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不登校じゃなくたって。

先日、豊中市内で親の会を開いている方とお話をしていた。時より僕自身がフリースクールを始めるにあたって、相談させていただいていた方です。

最近の報道をみている中で、これから不登校の子どもたちが増えるのか、減っていくのかわからないというようなことをお話ししたところ、「荒川さんね。不登校ももちろん大変なんだけど、不登校じゃない子も大変なのよ。」とおっしゃられました。

生きづらさは見えない

親の会では常に不登校の子どもをもつ親だけが集まるわけではない。自身の子育てに悩みを抱えている方がおられる。それは学校に当たり前にいけているからと言ってなくなるものではない。

いじめられたり、人間関係が苦手だったり、色々な形で孤立している子どもたちがいる。助けを求めるのが苦手だと親にさえうまく伝えられないこともある。

僕はどうだっただろうと自分のことを振り返ってみる。そして、その通りだと納得する。僕は不登校だった時期がない。それでも生きづらさを感じていたのは確かだった。

大阪市でフェイスシールドが配られる

そんな話を取り止めもなくして、次回の日程が決まり次第連絡しますと言ってもらって解散した。その日の帰り、数日前のある日のニュースのことが頭をよぎった。

フェイスシールドでコロナ防げ 児童ら17万人余に配布へ 大阪市

僕ら「ころころ」も感染症対策は万全に行った上で運営したいと考えている。「子どもたちに万が一のことがあったら…。」と思うからだ。

しかし、同時にどこかでこうも感じている。

この子が、子どもでいられる短く、あっという間に過ぎ去るこの大切な時期に、人との関わりを絶たれ、学びの機会を失い、身体まで拘束されている。

僕は生まれてこの方、フェイスシールドをつけたことはない。彼らは「新しい日常」と呼ばれる世界の中で当たり前にそれを着用して生活することになるのだろう。

そのことの生きづらさは見えない。感染すれば陽性か陰性かで状態が可視化される。それには白黒つけることができる。しかし、「生きづらさ」に白黒つけることはできない。その気持ちは客観的にどの程度か見えてはこない。

フェイスシールドをつけて、感染者は0でしたとなり、書類の上では何も問題がなかったことになるかもしれない。

その一方で、フェイスシールドをつけたことによる子どもたちのストレスは見えない。少し息苦しくて、フェイスシールドを外した瞬間に「あっ、あいつフェイスシールド外してるで!」と周りの子から言われて傷つく子どもたちの気持ちは見えない。

その結果、フェイスシールドではなく、友達との付き合いを敬遠するようになる子どもたちの人間関係の変化は数字には登ってこない。

命が大切。その論理は社会現象の中で「強すぎる」。もはや、絶対的善とさえ言える威力がある。子どもたちに「万が一」のことがあったら。だから僕らも感染症対策は怠らない。でも、同時に考慮したいことはある。

その10000回に1回起きるかもしれない最悪の事態のために、失われているものはないだろうか?

可能な限り、僕らは生きてることの豊かさを大切にした教育の機会を届けていきたい。もちろん、不登校である子どもたちにも、そうでない子どもたちにも。

生きづらさを感じること。それはよりよく生きたいという願いの現れだと信じて。

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