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【移動する学林 in 京都】参加レポート(2)

藤田一照さん(曹洞宗僧侶)の仏教塾、「移動する学林:Lifeshift Village」の京都開講第2回に参加してきました(2018年10月27日@京都府立文化芸術会館)。

〔9月京都学林の振り返り〕
authenticityをめぐって

10月京都学林は、"ゼミ長"桜井肖典さんからの

前回9月京都学林の中で印象に残っている学びは?
前回の学びをふるいにかけたら、あなたの中に何が残る?

という問いかけで、前回の学びを塾生と一照さんが一緒に振り返るところから始まりました。

次のような"9月京都学林での学びの収穫"の声が集まりました。

① "神なき時代"に、ほんとうの自分・本来の自己と言うときの「本質性、真正性(authenticity)」を何が担保するのか?
② ほんとうの自分を探す道の先にほんとうの自分はいない。探す道の途上、プロセスの中にほんとうの自分のあらわれがある。
③ "人の身体に触れること"の新鮮な体験、"あずける"ことの難しさ

《一照さんコメント》
① 「正しさ、真実性、ほんとう」を表わす英単語には、genuine、true、real、correct、proper、right…など様々あるけれど、authenticという言葉にはどんなニュアンスがあるだろうか…?

むかしは、「神」がそれを権威づけしていたのだろうけれど、"神なき時代"の現代は「わたし」にとって(その人にとって)authenticなものを大切にしよう…という風潮になっているようだ。

② 「わたし」にとってauthenticな幸せ、<ほんとうの自分>を他に探しに行くという構図そのものが、最初から"探し間違えている"
いまの自分が「ほんとうの自分ではない(authenticではない)」と感じてしまう事態とは何だろうか。大事なことに直面するのを先延ばしにして、思わず知らずのうちに幻想を抱いて、ごまかしのカラクリを無自覚に作ってしまっているのではないのだろうか。
<本来の自己>を探すことそれ自体が間違いなのではなく、探し間違いの構図を乗り越えて、探し方を刷新しなければならない。

③ 人と人との最も素朴なつながりであり、careの原初的なありかたは、お母さんが赤ちゃんを抱くように「触れる」こと。
しかし、私たちは往々にして相手を"操作するために"触れてしまう。
私たちは、相手を知るために触れる(listening hand)というやり方をよく知らない。
これはもちろん、手だけがlisteningの状態になっているだけではだめで、「私がlistenする状態」が手に顕れているというあり方が大事。
坐禅においても、listeningの状態が欠けているままで坐る…というのは、やはり片手落ちと言わざるを得ないのではないのか。
坐禅という単純な行いの手前でクリアしていなければならないことがたくさんあって、それをクリアしてできていないことが坐禅を難しくしてしまっていたり、違うものに変質させてしまっている。
「坐禅の手前にあるもの」を解析していく中には、「触れる」という行為が含んでいるものもあるのではないか。

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『自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。
万法すすみて自己を修証するは悟りなり。』

(道元禅師『正法眼蔵』現成公案巻)


「世界(万法、諸法)の中に自己(吾我)を立てる」(オレがいて、その周りに世界がある)というあり方は、現実の実体ではなく解釈、しかも「現実(real)に対する誤った解釈」であって、誤った解釈に基づいて辻褄合わせの行動をするので、現実との間に齟齬・乖離が生じて、その分だけ苦しみを生む。

例えば「マインドフルネスでも勉強して、今よりもマシなオレになればいいだろう」という行動は、その"辻褄合わせ"にあたるのだろうが、マインドフルネスは「そもそも始めの"第一ボタンを掛け違えて"いたことに気づく」ためのもの。

〔世界のほうからわたし(自己)をauthenticateする(修証する)〕
万法(世界、状況)が自己をauthenticateしようとするのを受け取るための"窓"は、「眼耳鼻舌身意」の6つの感覚器官。
世界の中に運び出して、そのことに気づいてもいない自己(吾我)は、その誤った解釈の副次効果として、立てた自己を守ろうとする「防御態勢」(例えば"身体の過度の緊張")を取る。
万法からの修証がすぐ近くまで来ているのに、それを来させないようにしているのは、吾我が自らを守ろうと緊張した状態で感覚器官を使っているため。
また、吾我は変化を嫌うので、未知なるものを警戒して拒もうとする。見たり聞いたりしたものを、既知のものに置き換えて、自分の知っているストーリーの中に押し込んで位置付けてしまう。
"坐禅の手前にあるものの探究"としてのソマティックワークのねらいは、感覚器官を"吾我的に"使ってしまっていることにしみじみ気がついて、それとは真裏の使い方のモードに入れ替えていくことにある。

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〔homeworkのシェア①〕
life in LIFEのアジェンダをめぐって

