目的をもって勉強をしない

僕は勉強が好きだ。好きというよりもう、生き甲斐のようである

それは異常な執着のように思う。
高校で受験勉強をしていたときには、考えたことはなかった。その頃は大学に行くための漠然とした、センター等というものを切り抜けるために、そして志望校のテストに受かるために勉強をしたものだった。結果として僕はセンターで拾った二つの内から一つを選び、そしてデザインをやるようになった。
このときから心に残っていることが二つ有る。

1つは劣等感
高学歴な家族に囲まれた僕は、高い大学に行くことができなかった。僕の心に来たのは高い大学に行けなかったことではなく、第一志望に受かるような努力をしきれなかったことだ。現役のときから絶対に浪人をしないと決めていた僕は、2年のときに既に合格できたレベルの大学に通うことになった。2年から3年の間であまり成長を感じなかったことが、主な原因だと思う。かくして僕は学歴コンプレックスを抱いたのではないだろうか。

もう1つは選択をした時の覚悟
もともとさまざまなことに興味があり受験時は語学と情報と法とデザインを受けていた。受かったのは法とデザインで。どちらにいくかを僕は悩んでいた、、最初の20分ぐらいは。
しかし思い直した、よりおもしろい方にいこう。そしてそれはデザインであると。そしてきちんと努力することを誓ったのだ

さて、勉強をする理由とはなんだろうか。
多くの人にとって、勉強とは目的をもってするものだろう。なにかの試験のために、専門知識を手にいれるために、なにかの目標のために。
今日は、それ以外の理由で勉強をする人たちについての文章だ。世の中こんな人も居るんだよって

学校とは、そもそもなんのために出来たものか。
過去を辿れば古代ギリシャのスコラだかなんだかは奴隷ではなく知識階級のために作られた。世の中のすべてを知り尽くそうというのは人類の夢なのだ。

新たなことを学び、自己の研鑽に励むことでより高みに昇華できることを僕は願っているのだろう。

全知を目指して、今日も僕は学ぶのだ

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