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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/09)学習ノート③

(ここまでの9月一照塾)
「参究とは何か?」をめぐる一照さん講話、「何があなたをこの塾へ連れてきた?」の想いをシェアするグループワークの模様は、学習ノート①から。
「学道用心集」への導入として皆で読んだ詩、「Hokusai says」と、「Instead of A, B.」の構文を通じて学びのクオリティシフトを考える一照さんの講話の模様は、学習ノート②をご覧ください。

この学習ノート③では、「学道用心集」を執筆するまでの道元禅師の生い立ち・足取り、また「学道用心集」という書物の概略についての一照さんの講義について振り返っていきます。

1. 「学道用心集」執筆までの道元さん

鎌倉時代の1200年に生まれて1253年に亡くなっている道元さんという人物のことを、皆さんがどれだけ知っているかは分かりませんが、道元さんがどんな人物だったのかということについて触れながら、話を始めていきたいと思います。

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道元さんは1200年生まれ。お坊さんにならなかったらもしかしたら天皇になったかもしれないくらいの、非常に高貴な貴族(久我家)の家柄の生まれです。
道元さんが8歳の頃にお母さんが亡くなって、それが一つの機縁になって、"浮世のはかなきを知って"出家されて、比叡山に入られます。
道元さんは非常に聡明な方だったので、全ての経典を読み尽くしたのだけれど、どうしても解けない問題があることに気づいた。

経典には「人間は本来仏である」と書かれているのに、仏教の歴代の優れたお坊さんたち、祖師方というのは、なぜわざわざ道に志して、わざわざ苦しい修行をして悟ったのか?

「仏なのになぜわざわざ仏になる努力をするのか?」という疑問です。

修行とは、いったい何のためにしているのか?
どちらの方向を向いて行なわれる、どういう営みなのか?


当時はそういう問題意識をもって修行をしている人はほとんどいなくて、例えば貴族の次男や三男みたいな人が「身過ぎ世過ぎ」で生き延びるためにお坊さんになったりすることが多かったし、既存の出来合いの仏教の教義や経典を勉強して知識を増やす…ということが仏教であると思われていたわけです。
道元さんは「仏教って、ほんとうにそんなものなの?」という大きな疑問をもったのですが、日本ではその疑問に答えてくれる人がいなかったので「宋に行くしかない」ということで…インドにも行きたかったのかもしれないけれど、「本場の中国に行ってみよう」ということで、24歳の頃に宋代の中国に渡ります。

2. 正師を求むべき事

宋でも道を求めていろいろなところを遍歴するのだけれど、どうもピンとくる人にめぐり会えない。「在宋五年」のうち、3年くらいたったところで「ちゃんと眼が開いた人は、中国にもやっぱりいなかったんだ…」と絶望的になっている頃に、「如浄禅師という人が、天童山のお寺に入られた」といううわさを聞きつけて、行って実際に如浄さんに会ってみたら、見た瞬間に「この人こそ、私のほんとうの師である」という直感を得ました。

この学道用心集にも「参禅学道は正師を求むべき事(用心第五)」ということで、正しい師を得ることの重大さをとても強調していますが、それは道元さん自身の身に起きたことだからです。
正しい師を見つけるということも修行の一つとして織り込まれているということです。というのも、仏法というのは本を読んだら分かるという話ではないからです。本というのは言葉でデジタルな感じで情報が説かれていますから。

3. アナログな学び ~ オーガニック・ラーニング

しかし「Instead of A, B.」というところの"機微"というのは、アナログでなければ伝わらないものがあるので、実物を見ていないといけないわけです。その辺りは「AI」には無理なんじゃないでしょうか?

私はそれを「オーガニック・ラーニング」という言い方をしていますが、喩えで言うと、霧が立ち込める中を歩いていると、着ている服が知らない間にぐしょぐしょに濡れる…というイメージです。
いつ、どんな形で学んだのか分からないのだけれど、学びが身について変わってしまっているし、言葉で説明できないのだけれど"出来ちゃってる"というようなことです。意識も使っていないことはないのだけれど、あまり意識的にやっていないような学びがある。

禅だと「毛穴から染み込むように」という言い方で言われます。
それは禅の道場での"提唱"で、

老師が提唱している間、ほとんどの修行僧は居眠りをしている。起こそうとすると、老師が「仏法は毛穴から染み込むものじゃから」といって、起こさないで寝かしておく…

という場面があります。
「起こせばいいのに」と私などは思いますけどね。「毛穴から染み込むなんて…寝てたら入ってこないだろうに」(笑)

§

何の話でしたっけ?(笑)

宋での最後の2年くらいが、天童如浄さんの下で学んだ時期になります。ここで道元さんに「学びのクオリティシフト」が起きたんですね。
「身心脱落」と呼ばれている"体験"…「分かった!!」とガッテンした。
しかし、それで答えを全て知ったということではないと私は思っていて、「修行の方向性がはっきりした」ということだと理解しています。
「Instead of A, B.」、修行はAではなくてBだった、「習禅ではなくて坐禅でなければならない」ということが分かったということですね。
修行の方向性がピタッと定まれば、あとはそこを歩いていけばいい。

4. ダメな修行とヘタな修行

私はよく「ダメな修行」と「ヘタな修行」があるということを言っています。

ダメな修行:方向が見当違いなので、やればやるほど遠ざかってしまう。グルグル回りなので、流転輪廻するしかない。
ヘタな修行:ただヘタなだけなので、正しい道の方向に従って上手になっていけばいい。

