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オホーツク人の食卓/モヨロ貝塚館

オホーツク食の旅で、一番楽しみにしていた目的地はモヨロ貝塚館だった。

モヨロ貝塚は、縄文からアイヌ文化に連なる北海道の在地文化の流れとは異なる、大陸からやってきた北方文化(=オホーツク文化)の存在を明確に示すことになった、非常に重要な遺跡である。オホーツク文化に明確な関心を持ち始めたのは、2018年の夏。そのときから、遠くにいても手に入る情報はずっと追いかけてきたけれど、やはり彼らが生きていた、その場所に立ってみたい、と思っていたその願いがついに叶った。

網走市内を抜けてたどり着いた、網走市郷土博物館の分館であるモヨロ貝塚館は、2015年に建て替えられたばかりの新しい施設だった。何かの写真で見かけたのが、貝塚の真上に建てられた、朽ち果てそうな木造の建物だったので、ちょっと拍子抜けしてしまった。

勢い込んで地下に降り、最初に観たのは、おそらく旧館のつくりを引き継いだと思われる、実際に出土した貝や骨をつかって遺跡を再現した貝塚だった。私の身長と同じくらい深く、積み重なる貝の深さに圧倒される。その一方で、彼らにとっては単なる食べかすの、しかも、分解されずに残る骨や貝だけから、私たちが、必死に彼らの食生活を想像しようとしているとしたら、彼らからは、とても奇妙に見えるだろうなと、ちょっと可笑しくなった。

地上に戻って、展示を見始めると、非常に整理された構成とポイントを押さえた解説で、私の訪問の目的である、オホーツク人の食をイメージするためには、十分な遺物と資料が提示されていた。

印象に残ったことをあげていく。穀物については、大麦、キビ、アワの種子が見つかっているが、大麦に関しては大陸系の品種であること。栄養摂取については、クジラ、アザラシなどの海獣、アホウドリ、カモなどの鳥獣、サケ、ニシンなどの魚類やマガキ、ハマグリなどの貝類などから動物性タンパク質や脂質を摂取していたところが注目されがちだが、同時に、オオムギ、キビなどから炭水化物、胡桃やアサなどから脂質、山葡萄やキイチゴなどからビタミン、糖質などを摂取していたこと。遺物をもとにつくられた狩猟採集カレンダーからは、夏には海洋漁撈、冬には海獣狩猟と、通年で海からの食料調達ができていることが見てとれ、冬季も継続的に食料調達ができていたのではないと想像されること。

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しかし、イメージが一気に加速したのは、復元された竪穴式住居の中にあった3つの土器を観たことだった。炉にかけられた土器には、貝塚から発掘された様々な貝が入った鍋料理と粥のような料理が入っており、祭壇の横に置かれた土器には、山葡萄や胡桃、ドングリなどの山の幸が入っている。

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土器は本物だが、料理や果物、堅果は、遺物から食べていただろうと想定されるものの食品サンプルだ。

ただ、しっかりと実際の遺物を観せた上での、この復元展示には、本当に説得力があり、そこから、じゃあ、季節が春だったら、どんな鍋を食べていた?特別な日だったら何を入れていた?と、一気にイメージが広がる。私たちが料理によって鍋を使いわけるのだから、土器のサイズは、彼らの料理のバリエーションを示している?など、それまで、それぞれの違いもよくわからず、ただただ並べられているように見えた土器も、誰かの家の台所にある、様々な鍋と器に見えてくるようになったのだ。

そして、興奮冷めやらぬまま、館外に出る。発掘された竪穴式住居跡の脇に立つと、木々の隙間から、網走川の河口が見える。当時と海岸線は違っている可能性が高いけれど、それでも、住処の前に海がある、というその距離感を実感すると、今日の食事のために、貝を採りに行くオホーツク人の後ろ姿が、浮かび上がってくるような気がする。

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遺跡の周囲をめぐる森の散策路には、初夏の木々や草花が青々と茂っていた。それらを見ながら、オホーツク文化の時代から、生き延びてきた植物が、この中にきっとあるはずで、彼らもまた、それを摘んで、鍋に入れたに違いないと、ひとり妄想を膨らませていた。

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