続いて、先月の京都学林で渡され、各自がそれぞれに取り組んできたhomeworkについて、数名ずつの小グループでシェアし、グループ内でまとまったことを全体にシェアして、それに基づいて一照さんと対話するワークを行ないました。

《9月京都学林からのhomework》
①「life in LIFEのagenda」を感じることができた、あなたの行為や出来事を日々探してください。
②「life in LIFEのagenda」を感じることができるためにはどのような態度が必要か、言葉にしてきてください。

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《life in LIFEのアジェンダ》一照さん解説
① life と LIFE:"波と海"の喩え
波a、波b、波c、波d……それぞれの波が、海から、あるいは他の波からバラバラに離れて独立して存在している(…と無自覚なままに思い込んでいる)のが、「小文字のlife」という吾我(小我)のあり方。個々の波は、すったもんだの”生存競争”のなかで、
 「波のかたちを維持しなければ」
 「もっと大きな波にしたい」
 「かたちをもっとカッコよくしたい」
……というテーマのself improvementが、吾我のstory、「lifeのアジェンダ」になっている。
しかし実は、lifeは大きな海という"大文字のLIFE"(真我)の一部として存在していて、それは自分だけでなくて、どうやら他のlifeもそのようなあり方で生成してきているらしい…ということが観えてきて、気がついてきた人のSTORYが「life in LIFEのアジェンダ」。
サンスクリット語ではこれを「Dharma」と呼ぶし、キリスト教的には「Calling、Vocation(召命、使命)」ともいわれるアジェンダは、「私というstory」をその中に位置づけている大きなSTORYのほうから与えられた責任、義務。あるいは、生まれた時に受け取る「LIFE Mission」。
いま私がしていることが、「(小我としての)私の生存のため」という枠を越えて、実は大きなSTORYの中の私のMissionとしてあったのだな、と感じることができた行為や出来事の経験が、私たちの日常になかっただろうか。

② How to have what you already have
lifeがLIFEのの一部として成り立っていて、私というstoryが大いなるSTORYの中に位置づけられけていることが観えてくると、あらゆること(万法、諸法)は私という存在を「応援してくれているもの」として視野に入って、受け取れるようになる。
私を助けてくれるあらゆることは、もう既にそこに来ているからこそ、海の上の波として成り立たせている。

homework②では、

"How to have what you already have"

(私たちが既に持っているものをどのように受け取るか)

が問われている。

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〔homeworkのシェア②〕
塾生と一照さんとの"青虫問答"

homeworkについて各スモールグループで討議して、全体にシェアしたい内容や、一照さんに質問してみたいことなどを発表して、塾生と一照さんの皆で対話するワークを行ないました。
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〔学林Topics:小出遥子さん来訪!〕
今年の仏教塾「移動する学林」でテキストとして用いた『青虫は一度溶けて蝶になる - 私・世界・人生のパラダイムシフト』(春秋社刊)を、一照さんとゼミ長桜井さんと一緒に作った、小出遥子さん(文筆家)が京都学林に遊びに来てくれました!

遥子さんは、昨年まで「仏教的人生学科 一照研究室」のタイトルで東京で開講されていた仏教塾で、"記録係"として講義録を作成して塾生へ配信する役割で塾の運営をサポートしてくださっていました。
今回は私たちと共に学ぶ塾生のひとりとして、塾に"里帰り"してくれました。

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〔言葉は最後〕(小出遥子さんの発表)

例えば、人の話を"聴いている"ときには、聴いている人の頭の中では様々なジャッジが浮かんでいるのだけれど、浮かんできたジャッジに気づいている方は、何の判断も評価もせずにただ受け止めている。それが「真我としてのLIFE(海)」なのではないだろうか。
眼耳鼻舌身意の感覚器官のノイズを取り除いていって、感覚を磨いていっていまここにあるものを価値判断なく感じられるようになっていったら、言葉が体感をとらえるというより、体感が最後に言葉になっていくのだろう。


《一照さんコメント》

「現量と比量」(唯識思想のことば)

・現量(感覚知):眼に映るまま、耳に聴こえるまま…現に在るそのもの(Real)を経験、体験する。言葉以前の"knowing"。
・比量
(比較知、推量知):言葉を道具として用いて、経験したものを判断、推量して知る。thinking。

私たちの日常的な意識は、現量と比量をごちゃ混ぜにしている。
瞑想は、

 現量(経験そのもの)と、
 比量(経験について考えていること)に、

きちんと区別をつける稽古の営み。瞑想実践者の間でよく言われる「サティ(sati、念)を入れる」という言葉は、現量と比量との間に気づきを入れることと考えられる。

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その他の"青虫問答"も、いくつか振り返ってみましょう。

〔「欲」には、良い欲と悪い欲があるのか?〕

私にとってのlife in LIFEのアジェンダを見つけたい!と思えば思うほど遠のいていく…。でも、見つけたいという気持ちはどうしても無視できない。
この"見つけたいという気持ち"は、「欲」なのだろうか?
欲には、「良い欲」と「悪い欲」があるのか?