ブッダにもこういうことがありました。仏教の側から見てダメな修行ということですが、お城を出た後にやった「瞑想と苦行」は、結局放棄していますので、仏教的に言うとそれは仏道修行ではなかったということです。ブッダもそれを止めて、菩提樹の下に坐ったときにシフトが起きたのです。
ダメな修行は、一生懸命やってもカルマを生むだけなので「修業」なのですね。一方、「行」の字を書く修行は"学修"で、「Learning to learn」です。

5. 帰国 ~ 「普勧坐禅儀」

在宋五年を経て、27歳の頃に日本に帰ってきます。その時に書かれたのが「普勧坐禅儀」です。

「習禅ではない坐禅」を見つけたので、それを弘めようということで、坐禅のやり方を説いたものです。

6. 深草閑居 ~ 「弁道話」

その頃、道元さんは「建仁寺」に住していたのですが、宋に行っている間に建仁寺もちゃんと修行できる雰囲気ではなくなってしまったようで、建仁寺を出て京都の深草というところに仮寓(仮の住まい)を建てます。1230年のことですが、これを「深草閑居」と呼んでいます。

深草閑居の頃の1231年に書いたのが、この塾の前期に東京で読んだ「弁道話」です。道元さんが中国で如浄禅師から正式に受け継いだ、それまで日本で誰も聞いたことも見たこともなかった「正伝の仏法」を伝えよう!という熱い思いに満ちた書物です。

ただ、その頃はまだ機縁が熟していないので、"深草に於いてその時が来るのを待っているのだ"というようなことも書いています。

しかあるに、弘通のこころを放下せん、激揚のときをまつゆえに、しばらく雲遊萍寄して、まさに先哲の風をきこえんとす。
(弁道話)

道元さんの頃には、仏教はもう既に伝わってきていたのですが、唯識とか倶舎論や戒などを研究する、奈良時代の学派的な"学問的仏教"があって、空海さんと最澄さんが伝えた、平安時代の密教的なもの、あるいは「鎮護国家」的に、仏法の持つ呪術的な"法力"みたいなもので国を護るための仏教。あるいは、死んだらあの世の"いいところ"へ行くための「往生」を願うような仏教が、それまでの仏教だったわけです。

しかし、鎌倉時代になると、その様な仏教ではもう通用しない、時代の要請に応えられなくなったということで、そこで日本が大きく変わるわけです。それに伴って、仏教もアップデートせざるを得なかったのです。
その象徴的な事象というのが、いわゆる"鎌倉新仏教"を創始した、法然さんや親鸞さん、一遍さん、道元さん、栄西さん、日蓮さん…といった人たちがが比叡山で勉強していたのだけれど、そこの仏教に満足できずに山を下りた、ということです。

538年に日本に仏教が伝来して以来、道元さんが生きていたのが1200年代なので、600年以上が経って、それまで"輸入もの"だった仏教が、非常に日本的なものを備えるに至ったわけです。日蓮宗のような教えは、他の国の仏教にはないわけですから。
しかし、彼らは比叡山を去ってはいますけれど、奈良仏教や平安期の仏教の地盤の上に鎌倉仏教が生まれているのでもあります。

7. 興聖寺建立 ~ 「学道用心集」

1233年に、京都・宇治に「興聖寺」を建立します。この塾には、興聖寺にお勤めの方も参加されていますが…。

永平寺よりも前に道元さんがつくった、日本で最初の曹洞禅のお寺ということで、非常に由緒あるお寺ということになりますね。
この時に初めて、高いところに上がって壁に向かって坐禅するスペース(これを「単(たん)」といいます)を備えた伝統的な僧堂が興聖寺にできたということで、"坐禅発祥の地"とも言われますが、道元さんも非常に喜んだということです。

8. 「学道用心集」概略

そしてだんだん弟子たちも集まってきて、「摩訶般若波羅蜜」とか「現成公案」といった、『正法眼蔵』の最初のほうの巻が書かれて、1234年に、この「学道用心集」が書かれました。道元さん33歳から34歳…"若い頃の作"ということですね。

今年の仏教塾は、道元さんが30歳~31歳の頃に書いた「弁道話」と、その3年くらい後の「学道用心集」をテキストにしています。つまり、「さあ、これからやるぞ!!」というような、新しいプロジェクトが始まる時の興奮に満ちた…道元さんがどんな顔をして興奮していたか想像つきませんが(笑)、「やるぞ!!」という気概に満ちた時に書かれたものだということを、これから読むにあたって念頭に置いておいてほしいと思います。

もちろん、道元さんは"書きっ放し"で終わったわけではありませんでした。書いたら、それに基づいて「話して」いるのです。話した時の聴き手(弟子たち)の反応を見て、書き直しています。
なので、道元さんが書いた時そのままのオリジナルが伝わっているというよりも、道元さん自身がその後に手を入れている、あるいはお弟子さんたちが筆写して伝えてきたということが言われています。

予め皆さんにお配りしてあるレジュメの表紙には「永平初祖学道用心集」というタイトルが書いてありますが、永平というのは永平寺のことで、学道用心集を書いた頃にはまだ永平寺はできていないので、道元さんが永平とつけるわけがない。実はこれは後の時代になってつけられた題名です。
また、用心集の「集」の字も当初はなくて、「学道の用心」みたいなものだったのではないかと考えられています。

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第一から第十までの10個の用心が書かれているのですが、この順番も必ずしも道元さん自身が考えたものではなくて、お弟子さんたちがこういう順序に並べたのではないかといわれています。
そういう細かいところは、学者さんが調べればいいことなので、私たちは「道元さんの学道の用心 全十か条」というような感じで受け取ればいいと思います。

それでは、さっそく読んでいきましょう!

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……このあと、「学習ノート④」に続きます。


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