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合宿対話の振り返り - 失われた魂を探して -

全体性の感覚を思い出してみよう。あのような感覚から離れて日常的リアリティに戻ることはとても難しい。素晴らしい休暇、充実した関係、強烈な肉体的体験から戻ってくることは痛みすらもたらす。自己の全体性との接触を失うのを恐れてのことだ。 - シャーマンズボディより

先日、2/15 - 2/16に対話の合宿を行った。その前に様々なトラブルを体験していたことと重なり、終了後はかなり塞ぎ込み、疲弊していた。

今、様々な瞑想や呼吸、イメージを通じて、少しずつ日常生活に帰ってきている感覚がある。

感想というか振り返りも含めて文章を書き残しておきたい。

それは、ある面では僕からのメッセージだ。

参加してくださった皆さんにも、参加できなかったけど、期待してくださっていた皆さんにも何かが届くことを願って。

また、今の自分自身、あるいは、これからこの文章を必要とするときの自分に向けてのメッセージでもある。

全体性を生きることについて

冒頭、引用したのは愛読書の一つ「シャーマンズボディ」の一節だ。全体性とはより大きなものとつながりを持ったような感覚だと僕は理解している。

この文章は何度読み返しても身にしみる文章の一つで、素晴らしい体験のあと、その名残に心を奪われて日常生活に支障をきたすことが僕にはある。

ちゃんと心が日常に帰る準備ができるところまでが合宿だという感覚こそ、プログラムづくりには必要かもしれない。

みんな無事に生活できているだろうか?

ちなみに、冒頭の文章には続きがある。

この世に戻って来れば、日常生活における自分の特別な課題を終えるまで、待たねばならない。その課題をやり遂げた時、はじめて自己の全体性を統御できる。

ここからは僕の解釈であるが、その課題とはおそらく誰もが持っているトラウマや周囲の社会的通念など、私たちが私たちであることを阻害する何かとの関係性の状態であると思われる。

自己の全体性を生きようとする時、自己の中にあるものは常に誰にとっても受け入れやすいものではない。

もっと言えば、誰にとっても、自分が生きている日常が何事もなく流れていくことに関心があるのであって、他者が自己の全体性を生きることはさほど関心に上らないだろう。

これは遠い誰かの話ではなく、僕の話でもある。

僕は日々、仕事をしていて、いちいち他者がもつ厄介な問題を持ち込まれることは望んでいない面があるし、トラブルの対応に追われることも望んではいない。

僕も他者にとっては自己の全体性を阻害する存在になっていることがある。

私たちは周囲の世界を変えることは不可能ではないかもしれないが、おそらく誰かが変わってくれることを待つよりも自分自身がその課題との関わり方を見直す方が幾らか現実的であるように思われる。

その課題をやるということが具体的には何を指すのかは、それぞれがそれぞれのプロセスに耳を傾けてみるまではわからないだろう。

「嘘」をつくということ

僕はほんの些細な瞬間に「嘘」をつく。

辻褄を合わせるため。

人を傷つけない、あるいは自分が傷つかないため。

関係性を維持するための方便や相手に好かれようとするお世辞もその中には含まれる。

なんであれ、「嘘」はフィクションやファンタジーの表れであると思う。自分自身の無意識な「嘘」には、まだ生きていないフィクションやファンタジーが部分的には表れているだろう。

関係性を維持するための方便が必要なのは、関係性が悪くなりつつあると感じているから。

相手に好かれようとするのはこのままでは嫌われたり、愛してもらえないとどこかで思っているから。

「これが真理だ、どや」みたいな感じでは受け取って欲しくはなくて、僕が「嘘」をつくときの真実は割とこんな感じというのをシェアしたくて書いている。

「嘘」はアートだと思う。ある種の演劇のような側面を含んでいる。

今回の合宿ではこの嘘を扱ってみた。合宿のワーク後には自分の願望のようなものに気づいたという声をいただいたけれど、どうか皆さんに伝えたいのは、どれだけ恥ずかしい願望に気づいたとしてもそういう自分を大切にして欲しいということ。

それは「嘘」をついて生きてくださいということではなく、その願望を持っている私が納得できる生き方とはどんなものだろうかと静かに内省してみて欲しいということ。

例えば僕がついた嘘に「ジャニーズのりゅうです」というものがある。入力してみても恥ずかしいが、この真実を静かに見つめてみると僕はもう少し自分の明るく、華やかな面を表に出してみて、人と関わってみたいということだった。

これは、僕の内的なリアリティとして自分が暗くて、地味な人間だというリアリティのカウンターパートとして存在していると思われる。

明るく、華やかな面を生きるために、歌って踊る代わりに、自分が大切にしたいことを人と分かち合う講座やワークショップを自分の名前を全面的に出してやってみることなんかはエキサイティングかもしれないと思った。

ちなみに内省してみると履歴書をジャニーズ事務所に送ろうとはあまり思わなかった。心理的抵抗でもあるのかはわからないが、皆さんが持っている「願望」そのものを形にする必要は必ずしもないと思われる。

大切なのは自己の全体性を回復するエッセンスを捉えられるかだと思う。

コミュニティの発展

最後に振り返りというかこれからのことについて少し考えてみたい。今回、多様な人で集まり、様々な対話を行った2日間だった。継続的に学び合うオンラインのコミュニティがあってもいいかもしれないし、半年後や一年後を見据えて今から企画してもいいのかもしれない。

何よりの願いは自分、他者、コミュニティが全体性を回復できるよう、その声に耳を傾けられる人が増えること。

そして、その未来では「平和」よりも「調和」の方がしっくりくる。多様なものがごちゃっと存在し、それぞれが葛藤しながらも、溶け合い、その素晴らしさが見え隠れする。

全てが整然と整えられた正しい社会よりも、そんな全体性を伴った美しさのある社会の姿が僕にとっては居心地よく感じられる。

そして、それは深い次元に耳を傾けることから始まるように思われてならない。

いずれにしても、僕はこれからどうなっていくのかまだまだわからずにいる。そして、まだ少し疲れてもいるし、身体はまだ休みたがっているように感じる。

それでも自分の別の側面は次の場所へ動き出そうと少し疼きだしている。

混濁した葛藤の渦を少し通り抜けつつあるがまだまだ本調子とはいかない。それでも、少しずつ次の自分に向けて歩みを進めていきたい。

改めてになるけど、参加してくれた皆さん。同じ時間を過ごしてくれてありがとう。心から感謝している。

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