《一照さんコメント》

「小欲と大欲、願(がん)」

小欲は大欲に根差したものであるのだけれど、小欲と大欲との間のつながりが"滞って"いると、ちまちました小欲のままで終わってしまう…。
小欲の中に大欲が"反映"されている」という、このような考え方を「願(がん)」という。

〔欲を願いに昇華する〕
「欲をもつのはいけない」とか、「欲を根絶やしにせよ」という謂いの中には、仏教に対するある種の誤解が含まれていて、欲を小さくすればするほど、その中から「願」が登場してくる。

〔私が願う⇒"願われている私"〕
"二河白道の喩え"

小欲を深く観察していくと、その中に大欲がうっすらと反映していることが観えてくる。そうすると、「私が願っている」のではなく、

「願われている私」


がいるのに気づいていく。

私たちのような100%の凡夫(青虫)は、仏になる(蝶に変容する)ことを、二河白道の向こう側から「こちらへ来なさい」と"願われている"からこそ、life in LIFEのアジェンダを見つけたいと願う。この大欲に、小欲を通して気がつくのが大切。

〔欲生の凡夫、願生の菩薩〕

小欲を深く観て(look deeply)、精錬していくと、うっすらと浮かび上がってきている大欲(願)に気づく。それからは、欲に駆られた凡夫の生きかたから、願を動因にした菩薩の生きかたに「転ずる」。


〔四弘誓願 - 菩薩になりたかったらこれを覚えよう!〕

 衆生無辺誓願度
 煩悩無尽誓願断
 法門無量誓願学
 仏道無上誓願成


衆生(生きとし生けるもの)は辺り(ほとり)なく存在する。"だからこそ"、すべての衆生を済度する(救う)と誓って願う。
煩悩は尽きることがない。"だからこそ"断じ尽くすと誓って願う。
仏の教えは数限りなくある。"だからこそ"全てを学ぶと誓って願う。
仏道の歩みは何よりも尊い。"だからこそ"成就すると誓って願う。

無辺、無尽、無量、無上。
"無限"に挑もう」という姿勢は、単なる"art of living"やライフハックに留まらない、仏教が「宗教」である所以。

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〔LIFEを"状況を変える"というかたちで具現化するには?〕

lifeの問題を解決しようとするのが、私にとってのLIFEのアジェンダなのかどうかは、自らを省みながら常に確かめていかなければいけないけれど、私の周囲の"社会"にとってgoodなことを生んでいく(社会を変えていく)ために、LIFEをどう表現していけばいいのか?


《一照さん&兼松佳宏さん(勉強家)コメント》


〔空海さんのソーシャルデザイン的アイデア〕
「菩提心を因と為し、大悲を根と為し、方便を究竟と為す」(大日経 住心品)

1.本来の自己を見出したいという願い(菩提心)を出発点として
2.全ての衆生を救おう(状況を変えよう)という心(大悲)が引き出されて
3.プロジェクトとしての「方便」としてかたちにしていく

その人の苦しみ悲しみを取り除こうとするだけでなく、どうやったらその人が楽しくいられるか(抜苦与楽)が、ソーシャルデザインとしての慈悲のアプローチの指針となる。
aさんというlifeと、bさんというlifeが意見を対立させている状況で、どちらの意見が正しくて、こちらは間違っていると"断罪する"態度ではなくて、双方の願いがどこからやって来ているのかを深く観る視点をもつと、実はどちらの意見もそんなに違わなく見えてくるのではないか。

〔神は"はたらき"であり、"場"である - 視点の変化〕
対立した状況は、調和が取れて安定する方向に物事を動かそうとしてあらわれていて、そのはたらきが神であって、あるいは「愛」とも呼べる。

場が調和を願っている」というかたちで、私たちは願を受け取る。

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〔世界との再接合のプロセスと、その先〕

小さなlifeのすったもんだの中に振り回されている自分。
その一つひとつのすったもんだは、大きな全体性の中で捉えると、その時その場で必要なものとして表れているということに気づくことがある。
しかし、大きなLIFEからの視点で見ることに気づくと、また小さなlifeの問題に振り回されるのが気になったり…。
大きな全体性へと向かう、小さなlifeと大きなLIFEの往還のプロセスを、どう捉えるか…。

《一照さんコメント》
「"手のひらモデル"とグラウンディング(Grounding)」
指の一本一本は、手のひらでつながって統合されているからこそ、それぞれの指のはたらきを果たす。
小さなlifeの問題の解決には、問題それ自体を解決しに行くことよりも、解決されるための力が働く「場づくり、条件づくり、文脈づくり」が重要。
その"場"に、しっかりと足をつけている(Groundingしている)と、問題解決のための能力は自ずと発揮されるのではないだろうか。

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〔Why me?の転換〕

「どうして私はこんな目に遭う?(Why me?)」という感覚を、自分の人生の味方につけるための転換とは?

