扱い、危険な仕事に従事し、険しい山岳地帯で生活しなくてはならないいわゆる「階層の下部」と見られていた人たちが生活のために生み出した産業となっている部分と、加工技術を教えるために大陸から渡ってきた職人たちが集落を形成していた工業地帯から成り立っていることが多い。

その子孫が産業を発達させ、やがて販路になる市街地の遠隔地域で加工業を営むようになった。

「革」で有名な地域はそういう流れを汲んで発達を遂げてきた。

今でこそそういうルーツに対する差別は減ったけれど、それでも「革」を生業にしていることをあまり自慢げに語る人は少ない。欧米の革製品やブランド文化が流入することによって、現在では革産業を誇りとして胸を張れる時代になってきている。

革のことを知るにつれ、必然的にそういう歴史や軋轢も学ぶことになっていった。

散策の途中、何店か足を止めて「革縫い」のことを教えてくれる場所がないか尋ねて歩いたけれど、めぼしい結果は得られなかった。

諦めて最寄駅に帰る途中、これまでの卸店とは少し雰囲気の違うお店の前に通りかかった。

そこが道への入り口になるとはまだ気づいてはいなかった。

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