《一照さんコメント》
「ヨブ記」:"義人の苦難" 正しい人に悪いことが起こる試練

「Why me?」が、「どうして私にばかりこんな不幸が訪れるのか?」からWhy me?のままそれを「感謝」として受け取れるようになる転換が起こるのが、宗教性の持つ特質
Why me?の「me」について、永井均氏の哲学にいう「独在性の<私>」には、神さえも根拠づけできない。「<私>には、根拠がない」ことをしみじみと受け入れ、その根拠のなさに「お手上げ」することができた時に、転換が起きる…というか、Why me?それ自体は消えないけれど、「Why me?の味わい」が変わってくるのかもしれない。


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〔ソマティックワーク〕
"気配"を感じる背中呼吸の稽古


〔動きつつ動かされるワーク〕

講義後半のソマティックワークの時間には、まず初めにウォーミングアップ代わりに、つながりの中で"動きつつ、動かされる"ワークを実修しました。
3人で手を鎖のようにつなぎ合って、瞑想的でゆったりとしたウォン・ウィン・ツァンさんの音楽に合わせて舞うように動きます。
手をつなぎ合っている他の2人の動きにも、感応しながら受け入れていきます。

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〔背中の気配を感じる呼吸〕
続いて、"目に見えないものを感じる"ための「背中呼吸」の稽古を行ないました。まずはその準備として、「体軸は、"背骨の前側"にあります」という一照さんからの解説があり、そのあとは仰向け・うつ伏せの姿勢になって、背骨の前側があたかも"雨樋"のようになってそこを呼吸が通っていくのを感じていく稽古。

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そして、2人一組で背中合わせに坐って、仙骨から背骨の上の方まで、できるだけすき間ができないように触れ合いながら、吸う息とともに背中を通じて相手から息を受け取り、吐く息に合わせて背中から相手へ息を送り込んでいきます。
その後、合わせていた背中を離して、互いに触れていなくても、気配によって私が支えられているのを感じる稽古を修しました。

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〔岡田式静坐法〕
最後に、9月京都学林からのhomeworkとして各自で取り組んできた「岡田式静坐法」を、全員で円座となって行いました。

まずは各自それぞれで数分間静坐。
その後、隣の人と掌を重ね合って、吸う息とともに左隣の人の掌から気を受け取って、吐く息とともに右隣の人の掌へ気を送っていく。反対周りでも行います。吐くひと息の中でできるだけ遠くの人にまで気が行き届くように通していきます。

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(筆者感想)
この10月開講をもって、仙台から名古屋、京都とめぐってきた「移動する学林」の1stシーズンが終わりました。
今回の10月京都学林では、「life in LIFEのアジェンダ」をめぐって、様々なバックグラウンドをもった塾生の皆さんのそれぞれの暮らしの現場での体験に照らし合わせる形で、
 
 「小我としてのlife、真我としてのLIFEとは?」
 「lifeの小欲とLIFEの大欲との関係は?」
 「LIFEからの"願(がん)"を受け取る態度・姿勢とは?」


などの問いかけに、一照さんからは、浄土真宗の教学や弘法大師空海の思想、インドのスピリチュアリティや旧約聖書に至るまで、禅にとどまらず様々な幅広い視点から答えて、学林らしい自由闊達な対話が今回も繰り広げられました。
中でも、"菩薩道に生きるための人生の宿題"として私たちに渡された「四弘誓願」には、仏教が本来持つ"宗教性(スピリチュアリティ)"が最もよく表れている、と語ってくださった一照さんの「熱さ」が、とても印象に残っています。

私にとっては、「仏教的人生学科 一照研究室」から「移動する学林」へと続いてきた、一照さんの仏教塾で学んだ3シーズンが終わりました。

「私にとってのauthenticity、って何だったろう?」
「私というlifeが願われていること、って何だろう?」

と振り返ってみるとき、「塾で過ごすこと」それ自体が、私にとってのauthenticityだった…というか。
今月12月に私が個人的に特に"ハマった"学び、17世紀オランダの哲学者スピノザの『エチカ』にいうところの「コナトゥス=私の活動能力(生きる力)を高めるはたらき」が、塾で過ごしているときに最も活発だった…ように感じています。だからこそ、そこから力を得て、この様なレポート(…というかもはや「私のための学習ノート」になっていますが)をつくることもできるのです。

とてもコンプレックスが強い「卑下慢タイプ」(…と自分では思っている)の私のコナトゥスを引き出し高めてくださった、学林の塾生の皆さんと一照さんに、心から感謝しています。ありがとうございました!

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